第一章 偽りの再会
カフェの窓から差し込む午後の柔らかな光が、僕のカップに揺れるコーヒーの表面をきらめかせた。高野悠斗、二十代半ばの僕は、目の前の女性、結城澪の笑顔に、心の奥底で熱いものが込み上げるのを感じていた。
「まさか、こんなところで澪に再会できるなんて。あのバイト辞めて以来だから、もう五年ぶりくらい?」
僕がそう言うと、澪はふわりと笑った。ミルクティーを啜るその仕草は、昔と少しも変わらないように見えた。けれど、その微笑みの奥に、どこか戸惑いのような影が宿っているのを、僕は見逃さなかった。
「五年ぶり、かぁ…」澪は呟き、窓の外に目をやった。「悠斗くん、ずいぶん昔のことまで覚えてるんだね」
「そりゃそうさ。澪がいたから、あの地獄みたいな皿洗いのバイトも乗り切れたんだから」僕は笑いながら、あの蒸し暑いキッチンの記憶を辿った。フライパンを振り回すシェフの怒鳴り声、油の匂い、そして休憩時間に二人で食べたコンビニのおにぎりの味。全てが鮮明に蘇る。
「そういえば、あの時、僕がシフトでミスしてさ、店長にこっぴどく怒られた日があっただろ?澪がこっそり僕の分まで皿を洗ってくれたんだよな。あの時、本当に助かった。澪が『気にしないで、お互い様だよ』って言ってくれたんだ」
僕の言葉に、澪の視線が僕の顔に固定された。その瞳は、深淵を覗き込むように暗く、しかし同時に、何かを必死に探しているかのようだった。カフェのBGMが、まるで僕たちの会話に合わせるように、少しだけ音量を上げた。
「…そんなこと、あったかな」
澪の声は、ほとんど聞き取れないほどの小ささだった。僕は驚いて顔を上げた。
「え?覚えてない?あの時、僕、本当にへこんでて、澪がいなかったら立ち直れなかったと思うんだけど」
澪は、再びふわりと笑った。今度は、先ほどよりも一層、ぎこちない笑みに見えた。
「ごめんね、私、ちょっと記憶力が悪いのかな。でも、悠斗くんがそう言うなら、そうなのかな」
僕は首を傾げた。あんなに鮮明な記憶なのに、当の本人に忘れられている。それは少し寂しく、しかし、同時に不思議な興奮を僕に与えた。もしかしたら、僕の記憶は、澪にとってそれほど重要ではなかったのだろうか。あるいは、僕の記憶が、何らかの理由で、少しだけ「美化」されているだけなのだろうか。僕はその可能性に、胸の奥で小さな違和感を覚えたが、目の前の彼女の魅力に、すぐにその違和感は霞んでいった。
第二章 書き換えられる過去
澪との再会は、僕の日常に新しい色をもたらした。互いにフリーランスで働く僕たちは、時間の融通が利きやすく、頻繁に会うようになった。カフェでのランチ、公園での散歩、夜景の見えるバー。彼女と過ごす時間は、いつも心地よかった。僕の記憶では、僕たちは五年前のバイト仲間だった。その記憶を基盤に、僕たちは急速に距離を縮めていった。澪はいつも僕の話を真剣に聞いてくれ、時に深い洞察で僕の悩みを解決に導いた。彼女の存在は、僕にとってかけがえのないものになりつつあった。
しかし、記憶の違和感は、時に僕を襲った。ある日のデート中、僕たちは偶然にも、僕が以前「雨の日に初めて会った」と思い込んでいたカフェの前を通りかかった。
「あ、ここ、懐かしいね。僕たちが最初に出会った場所だよな」僕は懐かしげにカフェを見上げ、そう言った。
澪は僕の横顔を見ていたが、表情は変わらなかった。「うん、そうだね」とだけ答えた。
僕の頭の中に、その時の光景が鮮明に蘇る。土砂降りの雨の中、焦って飛び込んだカフェで、コーヒーを運んでいた澪とぶつかり、彼女のエプロンを汚してしまった。それが僕たちの出会いだった、と。
「あの時、僕、君にホットコーヒーをぶっかけちゃってさ。慌てて謝ったっけな」
澪は首を傾げた。「コーヒー?いや、紅茶だったような…」
その言葉に、僕の記憶がぐらりと揺れた。紅茶?いや、コーヒーだったはずだ。しかし、次の瞬間、まるで脳内で何かを編集するような、奇妙な感覚が僕を襲った。頭の中に、雨の中、カフェでぶつかり、紅茶を彼女にぶっかけたという、新しい「記憶」が生成されたのだ。その記憶は、以前のコーヒーの記憶と同じくらい鮮明で、何の違和感もなく僕の意識に馴染んでいった。
「あ、そっか、紅茶だった!僕、ちょっと記憶がごちゃ混ぜになってたみたいだ。ごめん、僕って物忘れが激しいんだよな」僕は苦笑し、頭を掻いた。
澪は僕の顔をじっと見つめ、その瞳の奥に、一瞬だけ深い悲しみが宿ったように見えたが、すぐに消えた。
「大丈夫。私こそ、覚えていなくてごめんね」
僕たちは再び歩き出した。僕の心には、記憶の曖昧さに対する小さな不安が募っていたが、それ以上に、澪との関係が深まっていくことへの期待と喜びが大きかった。彼女は僕にとって、すでに特別な存在だった。出会いの形がどうであれ、僕が今、彼女に惹かれていることは紛れもない真実だった。そう、僕は自分に言い聞かせた。
第三章 記憶の底に眠る真実
澪との関係は、急速に深まっていった。彼女の優しさ、知性、そして時折見せるはかない表情。僕は彼女の全てに惹かれ、将来を共にすることも考え始めていた。プロポーズの言葉を、どのようなシチュエーションで伝えようか、毎晩のように考えていた。
ある週末、大学時代の親友である亮太と久しぶりに酒を酌み交わした。亮太は僕の隣で、相変わらず豪快にビールを呷っている。
「で、悠斗。最近どうなんだ?例の彼女とは」亮太はニヤニヤしながら僕に尋ねた。
「ああ、澪のことか。順調だよ。近いうちには、プロポーズしようと思ってて」
亮太は目を丸くして、「マジか!お前もついにゴールインか!」と喜びの声を上げた。
「それにしても、お前と澪って、どうやって知り合ったんだっけ?前に言ってたの、なんか違う気がするんだけどな」亮太の言葉に、僕の心臓が不穏に跳ねた。
「え?前に話しただろ?雨の日にカフェでぶつかって、それがきっかけで…」僕が言いかけると、亮太は首を振った。
「いやいや、それ、お前が最近俺に話した出会い方だろ?俺が言ってるのは、もっと前の話。確か、俺の誕生パーティーで会ったんじゃなかったか?数ヶ月前の。あの時、お前が『初めて会った』って言ってたぞ」
僕は息を呑んだ。亮太が何を言っているのか理解できなかった。僕の記憶では、澪とは学生時代のバイト仲間で、そのあと雨の日のカフェでの出会いがあり、そして今、亮太の誕生パーティーでの出会い、と…?
「何言ってんだよ、亮太。僕と澪はもっと前から知り合いだよ。大学卒業してすぐくらいのバイト先で…」
亮太は呆れた顔で僕を見て、スマホを取り出した。
「お前、本当に大丈夫か?ほら、これがうちの大学の卒業記念の集合写真。お前のバイト仲間だっけ?それなら写っててもおかしくないだろ?」
亮太が画面を見せた。そこには、僕が「バイト仲間」だった頃だと思い込んでいる期間の、当時の友人たちの顔が並んでいた。しかし、そこに澪の姿はどこにもない。
「そんな…」僕は震える手でスマホを受け取った。脳裏に浮かぶバイトの記憶、皿洗いの音、おにぎりの味。全てが、まるで存在しなかったかのように消え去っていく。
「そして、これが、あの雨の日にぶつかったっていうカフェの、当時の店長だよな?お前がよく行ってたカフェ。その店長が、昔の従業員の写真を見せてくれた時のやつだ」亮太は別の写真を見せた。そこに写る店員の顔に、澪の姿はなかった。
僕の呼吸が乱れた。汗が背中を伝う。
「嘘だ…そんなはずは…」
「悠斗、お前、最近変だよ。まるで、話すたびに澪との出会いが変わってるみたいだ。一体何があったんだ?」
亮太の言葉が、僕の思考を打ち砕いた。僕は店を飛び出し、そのまま澪のマンションへと走った。
インターホンを鳴らす僕の手は震え、心臓は破裂しそうだった。ドアが開いた瞬間、そこに立っていたのは、いつもの優しい笑顔の澪だった。
「悠斗くん?どうしたの、こんな時間に…」
僕は彼女の肩を掴み、問いただした。「澪、君は、一体誰なんだ?僕の記憶は、全部嘘なのか?君との出会いは、本当に…」
澪の顔から、血の気が引いていくのが分かった。彼女の瞳は再び、底知れぬ深淵を湛えた。
「ごめんなさい、悠斗。あなたが、そこまで僕の記憶が書き換えられていたことに気づくなんて…」彼女は僕の手を振りほどき、膝から崩れ落ちた。
「私と深く関わる人たちの、私に関する過去の記憶は、無意識のうちに、私の意思とは関係なく、最も自然な形で『再構築』されてしまうの。ごめんなさい…全部、私が作り変えてしまった記憶なの…」
その言葉は、僕の心を根底から揺さぶった。僕が信じてきた愛、僕が育んできた絆。全てが、彼女の持つ特殊な能力によって作り出された、虚構だったというのか?僕の価値観は粉々に砕け散り、目の前の愛しい人が、まるで得体の知れない怪物のように見えた。
第四章 愛は記憶を超えて
澪の告白は、僕の心に深い絶望と混乱をもたらした。これまで僕が彼女との間に築き上げてきたと思っていた記憶の全てが、実は書き換えられた幻だったという事実。僕は何を信じればいいのか?この感情は、本当に僕自身のものなのか?
数日間、僕は澪と距離を置いた。自室に閉じこもり、頭を抱えた。彼女との思い出が、次々と別の「記憶」として上書きされていく感覚に、僕は恐怖を覚えた。バイト先の記憶、雨の日の出会い、亮太のパーティーでの初対面。どの「出会い」も、僕にとっては本物だった。しかし、客観的な事実がそれらを否定する。真実とは何なのか?僕が見ているものは、一体何なのだ?
「これ以上、あなたを傷つけたくない。だから、もう会わない方がいい…」
澪から送られてきた短いメッセージに、僕は再び絶望の淵に立たされた。しかし、そのメッセージを読んだ瞬間、僕の心に一つの問いが生まれた。
もし、出会いの記憶が、どんな形であれ書き換えられてしまうのだとしたら、その都度、僕が感じてきた澪への「好き」という気持ちは、どうだったのだろう?
バイト仲間として出会った時、僕は彼女の優しさに惹かれた。雨の日にぶつかって出会った時、僕は彼女の純粋さに心を奪われた。そして亮太のパーティーで初めて会った時、僕は彼女のミステリアスな魅力に一目惚れした。
その感情は、記憶の形が変わるたびに、まるで新しい出会いのように再燃し、深まっていった。それは、書き換えられた記憶が生み出した幻の感情だったのだろうか?
僕は立ち上がった。記憶がどんなに曖昧で不確かなものであろうとも、僕の心の奥底に燃え盛る澪への愛情は、一度たりとも消えることはなかった。むしろ、彼女が僕の記憶を書き換えるたびに、僕と彼女の「関係性」は、最も自然で強く、深く結ばれるように最適化されてきたのではないか?
僕が愛したのは、過去のどの「記憶」の中の澪でもない。今、僕の目の前で、自分の能力に苦しみ、涙を流している、この「結城澪」という人間そのものだ。
僕は澪のマンションへと向かった。
「澪!」
ドアを開けた彼女は、憔悴しきった顔をしていた。
「ごめんなさい…」彼女は僕の顔を見ることができなかった。
僕は彼女の手を取り、強く握りしめた。
「澪、君がどんな能力を持っていようと、僕が君を愛しているというこの気持ちは、一度も書き換えられていない。この胸の高鳴りも、君への想いも、全てが本物だ。僕が見ているのは、過去のどの記憶の中の君でもない。今、僕の目の前にいる君だ」
澪の瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。
「記憶が書き換えられるたびに、僕たちは新しい『出会い』を経験したんだ。そして、その度に、僕は君に、また恋をしたんだ。だから、君の能力を恐れない。一緒に乗り越えよう。新しい記憶が生まれるたびに、それを二人で『真実』に変えていけばいい」
澪は僕の胸に飛び込み、嗚咽した。その温かさが、僕の記憶がどれほど不確かであろうと、今、この瞬間の感情だけは、紛れもない真実であることを教えてくれた。僕の心は、記憶に頼らず、自身の感情と相手を信じる、揺るぎない強さを手に入れた。
数年後。僕たちは、とある海辺の町で穏やかな日々を送っている。僕は彼女と共に、過去の記憶がどうであれ、毎日を真新しい出会いのように大切に生きることを学んだ。
ある日の夕暮れ時、僕たちは砂浜を散歩していた。
「そういえばさ、僕たち、初めて出会ったのって、あのカフェのテラスだったよね?雨上がりの虹が出てた日」僕はふと、そんなことを口にした。
澪は僕の顔を見上げ、柔らかく微笑んだ。
「んー、そうだったかな?私、なんとなく、初めて会ったのは、あなたが海辺でスケッチしてた時のような気がするけど」
僕は一瞬、自分の記憶と、彼女の言葉とのズレに、小さな違和感を覚えた。新しい「記憶」が、ふわりと頭の中に生成されようとするのを感じた。僕はゆっくりと目を閉じ、そして開いた。
僕は澪の手を握りしめ、その温もりを確かに感じた。
「まあ、どっちでもいいか」
僕の言葉に、澪はくすりと笑い、僕の肩に頭を預けた。
記憶は曖昧でも、この手の温もりだけは、決して揺るがない。真実の愛とは、過去の記憶の積み重ねではなく、常に更新され、今この瞬間に存在する感情そのものである。僕たちは、何度でも出会い直し、何度でも恋をするだろう。この記憶の庭で、僕たちの愛は永遠に続いていく。