第一章 勿忘草の指先
朝の光が窓ガラスを撫で、部屋の隅に積まれた古書を淡い金色に染めていた。音葉(おとは)は、ベッドから身を起こすと、まず自分の右手を見つめる癖があった。それは祈りではなく、恐怖からくる確認作業だった。そして今朝も、それはあった。右手の小指の先端が、まるで砂糖菓子のように半透明になり、淡い青紫色の小さな花びらへと姿を変えていた。朝露に濡れたばかりの、小さな勿忘草(わすれなぐさ)。
「また、少し……」
掠れた声が、静寂に落ちる。この奇妙な変化が始まって、もう二ヶ月になる。最初は皮膚が薄く、色素が抜けていくだけだった。だが一ヶ月ほど前から、それは明確に植物の形を取り始めた。医者に行っても首を傾げられるだけ。「前例がない」という言葉は、世界でたった一人、この現象に囚われているという孤独を音葉に突きつけた。
音葉は、古びた商店街の一角にある「風森花店」で働いていた。彼女にとって花は、言葉の代わりだった。口下手で、自分の感情をうまく表現できない彼女は、客の求める想いを花に託して束ねることで、かろうじて世界と繋がっていられた。
カラン、とドアベルが鳴る。反射的に顔を上げると、絵の具の匂いを微かにまとわせた彼が立っていた。
「やあ、音葉さん。今日もいい天気だね」
人懐っこい笑顔でそう言ったのは、陽向(ひなた)。近所のアトリエで絵を描いているという青年で、週に二、三度はこうして店を訪れる。
「陽向さん……こんにちは」
心臓が、まるで籠の中の鳥のように羽ばたく。彼が店に来るたび、音葉の世界は色鮮やかになる。そして、指先の変化が、ほんの少しだけ進む気がした。
「今日は、インスピレーションをくれるような、青い花が欲しいんだ。新作のテーマなんだよ、『追憶』っていう」
陽向は店内を見回しながら、楽しそうに話す。彼の目はいつも少年のように輝いていて、その光に吸い込まれそうになるのを、音葉は必死で堪えた。
「でしたら……デルフィニウムや、こちらのブルースターなど」
音葉は、花びらに変質した小指を隠すように手を動かしながら、いくつかの花を指し示す。陽向は一つ一つを興味深そうに眺め、やがて、店の一番奥に置かれた小さな鉢植えに目を留めた。
「あ、勿忘草。やっぱりこれが一番しっくりくるな。この儚い青さがいい。君の瞳の色にも、少し似てる」
不意に投げられた言葉に、音葉の頬が熱くなる。彼の言葉の一つ一つが、乾いた心に染み渡る水のように甘く、同時に、身体を蝕む毒のように恐ろしかった。この想いが、この変化を引き起こしているのではないか。そんな確信にも似た予感が、彼女の胸を締め付けた。
彼が好きな、勿忘草。だから、私の指はこの花に変わっていくのだろうか。
もしそうなら、この恋が叶う頃、私は、私でなくなってしまうのだろうか。
音葉は、陽向から代金を受け取る指先が震えるのを、悟られないようにするので精一杯だった。
第二章 秘密の色彩
陽向との距離は、季節が夏から秋へと移ろうにつれて、ゆっくりと、しかし確実に縮まっていった。彼は音葉の花に対する深い知識と、花を選ぶときの真剣な眼差しに惹かれているようだった。
「音葉さんが束ねる花束は、ただ綺麗なだけじゃない。物語があるんだ」
ある日、そう言って彼は笑った。その笑顔を見るたびに、幸福と恐怖が同時に胸を満たす。音葉の身体の変化は、着実に進行していた。勿忘草になった小指に加え、左手の薬指の先はスミレの蕾のように膨らみ、うなじから伸びる数本の髪は、まるでアイビーの蔓のように緩やかな曲線を描き始めていた。肌には、光の加減でようやく見えるほどの、薄い葉脈が浮かんでいる。
彼女は変化を隠すため、夏でも長袖のブラウスを着、髪はきつく結い上げた。だが、隠せば隠すほど、秘密は心の内で重くのしかかってくる。
「今度、僕の絵のモデルになってくれないかな」
秋風が金木犀の香りを運んでくる、ある日の午後。陽向は唐突にそう切り出した。
「え……私が、ですか?」
「うん。君を描きたいんだ。花に囲まれてる君は、なんていうか……すごく、綺麗だから」
断れるはずがなかった。陽向のアトリエに行く。その甘美な響きは、すべての恐怖を麻痺させた。
アトリエは、油絵の具と古い木の匂いが混じり合った、不思議な空間だった。壁一面に、描きかけのキャンバスや完成した作品が並んでいる。その色彩の洪水に、音葉は息を呑んだ。
陽向は中央にイーゼルを立て、音葉を窓際の椅子に座らせた。柔らかな光が彼女を包む。
「リラックスして。いつもの君でいいんだ」
陽向はパレットに絵の具を出しながら、穏やかに言った。彼の視線が、自分にだけ注がれている。その事実が、音葉の身体中の細胞を歓喜させ、同時に悲鳴を上げさせていた。
描かれている間、二人はとりとめのない話をした。彼の絵の話、彼女の花の話。笑い声がアトリエに響く。その親密な時間の中で、音葉はふと、気づいてしまった。自分の右の耳朶が、硬く、そして冷たくなっていることに。そっと触れると、まるで朝露が凍ってできた氷の粒のような、小さな蕾の感触があった。山茶花の蕾に似ていた。そういえば先日、陽向が「冬の訪れを感じさせる山茶花が好きだ」と話していたのを思い出す。
ああ、駄目だ。このままでは、本当に。
この幸せな時間が、私から人間としての形を奪っていく。
「ごめんなさい、少し、気分が……」
音葉は立ち上がった。これ以上ここにいたら、彼の前で、何かが決壊してしまう。
「音葉さん? 顔色が悪いよ」
心配そうに駆け寄る陽向の手を、彼女は咄嗟に振り払ってしまった。
「触らないで!」
叫んだ後で、はっと我に返る。陽向は傷ついた顔で、立ち尽くしていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
涙が溢れ、音葉はアトリエを飛び出した。愛しているのに、傷つけてしまう。近づきたいのに、遠ざかってしまう。この矛盾した感情の渦の中で、彼女はもう、どうしたらいいのか分からなかった。
第三章 花と鉱石
アトリエを飛び出してから、一週間が過ぎた。音葉は店に出る気力もなく、部屋に閉じこもっていた。身体の変化は、あの日の心の乱れを反映するかのように、さらに進んでいた。両手の指のほとんどが色とりどりの花びらや蕾に変わり、髪からは数本の蔓が伸びて床に届きそうだ。鏡に映る自分の姿は、もはや半分人間で、半分が植物の寄せ集めだった。それはグロテスクで、悲しい姿に見えた。
陽向を傷つけてしまった後悔と、彼に会いたいという強い想い。そして、この姿を見られることへの恐怖。感情が飽和し、涙も出なかった。もう、終わりだ。そう思った時、ドアをノックする音が響いた。
ドアの向こうに立っていたのは、陽向だった。彼の顔は少しやつれていたが、その瞳はまっすぐに音葉を射抜いていた。
「話が、したいんだ」
音葉は後ずさったが、陽向は静かに部屋に入ってきた。彼女は反射的に、花と化した両手を背中に隠す。
「ごめんなさい、あの時は……」
「いいんだ」陽向は音葉の言葉を遮った。「見せてくれないか。君の、その手を」
彼の声は、有無を言わせぬ力強さを持っていた。音葉は震えながら、おずおずと両手を差し出す。色とりどりの花へと変わった指先が、薄暗い部屋の中で奇妙な色彩を放っていた。化け物だと思われるだろう。軽蔑されるだろう。
だが、陽向の口から出たのは、予想とはまったく違う言葉だった。
「……綺麗だ」
彼は、まるで最も美しい芸術品に触れるかのように、そっと音葉の花の指先に触れた。その目に嫌悪の色はなく、あるのは深い慈しみと、そしてどこか懐かしむような哀愁だった。
「僕の絵、完成したんだ。見に来てほしい」
戸惑う音葉の手を引き、陽向は再び彼女をアトリエへと連れて行った。中央には、布がかけられた大きなキャンバスが置かれている。
「君を描いた絵だ」
陽向が布を取り払うと、そこに描かれていたのは、音葉の今の姿そのものだった。半分が人間で、半分が花々の集合体となった少女が、物憂げに、しかし凛とした美しさを湛えて微笑んでいる。
「どうして……これを……」
「僕には、最初から見えていたからだよ」
陽向は静かに言った。
「君の指先が、少しずつ勿忘草に変わっていくのを。僕と話すたびに、君の髪に蔓が編み込まれていくのを。それは『愛化(あいか)』という現象なんだ。人を深く、純粋に愛した時に、ごく稀に起こる」
音葉が息を呑むと、陽向は続けた。
「僕も、同じだから」
彼は、着ていたシャツの袖をゆっくりとまくり上げた。現れた彼の左腕は、人間の皮膚ではなかった。まるで教会のステンドグラスのように、エメラルド、サファイア、ルビー、様々な鉱石の破片が皮膚に埋め込まれ、内側から淡い光を放っている。それは非人間的でありながら、息を呑むほどに美しかった。
「僕には昔、愛した人がいた。鉱物学者の女性でね。僕は彼女を深く愛した。そして、僕の身体は、彼女が何よりも愛した『石』に変わり始めたんだ。でも……彼女は事故で死んだ。僕の愛は行き場を失い、この変化も、ここで止まってしまった」
衝撃の事実に、音葉は言葉を失う。恐怖だと思っていた変化は、愛の証。そして、自分は一人ではなかった。
「君の変化は、君が僕を想ってくれている証だ。僕にとって、それは何よりも嬉しいことだった。君がそれを隠そうとするのが、見ていて辛かった。愛化は、醜いものじゃない。愛が形になった、世界で一番美しいものなんだよ」
陽向は、鉱石の腕で、音葉の頬をそっと撫でた。ひんやりとした石の感触が、涙で熱くなった肌に心地よかった。恐怖が、安堵と歓びに溶けていく。隠してきた秘密が、二人を繋ぐ絆に変わった瞬間だった。
第四章 ふたつの愛が咲く場所
その日を境に、音葉はもう何も隠さなかった。彼女は自らの変化を、陽向への愛の形として受け入れた。恐怖から解放された心は、驚くほど軽やかだった。陽向を愛おしいと思えば思うほど、彼女の身体はより一層、美しい花々で彩られていった。頬には薔薇が咲き、髪からは藤の花が垂れ、歩くたびに足元からは小さな雛菊が芽吹いた。彼女はもはや、歩く庭園そのものだった。
陽向もまた、音葉のその姿を愛した。彼は彼女の隣で、日々変わっていくその奇跡を、飽きることなくキャンバスに描き留めた。そして、不思議なことが起こり始める。止まっていたはずの、彼の身体の変化が再び始まったのだ。彼の胸に、音葉が愛するラピスラズリの青い輝きが生まれ、指先には、彼女が美しいと褒めたオパールの虹色の光が宿り始めた。
それは、陽向が音葉を愛している証であり、同時に、音葉が陽向の「鉱石の身体」ごと愛し始めた証でもあった。二人の愛は一方通行ではなく、互いを照らし、互いを変化させていく、完璧な循環を描き始めていた。
彼らが人間としての輪郭をどれだけ保っていられるのか、誰にも分からなかった。だが、二人にもう迷いはなかった。自分という個体の形を失うことよりも、愛する人と一つに溶け合っていく歓びの方が、遥かに大きかったのだ。
「君は花で、僕は石だ。僕という大地に、君という花が咲く。それでいいじゃないか」
陽の差すアトリエで、陽向はそう言って笑った。彼の肌はもはや宝石のモザイク画のようで、音葉の身体は色とりどりの花々で満開だった。二人は寄り添い、互いの変化を祝福するように、静かに口づけを交わした。
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歳月が流れ、かつて「風森花店」と陽向のアトリエがあった一角は、小さな公園になった。その中央には、誰も見たことのない、一本の不思議な木が立っている。
その木の幹は、様々な鉱石が寄り集まったようにキラキラと輝き、そこから伸びる枝には、季節を問わず色とりどりの花が咲き誇っていた。風が吹くと、花びらと鉱石が触れ合い、まるで澄んだ鈴の音のような、優しい音楽を奏でる。
街の人々は、いつしかその木を「恋人たちの木」と呼ぶようになった。どこからともなく現れたその木の下で愛を誓うと、永遠に結ばれるという噂が広まった。
音葉と陽向がどうなったのか、正確なところを知る者はいない。ただ、今日もその木は、訪れる恋人たちを見守るように、静かに佇んでいる。花は咲き誇り、鉱石は太陽の光を浴びて輝きながら、風の中で、愛の歌を奏で続けている。人間の形は失われたかもしれないが、彼らの愛は、かつてないほど美しく、永遠の形を得て、そこに在り続けていた。