第一章 金木犀は誰がための香り
僕、葉山湊(はやまみなと)には秘密がある。人より少しだけ鼻が利く、なんて生易しいものではない。僕の嗅覚は、人の記憶を嗅ぎ分ける。怒りは焦げたゴムのように鼻を突き、悲しみは冷たい雨の匂いがする。そして、愛や幸福は、人によって全く異なる、その人だけの香りを放つのだ。
この能力は、祝福であると同時に呪いでもあった。他人の感情の奔流に晒され続けるのは、ひどく疲れる。だから僕は、人との間に意識的に壁を作り、調香師見習いとして香りの世界に閉じこもるように生きてきた。そんな僕の日常に、彼女は現れた。
僕が働く香水店の向かいにある古書店『言の葉堂』。そのガラス扉の向こうで、藤堂琹(とうどうことり)さんはいつも静かに本を読んでいた。陽だまりのような微笑み、本をめくる白い指先。彼女のすべてが、僕の心を捉えて離さなかった。
問題は、彼女に近づくたびに香る、あの匂いだ。
甘く、どこか切ない、満開の金木犀の香り。それは間違いなく、幸福な記憶の残香だった。あまりに強く、鮮烈で、揺るぎないその香りは、僕の胸を締め付けた。この香りの持ち主は、僕ではない誰かだ。彼女の心には、僕の入り込む隙間などないのだと、その香りが雄弁に物語っていた。
それでも、想いは募るばかりだった。ある秋の午後、意を決して彼女の店を訪れた。カラン、とドアベルが鳴る。顔を上げた彼女が、僕に気づいてふわりと微笑んだ。その瞬間、僕は息を呑んだ。
いつもの金木犀の香りに混じって、今まで嗅いだことのない匂いがしたのだ。ひどく懐かしい潮風と、赤く錆びた鉄の匂い。それは楽しい記憶の香りではなかった。孤独と、焦がれるような強い思慕の色を帯びていた。金木犀の甘い幸福感とは相容れない、ざらついた痛みを伴うその香りは、僕の心に小さな、しかし無視できない棘を刺した。彼女はいったい、誰を、何を想っているのだろう。
「いらっしゃいませ。…あの、向かいの香水店の?」
「は、はい。葉山です」
彼女の声は、古い書物のページをめくる音のように、優しく落ち着いていた。僕の心臓だけが、やかましく脈打っている。彼女から漂う二つの相反する香りの謎が、僕をこの恋の迷宮へと、否応なく引きずり込んでいくのを感じていた。
第二章 重なる記憶、すれ違う心
琹さんと僕は、少しずつ言葉を交わすようになった。僕が香りの話をし、彼女が物語の話をする。穏やかで、心地よい時間だった。彼女といると、僕の世界は彩りを増していくようだった。
デートと呼べるようなものを重ねるたび、僕は彼女の様々な「記憶の香り」を嗅いだ。友人と笑い合った日の、焼きたてのパンが香ばしい匂い。仕事に集中している時の、古い紙とインクが混じり合った知的な匂い。幼い日の思い出だろうか、雨上がりの公園の、湿った土と若葉の匂い。
それらの香りを知るたびに彼女への愛しさは増したが、同時に、あの金木K犀の香りもまた、不意に僕の鼻をかすめるのだった。それは決まって、彼女が遠くを見つめ、何かを懐かしむような表情をした時だった。
ある日、僕たちは海辺の公園を散歩していた。夕日が水平線を橙色に染めている。
「綺麗…」
琹さんがぽつりと呟いた。その横顔から、またあの金木犀が強く香った。僕はたまらなくなって、口を開いていた。
「その香り…金木犀、ですよね。何か、大切な思い出があるんですか?」
僕の問いに、彼女は一瞬驚いたように目を見開いたが、やがて寂しげに微笑んだ。
「…ええ。昔、とても大切な人と住んでいた家の庭に、大きな金木犀の木があったんです。秋になると、家中がその香りで満たされて…」
その声は震えていた。亡くなった恋人の話なのだろうと、僕は直感した。僕の心に、黒く冷たい嫉妬が染みのように広がっていく。どうやっても勝てない相手。僕がどれだけ手を伸ばしても、彼女の心の一番深い場所には、金木犀の香りと共に生き続ける彼がいる。
「すみません、変なこと聞いちゃって」
「ううん、いいの。話せて、少しすっきりしたかも」
そう言って笑う彼女から、またあの「潮風と錆の匂い」がした。なぜだろう。亡き恋人を想う彼女から、なぜこの孤独な香りがするんだ? まるで、パズルのピースがうまくはまらないような、奇妙な違和感が僕を苛んだ。
それでも、僕は諦めきれなかった。過去は変えられない。けれど、現在(いま)を彩ることはできるはずだ。僕は決意した。僕のすべてを懸けて、彼女のためだけの香水を作ろう。過去の記憶を上書きするのではなく、彼女の「今」に寄り添い、未来を照らすような香りを。
研究室に籠り、何百という香料と向き合った。彼女と過ごした時間の中に漂っていた、様々な記憶の香りを手繰り寄せる。焼きたてのパン、古いインク、雨上がりの若葉…。それらを束ね、彼女という存在そのものを表現するような、世界で一つの香りを創り出すために。それは、僕にできる唯一の、そして最大の愛情表現だった。
第三章 零れた香水の真実
試行錯誤の末、香水は完成に近づいていた。それは、雨上がりの若葉を思わせる瑞々しいトップノートから始まり、やがて彼女の知性を感じさせる落ち着いたインクとペーパーのミドルノートへと移ろう。そしてラストは、陽だまりのような温かみのあるムスクが、すべてを優しく包み込む。僕が彼女と共に感じた「現在」を詰め込んだ香りだった。
完成間近のサンプルが入った小瓶を手に、僕は彼女の店へ向かった。今日こそ、この香りと共に僕の想いを伝えよう。逸る心を抑えながら、古書店のドアを開ける。
しかし、僕の決意は、店内に足を踏み入れた瞬間に打ち砕かれた。
今までで最も強く、むせ返るほどに濃厚な金木犀の香りが、僕の全身を殴りつけたのだ。まるで金木犀の嵐の中にいるようだった。ああ、まただ。僕がこれほど想いを募らせているというのに、彼女の心は過去の彼に完全に支配されている。絶望が、冷たい水のように僕の身体を満たしていく。
震える手から、持っていた香水の小瓶が滑り落ちた。パリン、と硬質な音が響き、床の木目に僕が創り上げた香りが染み込んでいく。雨上がりの若葉の香りが、店内に満ち満ちた金木犀の香りに、なすすべもなく掻き消されていくようだった。
「葉山さん? どうしたの、大丈夫!?」
駆け寄ってくる琹さんの声が、ひどく遠くに聞こえる。僕は呆然と、彼女を見つめた。違う。おかしい。何かが、根本的に間違っている。
僕は気づいた。圧倒的な金木犀の香りは、琹さんからではなかった。彼女のすぐ隣を通り過ぎ、店を出ていこうとしている、見知らぬ初老の男性から発せられていたのだ。作業着姿の、日焼けした顔に深い皺が刻まれた男性。彼の全身から、あの甘く切ない金木犀の香りが立ち上っていた。
そして、僕の目の前にいる琹さんからは、金木犀の香りはほとんどしない。代わりに僕の鼻腔をくすぐったのは、床に零れた香水とは違う、もっと繊細で、しかし確かな…「雨上がりの若葉の匂い」だった。それは僕が知る限り、「新たな始まり」や「未来への期待」を意味する記憶の香り。
その瞬間、雷に打たれたように、すべてのピースがはまった。
僕の能力は、「相手の記憶」を嗅ぎ取るものではなかった。本当は――「その人が、最も強く心を寄せている対象が持つ、記憶の香り」を嗅ぎ取っていたのだ。
琹さんは、亡くなった恋人を想っていたわけじゃない。彼女はずっと、金木犀の香りがする「誰か」を探していたのだ。そして、僕が嗅ぎ取っていた「潮風と錆の匂い」も、彼女自身の記憶ではなかった。港で働く、あの初老の男性――彼女が探し続けていた父親の、記憶の断片だったのだ。
「お父さん…」
琹さんの唇から、か細い声が漏れた。彼女の視線は、店を出ていく男性の背中に釘付けになっている。幼い頃に別れたきりの父親を、彼女はずっと探し続けていた。金木犀の香りを唯一の手がかりにして。
僕が嫉妬し、絶望していた香りの正体は、死んだ恋人の影ではなく、彼女の家族への思慕そのものだった。そして、僕が気づかなかっただけで、彼女の心の中では、僕への想いが「雨上がりの若葉の匂い」として、静かに、だが確かに芽吹いていたのだ。
第四章 あなただけの現在(いま)
世界が、反転したようだった。僕がこれまで囚われてきた能力へのコンプレックス、琹さんへの誤解、過去への嫉妬。それらがすべて、僕自身の思い込みが生んだ幻だったと知った。床に零れた香水が、まるで僕の愚かな心を洗い流していくようだった。
琹さんは、店の外へ駆けだそうとする父親の背中を、ただ見つめていた。声をかけられないのだろう。あまりに突然の、数十年ぶりの再会。彼女の肩が小さく震えている。
僕は、そっと彼女の隣に立った。そして、何も言わずに彼女の手を握った。驚いて僕を見る彼女の瞳が、涙で潤んでいる。彼女から香る「雨上がりの若葉の匂い」が、僕の心を優しく満たした。もう、他の誰かの香りに怯えることはない。僕が感じるべきは、この温かい手のひらと、僕に向けられた確かな想いの香りだけだ。
「行かなくていいの?」
僕が尋ねると、彼女は小さく首を振った。
「今は、まだ…。でも、いつかちゃんと会いに行く。ありがとう、葉山さん。あなたがここにいてくれて、よかった」
その言葉だけで、十分だった。
数日後、僕はもう一度調合した香水を、新しい小瓶に入れて彼女に贈った。
「これは、僕があなたから感じた香りを束ねて作ったんだ。だから、これはあなたの香りだよ」
香水の名は、『現在(いま)』と名付けた。
琹さんは、その香りをひと吹き、手首につけた。そして、そっと目を閉じて香りを吸い込む。雨上がりの若葉、古い紙とインク、そして陽だまりの温もり。
「…すごく、素敵な香り。なんだか、新しい物語が始まる匂いがします」
そう言って、彼女は僕が今まで見た中で、一番美しい顔で微笑んだ。
僕たちは、どちらからともなく、そっと抱きしめ合った。彼女の身体からは、僕が贈った『現在』の香りと、彼女自身の心が放つ「若葉の匂い」が混じり合って、世界でたった一つの、新しい香りを生み出していた。
僕の特殊な嗅覚は、これからも様々な記憶の香りを僕に届けるだろう。けれど、もう迷うことはない。僕にとって最も大切な香りが、今、この腕の中にあるのだから。過去の記憶がどんな香りを放とうと、僕たちは僕たちだけの「現在」を重ね、まだ名もなき未来の香りを、二人で紡いでいくのだ。金木犀の季節が過ぎ、やがて新しい若葉が芽吹くように。