君が世界に溶ける日
第一章 雨上がりの古書店
アスファルトを叩いた雨の匂いが、古書の紙の匂いと混じり合う。僕、相沢律(あいざわ りつ)の世界は、いつもそんな静かな匂いで満たされていた。祖父から受け継いだ古書店『時の栞』の店主として、僕は埃をかぶった物語たちに囲まれ、ひっそりと息をしていた。人と深く関わることを、僕は恐れていた。僕の愛は、愛した相手の存在をこの世界から少しずつ削り取ってしまう呪いだったからだ。
その日、通り雨が街を濡らしていた。店先の軒下で、一人の女性が雨宿りをしていた。色とりどりの花束を抱えた彼女は、まるで雨の中に咲いた一輪の花のようだった。ガラス戸を滑らせ、彼女は店の中に入ってきた。
「すみません、少しだけ雨宿りさせていただけますか?」
鈴が鳴るような声だった。店に満ちていたインクと古紙の匂いに、ふわりと瑞々しい花の香りが混ざる。それが、僕と澪(みお)との出会いだった。彼女は花屋で働いていると言い、屈託なく笑った。その笑顔は、僕が何年もかけて築き上げた心の壁を、陽光のようにあっさりと溶かしていく力を持っていた。
僕の書斎には、祖父の遺品である『忘却の砂時計』が置かれている。無色透明の砂が、まだ見ぬ誰かのための忘却を静かに待っている。僕はその砂時計を見つめ、澪の笑顔を思い浮かべながら、どうかこの出会いが、ただの通り雨で終わってくれるようにと、祈ることしかできなかった。
第二章 色づく砂粒
しかし、僕の祈りは届かなかった。澪は次の日も、その次の日も店を訪れた。僕が淹れた少し苦いコーヒーを「美味しい」と言って飲み、難解な哲学書のタイトルを指差しては「どんなことが書いてあるの?」と子供のように目を輝かせた。彼女の存在は、モノクロだった僕の世界に、鮮やかな色彩をもたらしていく。
公園のベンチで、彼女が編んだという拙い花冠を頭に載せられた時だった。夕陽に照らされた彼女の横顔があまりに美しくて、僕はどうしようもなく、恋に落ちている自分を認めた。
その夜、書斎の砂時計に異変が起きた。
サラリ、と微かな音がして、透明だった砂粒の一つ一つが、澪の瞳のような澄んだ青色に染まり始めていたのだ。心臓が氷水で満たされたように冷たくなる。始まった。僕の愛が、彼女の存在を世界から侵食し始めたのだ。
数日後、僕と澪がよく立ち寄るカフェの店主が、首を傾げた。
「澪ちゃん?ああ、君の連れの……ええと、花屋の、なんだっけ?」
昨日まで親しげに名前で呼び合っていたはずなのに。店主の記憶の輪郭から、澪がほんの少し、滲んで消えていた。
第三章 輪郭の揺らぎ
忘却の進行は、僕の愛の深さに比例して加速していった。澪の職場の同僚は、彼女のことを「最近入ったアルバイトの子」としか認識できなくなり、長年の友人は、約束の場所に来なかった澪を責めることすらしなかった。彼女からの電話を「間違い電話だろう」と切ってしまう始末だった。
「ねえ、リツ。私、最近みんなに避けられてるみたい……何かしたのかな」
不安げに揺れる瞳で僕を見つめる澪に、僕は何も言えなかった。原因は僕なのだと、僕のこの身勝手な愛なのだと、どうして告げられるだろう。僕にできるのは、ただ彼女の手を強く握りしめ、「君のせいじゃない」と繰り返すことだけだった。
砂時計の青い砂は、着実に落ちていく。上部のガラスに残された砂はもう半分もない。僕は眠れぬ夜を過ごし、どうすればこの呪いを止められるのかを考え続けた。だが、答えはいつも同じだった。彼女への愛を、止めること。それは、僕自身の心を殺すことに等しかった。
澪の世界は、日に日に狭まっていく。彼女を認識し、彼女の名を呼び、彼女の存在を確かめられる人間は、もう僕しかいなくなろうとしていた。
第四章 君だけを憶えている
最後の砂粒が、音もなく落ちきった。
その日の夕方、澪のスマートフォンが鳴った。画面には『お母さん』と表示されている。彼女は安堵したように微笑んで電話に出たが、その表情はすぐに凍りついた。
「……もしもし?……え?……違います、澪です……娘の……え?」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、知らない人間に間違い電話をかけられたとでも言うような、事務的な声だった。彼女の両親は、娘の存在を完全に忘れてしまったのだ。
電話が切れ、澪は力なくソファに崩れ落ちた。鏡に映る自分の姿を、まるで幽霊でも見るかのように見つめている。
「私……本当にいるのかな……」
その震える声を聞いて、僕はもう隠し通せないと悟った。僕は彼女の隣に座り、震える肩を抱き寄せ、全てを話した。僕の体質のこと、愛した相手の存在が周囲の記憶から消えてしまうこと、そして、僕の愛が彼女を世界から孤立させてしまったこと。
嗚咽が漏れるかと思った。だが、澪は静かに僕の話を聞いていた。そして、涙で濡れた瞳を上げ、僕を真っ直ぐに見つめた。
「そっか……」
彼女は、壊れそうなほど儚い微笑みを浮かべた。
「リツが憶えていてくれるなら、それでいいよ。世界中が私のことを忘れても、リツが私の名前を呼んでくれるなら、私はここにいられる」
その言葉は、僕にとっての赦しであり、同時に、二人だけの世界で生きていくという、切ない誓いとなった。
第五章 内なる忘却
世界から忘れられた澪と、彼女を憶える僕だけの静かな日々が始まった。それは奇妙に満ち足りていて、まるで世界に祝福されたかのような錯覚さえ覚える時間だった。しかし、僕の呪いは、まだ終わってはいなかった。
ある朝、僕は澪に尋ねた。「昨日観た映画、あの俳優の名前、なんだっけ」。澪はきょとんとした顔で僕を見た。「昨日?映画なんて観てないよ」。違う、観たはずだ。確かに二人で笑い合ったはずなのに、その記憶が靄に包まれたように曖昧になっている。
僕自身の記憶から、澪の輪郭が薄れ始めていた。
彼女の好きだった花の色。彼女が口ずさんでいた歌のメロディー。僕が愛したはずの彼女の細部が、指の間をすり抜ける砂のように、こぼれ落ちていく。僕という器の中で、彼女の存在が飽和し、どこか別の場所へ向かおうとしているかのようだった。
恐怖に駆られた僕は、空になったはずの砂時計に目をやった。すると、ガラスの内側が、まるでオーロラのように淡い光を放ち始めていた。
第六章 愛の昇華
僕は必死に抵抗した。澪との思い出をノートに書き留めようとした。だが、ペン先から流れ出るインクは紙に染み込まず、光の粒子となって霧散してしまう。僕の記憶は、もはや僕一人のものではなくなっていた。
澪は、そんな僕の姿を悲しげに、しかし慈しむように見つめていた。彼女は僕の手を取り、その冷たい指先を自分の頬に当てる。
「大丈夫だよ、リツ。消えるんじゃない。満ちるんだよ」
その言葉の意味を、僕は理解できなかった。
そして、運命の朝が来た。
目を覚ますと、隣に澪の温もりはなかった。部屋には彼女の香りも、彼女が生きていた痕跡も、何も残されていない。僕は必死に彼女を思い出そうとした。名前を、顔を、声を。だが、何も浮かんでこない。
胸の奥に、焼けつくような愛おしさと、どうしようもないほどの温かい喪失感だけが残っていた。僕は、誰かを深く、深く、心の底から愛していた。その事実だけが、確かな手触りを持って僕の中に存在していた。
窓の外に目をやると、世界が昨日までとは少しだけ違って見えた。街角で子供が描く拙い絵の色彩が、なぜか胸を打つ。向かいのアパートから聞こえる、赤ん坊の笑い声が、涙が出るほど愛おしい。世界が、ほんの少しだけ優しく、輝きを増している気がした。
第七章 記憶の結晶
書斎の机の上。昨日まで『忘却の砂時計』があった場所に、今は小さな結晶が一つ、朝の光を受けて静かに輝いていた。それは、夜明けの空を閉じ込めたような、淡く美しい青色をしていた。
僕は、吸い寄せられるようにそれを手に取った。
何も思い出せない。この結晶が何なのかも、なぜここにあるのかも分からない。
しかし、その結晶に指が触れた瞬間、僕は感じた。世界の至る所で生まれる、無数の小さな輝きを。詩人が紡ぎ出す、初めての愛の言葉。作曲家が夢の中で聴く、誰も知らなかったメロディー。母親が我が子に向ける、理由のない、根源的な喜び。
僕が愛し、忘れ去った彼女の存在は、消えたのではなかった。
僕一人の記憶に独占されることなく、世界を彩る普遍的な輝きへと昇華されたのだ。それは『記憶の結晶』となり、人々の心に新たなひらめきや喜びとして、静かに、そして絶え間なく還り、循環している。
真の愛とは、誰か一人を記憶に縛り付けることではないのかもしれない。その魂の輝きを解き放ち、世界と分かち合うこと。それこそが、僕に与えられた能力の、本当の意味だったのかもしれない。
僕は結晶を胸に抱き、空を見上げた。失った悲しみではない。世界と分かち合った、名も知らぬ誰かへの愛の温かさが、確かに僕の心を、満たしていた。