第一章 チェロを奏でる声
世界から音が消えて、三年が経った。
橘蓮(たちばな れん)にとって、世界は分厚いガラスで隔てられた無音の水槽だった。かつて将来を嘱望された若き作曲家は、不慮の事故でその両耳の機能をほぼ完全に失った。ピアノの鍵盤を叩いても、弦を弾いても、そこに広がるのは空虚な沈黙だけ。音楽という名の酸素を絶たれた彼は、ただ息をしているだけの存在に成り果てていた。
絶望が日常になったある午後、蓮は吸い寄せられるように古い喫茶店の扉を開けた。珈琲の香ばしい匂いだけが、唯一、彼と世界を繋ぐかすかな糸だった。カウンター席に座り、メニューを指差して注文を告げる。いつもの、無言のやりとり。バリスタが豆を挽く音も、カップがソーサーに置かれる音も、彼には届かない。
その時だった。
「お待たせいたしました。ブレンドコーヒーです」
凛とした、しかしどこか儚げな声が、彼の頭蓋に直接響き渡った。いや、声ではなかった。それは、低く、深く、そして限りなく優しいチェロのソナタだった。単一の旋律が、彼の脳内で豊かに鳴り響く。驚きに顔を上げると、そこに立っていたのは、亜麻色の髪をひとつに束ねた、物静かな印象の女性店員だった。名札には『水瀬』と書かれている。
蓮は混乱した。補聴器はとうの昔に外している。音が聞こえるはずがない。だが、彼女が再び「ミルクとお砂糖は、ご利用になりますか?」と問いかけた瞬間、先ほどの旋律に寄り添うように、新たなフレーズが優美に奏でられた。まるで、問いかけるような柔らかなアルペジオ。
他の音は一切聞こえない。客の話し声も、BGMのジャズも、窓の外を走る車の音も、すべてが沈黙に閉ざされたままだ。ただ、彼女の声だけが、蓮の世界で唯一の「音楽」として鳴り響いていた。
蓮は、震える手でスマートフォンのメモ帳を開き、文字を打ち込んだ。
『あなたの声が、音楽に聞こえます』
あまりに突飛な告白に、彼女は少しだけ目を丸くした。そして、困ったように微笑みながら、ゆっくりと首を横に振った。その仕草すら、まるで音楽の休符のように感じられた。
その日から、蓮の日常は一変した。彼は、水瀬響(みなせ ひびき)という名のその女性が奏でる音楽を聴くためだけに、毎日喫茶店に通い詰めた。彼女が「いらっしゃいませ」と告げるたびに、彼の心には穏やかな序曲が流れる。「ご注文は」という問いかけは、期待に満ちたクレッシェンド。彼女の言葉の一つひとつが、蓮の枯渇した魂を潤す美しい音色だった。
彼は、無音の牢獄に差し込んだ、たった一筋の光を、ただひたすらに追い求めていた。
第二章 筆談のデュエット
蓮と響のコミュニケーションは、スマートフォンの画面越しの筆談が中心だった。蓮が質問を打ち込み、響がそれに声で答える。その声が、蓮の中で音楽へと変換される。それは奇妙で、しかし二人だけの特別な対話の形式だった。
『好きな花はなんですか?』
彼女が「かすみ草が好きです」と答えると、繊細で細やかな無数の音が、星屑のようにきらめきながら彼の脳内に降り注いだ。
『休みの日は何をしていますか?』
「本を読んだり、散歩をしたり。特別なことは何も」という答えは、どこか物憂げな短調のメロディを奏でた。
彼女の言葉(=音楽)を聴きたくて、蓮は他愛ない質問を繰り返した。響は最初こそ戸惑っていたが、音を失ってもなお、必死に「音」を求めようとする蓮の真摯な眼差しに、次第に心を解きほぐしていった。彼女の奏でる旋律は、蓮の創作意欲を激しく刺激した。
家に帰ると、蓮は何年も触れていなかったピアノの前に座った。鍵盤を叩いても音は聞こえない。だが、彼の頭の中では、響の声が残響のように鳴り続けている。彼はその旋律を頼りに、指を動かした。彼女の優しい声から生まれたアダージョ。彼女の笑顔から生まれたスケルツォ。無音の中で、蓮は次々と新しい曲を生み出していった。それは、聴覚を失う前の彼の音楽とはまるで違っていた。技巧に走るのではなく、ただひたすらに心の深い部分に語りかけるような、温かく、そしてどこか切ない響きを持っていた。
蓮は、この感情が恋だと確信していた。彼女の声という音楽に恋をし、その音楽を生み出す彼女自身にどうしようもなく惹かれていた。
ある日、蓮は完成したばかりの楽譜を彼女に見せた。タイトルは『亜麻色の髪のソナタ』。
『君の声を聴いていると、メロディが生まれるんだ。これは、君の音楽だ』
響は楽譜に視線を落とし、その指先でそっと音符をなぞった。彼女の頬が微かに赤らむ。その瞬間、蓮の頭の中に、これまでで最も甘く、幸福に満ちたヴァイオリンのピチカートが響き渡った。
無音の世界で、二人の心は確かに共鳴していた。筆談という静かなデュエットを通して、穏やかで優しい時間がゆっくりと紡がれていく。蓮は、失われた世界を取り戻したかのような幸福感に包まれていた。この音楽が永遠に続けばいい、と心から願っていた。
第三章 不協和音の真実
その幸福な調和は、ある雨の日に突然引き裂かれた。
いつものように喫茶店を訪れた蓮は、響の姿がカウンターにないことに気づいた。店のオーナーに目で尋ねると、彼は心配そうに店の裏手を示した。蓮がそっと裏口へ回ると、降りしきる雨の中、傘もささずに佇む響の背中があった。彼女の肩は、小さく震えていた。
「水瀬さん?」
蓮は思わず声をかけた。もちろん、彼自身にその声は聞こえない。だが、彼の呼びかけに振り返った響の顔は、涙で濡れていた。彼女が何かを言おうと唇を開いた、その瞬間。
―――グシャァァァンッ!!
耳を劈くような、凄まじい不協和音。全ての弦が一度に引きちぎられたかのような、暴力的なノイズが蓮の脳を直撃した。それは、もはや音楽ではなかった。それは、魂が砕ける音。耐え難い苦痛に、蓮はその場に膝をついた。頭を抱え、必死にその音に耐える。
響が駆け寄り、心配そうに彼の背中をさする。彼女が何かを囁くたびに、断続的に苦痛のノイズが彼を襲う。やがて、彼女が落ち着きを取り戻し、深く息をつくと、ノイズは徐々に静まっていった。そして、その後に残ったのは、これまで蓮が聴いてきた、あの美しくも物悲しいチェロの旋律だった。
蓮は、雷に打たれたような衝撃と共に、その場で凍りついた。
違う。
今まで自分が聴いていたものは、彼女の喜びや優しさの音色などではなかった。
あれは、彼女が心の奥底に押し殺し、飼いならしてきた巨大な「悲しみ」が、美しい旋律へと昇華された姿だったのだ。彼女が穏やかであればあるほど、その悲しみは深く沈殿し、澄み切った音色を奏でる。そして、感情が昂り、その蓋が外れた時、抑えきれない痛みが不協和音となって溢れ出す。
どうして気づかなかったのだろう。彼女の奏でる音楽は、いつもどこか短調で、切なさを帯びていたではないか。彼は、彼女の微笑みの裏に隠された痛みを、ただ美しい音楽として享受していただけだった。彼女の悲しみを、自分の芸術の糧にしていた。彼女が不幸であればあるほど、自分の音楽は豊かになるという、おぞましい真実。
蓮の価値観が根底から覆された。これは、愛ではない。これは、最も醜悪な形の搾取だ。
彼は、彼女の悲しみに寄生する化け物だったのだ。
罪悪感と自己嫌悪が、黒い奔流となって彼を飲み込んでいく。頭の中で鳴り響くチェロのソナ-タは、もはや美しい音楽ではなく、彼の罪を告発する断罪の調べにしか聞こえなかった。
第四章 沈黙の向こう側
その日を境に、蓮は喫茶店へ行くのも、ピアノに触れるのも、きっぱりと止めた。彼女の悲しみを盗んで曲を作ることなど、もうできるはずもなかった。彼は自分の部屋に閉じこもり、ひたすらに考え続けた。自分はこれから、彼女とどう向き合えばいいのか。この醜い真実を抱えたまま、彼女の前に立つ資格などあるのだろうか。
数日が過ぎた。蓮は一つの決意を固め、震える手で響にメッセージを送った。『話があります。いつもの公園で待っています』
夕暮れの公園で、ブランコに腰掛ける響を見つけた時、彼の頭の中には、やはりあの静かで悲しいチェロの音が流れた。だが、蓮はもうその音色に耳を傾けようとはしなかった。彼は響の正面に立つと、深く頭を下げ、スマートフォンの画面を彼女に見せた。
そこには、全ての真実が綴られていた。自分の聴覚が失われていること。彼女の声だけが音楽として聞こえること。そして、その美しい音楽が、彼女の「悲しみ」の音色だと気づいてしまったこと。
『君の悲しみを、美しい音楽だなんて思って、勝手に酔いしれていた。君の痛みを、自分の作曲の道具にしていた。本当に、申し訳ない』
蓮は顔を上げられなかった。どんな罵倒も、軽蔑も、受け入れる覚悟だった。
長い沈黙が流れた。やがて、響が蓮のスマートフォンの画面に、ゆっくりと文字を打ち込んだ。
『気づいて、くれたんですね』
蓮が顔を上げると、響は泣き笑いのような、不思議な表情をしていた。
『私のこの感じ、みんな気づかないから。いつも平気なふりをするのが癖になってて。あなたは、私の声にならない声を、聴いてくれていたんですね』
それは、蓮が予想していた反応とは全く違うものだった。彼女は、誰にも言えなかった過去の出来事、心に負った深い傷について、ぽつりぽつりと打ち明けてくれた。蓮はもう、彼女の声を音楽として聴こうとはしなかった。ただ、彼女の唇の動き、必死に何かを伝えようとする瞳、時折きつく握りしめられる拳を、じっと見つめていた。
彼の頭の中では、もうチェロのソナタは鳴り響いていない。
世界は再び、完全な沈黙に包まれた。
しかし、その無音の世界の中で、蓮は初めて、本当の意味で彼女の「声」を聴いた気がした。音も、音楽もない。けれど、そこには言葉を超えた魂の対話が、確かに存在していた。
『もう君の声を音楽として聴きたくない。君の本当の心を、言葉を知りたいんだ』
蓮がそう打ち込むと、響は静かに涙をこぼし、そして、これまでで一番優しい顔で頷いた。
後日、蓮は久しぶりにピアノの前に座った。真っ白な五線譜に、彼は一つ、また一つと音符を記していく。それは、彼女の悲しみから生まれた旋律ではない。沈黙の向こう側で、彼女の本当の心に触れた彼自身の心から、溢れ出した新しいメロディだった。
音のない世界で、愛する人の痛みに寄り添い、共に希望を奏でるための、静かで、しかし力強い愛の歌。
蓮の無音の世界には、もう彼女の声の音楽は響かない。
だが、彼の心の中には、それよりも遥かに温かく、確かな音楽が鳴り始めていた。