私、水野栞には秘密がある。人の話す言葉に「色」が見えるのだ。
それは物心ついた頃から当たり前の光景だった。母の「おはよう」は温かい卵色。友人の噂話は、粘土みたいな鈍い茶色。上司の叱責は、鋭いトゲを持つどす黒い赤。大半の言葉は、ありふれていて、退屈な色をしている。だから私は、色のない文字だけが並ぶ、本の静かな世界を愛していた。
私が働く古書店のドアベルが、ちりん、と澄んだ音を立てた。彼が来たのだ。
一ノ瀬奏さん。週に二、三度、決まって夕方に現れる常連客。彼はいつも、人文学の棚を静かに眺め、一冊だけを手に取ってレジにやってくる。そして、ほとんど言葉を発しない。
彼が初めて私に話しかけたのは、ひと月前のことだ。
「この本、探していたんです」
その瞬間、私は息を呑んだ。彼の口から放たれた言葉は、単色ではなかった。藍色をベースに、若草色が芽吹き、星屑のような金色の粒子がきらめく。それは、まるで夜明けの空を凝縮したような、複雑で、どこまでも美しい色だった。今まで見た、どんな色とも違う。
以来、私は彼の言葉の虜になった。
「ありがとうございます」は、銀色に縁どられたすみれ色。「雨が降りそうですね」は、しっとりとした青磁色に、透明な雫が瞬く色。彼の紡ぐわずかな言葉は、どれもが一枚の絵画のようで、私の心を揺さぶった。彼は一体、何者なのだろう。どんな世界を見て、どんなことを考えたら、言葉はこんなにも豊かな色彩を宿すのだろう。
知りたくて、知りたくて、たまらなくなった。ある日、私は勇気を振り絞った。彼が差し出した哲学書を受け取りながら、口を開く。
「あの、いつも難しい本を読まれていますね」
私の口から飛び出した言葉は、きっと、不安げに揺れる淡い黄色だったに違いない。
彼は少し驚いたように目を丸くし、それから、ふ、と柔らかく微笑んだ。
「そう見える?」
その言葉は、春の陽だまりのような、柔らかな黄金色だった。心がじんわりと温かくなる。
「ええと……はい。私には、難しくて」
「君は、どんな本が好きなの?」
今度は、穏やかな森の緑に、好奇心を示す橙色がぽつりと灯った。私は夢中で好きな作家の話をした。私の言葉が何色に見えていたかは分からない。ただ、彼が興味深そうに耳を傾けてくれていることだけは、その眼差しから伝わってきた。
その日を境に、私たちは少しずつ言葉を交わすようになった。天気の話、本の話、街角で見かけた猫の話。他愛ない会話を重ねるたび、私は彼の言葉の色彩に魅了されていった。それはまるで、毎日違う音色を奏でる音楽のようだった。
そして今日、店の外は冷たい雨が降っていた。閉店作業をする私の前に、彼は傘の雫を払いながら立った。
「水野さん。もし、この後時間があったら、少しだけお話しできませんか」
彼の言葉は、今まで見た中で最も複雑な色をしていた。静かな決意を示す深い群青色と、期待に震える白金色、そしてほんの少しの不安を滲ませる藤色が、美しいグラデーションを描いて私の目に飛び込んでくる。
断れるはずもなかった。
近くのカフェで、私たちは窓の外を流れる雨音を聞きながら、コーヒーカップを挟んで向かい合っていた。沈黙が少し気まずい。
先に口を開いたのは、彼だった。
「僕、実は……作曲家なんです」
「え……」
「まだ駆け出しだけどね。いつも頭の中で、メロディやハーモニーが鳴っている。言葉を探すときも、自然と音に変換して考えてしまう癖があって」
作曲家。その言葉に、すべてのピースがはまるような感覚がした。彼の言葉が音楽のようだと感じたのは、比喩ではなかったのだ。
「だから、人と話すのが少し苦手なんだ。僕の言葉は、たぶん、普通の人とは少し違うから」
そう言って、彼は寂しそうに笑った。その言葉は、儚いラベンダー色に銀の雨が降る色だった。
胸が、きゅっと締め付けられる。今しかない。私は震える唇で、ずっと胸に秘めていた秘密を打ち明けた。
「私には、あなたの言葉が、見えます」
「……え?」
「色が見えるんです。昔から。他の人の言葉は退屈な色ばかりなのに、一ノ瀬さんの言葉だけは……まるで、音楽みたいに、たくさんの色が混じり合った虹色に見えるんです。とても、綺麗で……」
彼は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で私を見ていた。彼の周りには、驚きを示す鮮やかなエメラルドグリーンが、ぽかん、と浮かんでいる。
やがて彼は、信じられないというように瞬きを繰り返し、そして、今までに見たどんな色よりも優しい、桜貝のような色の笑みを浮かべた。
「そうか……君には、届いていたんだな」
彼はそう呟くと、少し照れたように視線を落とした。
「君と話したくて、作った曲があるんだ」
彼の言葉が、まばゆい光を放つ。希望に満ちた、プリズムの虹色。
「タイトルは、『君に見える色』」
窓の外では、いつの間にか雨が上がっていた。街灯の光が濡れたアスファルトに反射して、世界がきらきらと輝いている。
私の世界は、もう退屈な色ばかりじゃない。彼の奏でる言葉が、彼の作る音楽が、これから私の日常を鮮やかに彩っていくだろう。
私たちは顔を見合わせ、同時に微笑んだ。それはきっと、新しいメロディが生まれる瞬間の色をしていた。
虹色のレチタティーヴォ
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