虹色ラプソディ

虹色ラプソディ

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私、佐倉澪には秘密がある。人の言葉が「嘘」だと、その文字が色褪せた灰色に見えるのだ。

この厄介な能力のせいで、私の世界はすっかりモノクロになってしまった。「その服、似合うね(灰色)」「仕事できて助かるよ(灰色)」。お世辞や建前が飛び交う日常は、まるで霧の中を歩いているようで息苦しい。特に恋愛なんて最悪だ。「好きだよ(灰色)」の言葉に心を抉られて以来、私は恋に臆病になっていた。

そんなある日のこと。にわか雨に降られ、古びたレコードショップの軒下に駆け込んだ私と同じように、一人の男性が雨宿りをしていた。黒いパーカーのフードを目深にかぶり、ヘッドフォンから漏れる微かなリズムに体を揺らしている。

不意に、彼が何かを口ずさんだ。私の目には、その言葉が信じられない色で見えた。灰色でも、本心を示す普通の色でもない。赤、青、黄色…七色の光がキラキラと混じり合い、踊るように輝く「虹色」の言葉だった。

心臓が跳ねた。虹色の言葉なんて、生まれて初めて見た。あれは何?嘘でも本心でもない言葉って、一体…?

呆然とする私を残し、雨が上がると彼はふらりと去っていった。

数日後、奇跡は再び起きた。私が働く書店のすぐ近くに、彼がいたのだ。ガラス張りの音楽スタジオで、キーボードに向かっている。一ノ瀬奏。最近、若手の作曲家として名前をよく聞く人だった。

私は何かに憑かれたようにスタジオのドアを開けていた。
「あの、この間の…!」
ヘッドフォンを外した彼、一ノ瀬さんは、怪訝そうな顔で私を見る。整っているけれど、どこか影のある表情だ。
「何か?」
「雨宿りのとき、何か言いましたよね?あれは、どういう…」
彼は少し考えてから、ふっと口元を緩めた。
「ああ、君か。君の声、いいな、と思っただけ」

その言葉は、またしても鮮やかな虹色に輝いた。

それから、私たちは時々会うようになった。彼は口数が少なく、何を考えているか分からない。けれど、彼の口から紡がれる言葉は、いつだって虹色だった。

「このコーヒー、美味いな(虹色)」
「君といると、落ち着く(虹色)」

私は混乱しながらも、どんどん彼に惹かれていった。私の能力が唯一通用しない、ミステリアスな彼に。この人となら、灰色に傷つくことのない恋ができるかもしれない。

ある夜、彼が大きなコンクールのための曲作りに行き詰まっていると知った。スタジオで頭を抱える彼に、私は精一杯の気持ちを込めて言った。
「一ノ瀬さんの曲、大好きです」
もちろん、これは本心の色。彼は少し驚いたように顔を上げ、そして寂しげに笑った。
「僕の言葉は、君にはどう見えているの?」

ドキリとした。彼がなぜ?まさか、私の能力に気づいている…?
答えに窮する私に、彼は「ごめん、忘れて」とだけ言って、再び鍵盤に向かってしまった。

その日から、彼との間に見えない壁ができた気がした。コンクールの締め切りが迫る中、追い詰められた彼は、ついに私に告げた。
「少し、一人にしてほしい(虹色)」

虹色なのに、その言葉は私の胸に鋭く突き刺さった。私は彼のスタジオを飛び出した。もう終わりだ。でも、諦めきれない。虹色の謎さえ解ければ、きっと彼を理解できるはずだ。

私は意を決して、彼のいないスタジオにこっそり戻った。彼がいつも聴いていたヘッドフォンが、机に置かれている。それを手に取り、耳に当てる。

流れてきたのは、未完成のピアノの旋律。切なく、力強く、そしてどこか迷っているようなメロディ。その音色を聴いた瞬間、私の頭の中に、彼の心の声が直接流れ込んできた。

『どうしてだろう。君といると、こんなにも音が溢れるのに』
『この気持ちを、どうやって曲にすればいい?』
『会いたい。でも、僕の音楽は君を傷つけているんじゃないか…?』

―――ああ、そうか。

虹色の正体は、「歌」だったんだ。

彼は、自分の感情や思考のすべてを、無意識のうちにメロディに乗せていたのだ。彼の言葉は、常に彼の心から生まれた即興の歌だった。だから私の能力では、「嘘」か「本心」か判別できず、感情のプリズムである「虹色」に見えていたんだ。

真相を掴んだ私は、彼のマンションへと走った。ドアを叩くと、憔悴しきった彼が出てくる。
「澪ちゃん…どうして」
「わかったの!あなたの言葉が虹色に見える理由が!それは嘘でも本心でもなくて、あなたの心そのもののメロディだからでしょう?」

彼は目を見開いて固まった。まるで、自分でも知らなかった真実を突きつけられたかのように。

私は一歩踏み出し、彼の胸に手を当てる。
「私の言葉も、あなたにメロディとして届いたらいいのにな」
私は息を吸い込み、ありったけの想いを込めて、少し震える声で告げた。
「あなたのことが、好きです」

その瞬間、彼の瞳が大きく揺れた。彼の頭の中に、今までで最も美しく、歓喜に満ちたメロディが鳴り響いたのが、私にはわかった。

「…見つけた」
彼は私を強く抱きしめた。
「やっと見つけた。僕の音楽を完成させる、最後のピースだ。愛してる」

彼のその言葉は、もう虹色ではなかった。
七色の光が一つに束なったような、眩いほどの純白の輝きを放っていた。私たちの恋が、最高のラプソディを奏で始めた瞬間だった。

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