月曜日の朝は、いつも少しだけ憂鬱だ。週末の余韻を引きずったまま、満員電車に揺られて会社へ向かう。けれど、ここ一ヶ月の私にとって、月曜日は特別な意味を持つ日になっていた。
きっかけは、郵便受けに投函されていた一通の封筒だった。上質な和紙に、差出人の名前はない。ただ、私の部屋番号だけが、インクの濃淡が美しい、万年筆による手書きの文字で記されていた。
中には、一枚の便箋。そこには、こう綴られていた。
『水野莉子様。突然の手紙を許してください。雨の日の窓ガラスを伝う雫のように、あなたの心に静かに寄り添う言葉を届けたいと思いました。あなたが高校時代に描いた「七色の溜息」という絵を、今でも覚えています。あの絵に射した光のようなあなたを、ずっと見ていました』
心臓が跳ねた。「七色の溜息」は、美術部のコンクールで小さな賞をもらっただけの、私的な作品だ。タイトルを知っているのは、ごく限られた友人か家族だけのはず。一体、誰が?
その日から、毎週月曜日に、手紙は届くようになった。
『先日のプレゼン、素晴らしかったです。深夜まで残って資料を修正していたあなたの諦めない横顔は、どの宝石よりも輝いて見えました』
『子どもの頃、あなたが「ポポ」と名付けた熊のぬいぐるみを大切にしていたように、今は自分の心を大切にしていますか?』
私の過去と現在を、まるで神様のように見通している差出人。私はその人を「月曜日の万年筆さん」と名付け、見えない誰かに恋をするという、奇妙で、けれど抗いがたいほどワクワクする日々を送り始めた。
容疑者は、三人に絞られた。
一人目は、会社の先輩の高階さん。エリートで、誰にでも優しいけれど、最近はやけに私に目をかけてくれる。「水野さんのそういう粘り強いところ、尊敬するよ」と、手紙の一節をなぞるような言葉をかけられた時は、頬が熱くなった。
二人目は、大学時代からの親友、健太。私の過去を一番よく知る人物だ。「そういえば莉子、昔ポポっていう熊、持ってたよな?」なんて、なんでもない風に言うから、心臓に悪い。でも、今さら健太が?
三人目は、行きつけの古書店の店主、湊さん。物静かで、何を考えているか読めないミステリアスな人。私がデザインの参考資料を探しに行くと、いつも的確な一冊を差し出してくれる。彼が万年筆を使っているのを見たことがある。でも、どうやって私の個人的な情報を?
手紙が届くたびに、私の心は揺れ動いた。差出人は、私の臆病さも、強がりも、全部お見通しだった。その優しい言葉に励まされ、私は少しずつ、仕事にも自分にも自信が持てるようになっていた。早く、会いたい。声が聞きたい。
そして、五通目の手紙が届いた月曜日。便箋には、いつもより短い言葉が記されていた。
『今週の金曜日、二十時。僕たちが初めて会った場所で、お待ちしています』
初めて会った場所? 手紙には、小さなヒントが添えられていた。「僕が、あなたの世界に色を見つけた場所です」と。
色を見つけた場所……。脳裏に浮かんだのは、あの絵だった。「七色の溜息」。雨上がりの空にかかった虹を描いた、あの絵。描いた場所は、街を見下ろす丘の上の、小さな公園。そうだ、あそこしか考えられない。
金曜日の夜。天気雨がアスファルトを濡らし、街灯の光を乱反射させていた。約束の二十時。私は傘を手に、丘の上の公園へ向かった。心臓は、これ以上ないくらい速く脈打っている。ベンチに座っているのは、高階さんだろうか。それとも、少し照れたように笑う健太? あるいは、静かに本を読んでいる湊さんかもしれない。
公園の中央、古いベンチに、一人の男性が座っていた。
知らない人だった。
いや、違う。見覚えがある。毎日、アパートの廊下ですれ違う、隣の部屋の人。いつも無愛想に会釈するだけで、名前も知らなかった。
彼が、ゆっくりと立ち上がった。
「水野さん。……来てくれて、嬉しい」
落ち着いた、少し低い声。手紙の文字から想像していた声に、驚くほどしっくりと馴染んだ。
「あなたが、月曜日の……?」
「はい。相葉朔(あいばさく)です。隣に住んでいます」
相葉さんは、気まずそうに頭を掻いた。
「驚かせましたよね。すみません。ストーカーだと思われたくなくて、こんな回りくどい方法しか思いつかなかった」
彼は、一本の万年筆を私に差し出した。軸が、光の加減で虹色にきらめいている。
「僕は、万年筆職人なんです」
そして、彼は語り始めた。高校時代、同じ公園で、スケッチをしていた彼。絵を描く私の横顔に心を奪われたこと。声をかける勇気はなかったけれど、コンクールで私の絵を見つけ、タイトルを胸に刻んだこと。大学も同じだったけれど、遠くから見つめるだけで終わってしまったこと。そして数ヶ月前、偶然にも私の隣の部屋が空いたと知り、運命だと思って引っ越してきたこと。
「健太に、相談したんです。君の友達の佐伯君に。彼が、色々教えてくれて……」
健太の顔が浮かんで、私は思わず笑ってしまった。まんまと一杯食わされたらしい。
「高校生の時から、ずっと。あなたの諦めない横顔が、雨上がりの虹みたいに、僕のモノクロの世界を照らしてくれました。今も、昔も」
相葉さんは、私の目をまっすぐに見て言った。
その瞬間、私の世界から、ふっと音が消えた。雨上がりの澄んだ空気も、街の喧騒も、遠のいていく。ただ、彼の真摯な瞳だけが、そこにあった。
ああ、そうか。
ワクワクする恋の謎解きは、もう終わり。
でも、私の本当の物語は、この月曜日の万年筆から、今、始まるのだ。
私は、彼が差し出した虹色の万年筆に、そっと指を伸ばした。それはまるで、初めて本物の虹に触れるような心地がした。
月曜日の万年筆
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