未完の肖像

未完の肖像

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***第一章 残された画集***

古びたインクと紙の匂いが満ちる「時雨堂書店」。その片隅で、水野咲は埃をかぶった背表紙を指でなぞるのが日課だった。止まった時間の中に身を置いているような、そんな安心感が好きだった。三年前に恋人の橘湊を事故で亡くして以来、咲の時間はあの日からほとんど進んでいない。

その日、店の古い呼び鈴が、乾いた音を立てた。入ってきたのは、上質なツイードのジャケットを羽織った、品の良い老紳士だった。彼は店内をゆっくりと見回した後、まっすぐに咲のいるカウンターへ歩み寄った。

「これを、引き取っていただけませんか」

彼が差し出したのは、深い藍色の布で装丁された、一冊の大きな画集だった。出版社もタイトルも記されていない、個人の手製本らしい。咲が受け取ると、ずしりとした重みが腕に伝わった。

「ただの画集ではありません。持ち主が、未来を描いたものです」

老紳士はそう言うと、謎めいた微笑みを残して店を去っていった。

一人になった咲は、恐る恐る画集のページをめくった。息を呑む。そこに描かれていたのは、紛れもなく湊のタッチだった。大胆な筆致と、光を捉える繊細な色彩。間違えようはずもない。水彩、パステル、鉛筆。様々な画材で描かれた風景や人物が、次々と現れる。

しかし、咲の心は歓喜ではなく、深い混乱に突き落とされた。画集に描かれているのは、咲の知らない風景ばかりだったからだ。海辺の小さな駅、丘の上に立つ一本の木、ステンドグラスが美しい喫茶店。そして、ページをめくるたびに、見知らぬ女性の横顔が繰り返し描かれている。柔らかな笑顔を浮かべた、優しげな女性。

湊が死んだのは、咲と別れてすぐのことだったはずだ。それなのに、この画集はまるで、彼がその後も何年も生き続け、誰かと新しい人生を歩んだかのような錯覚を覚えさせる。老紳士の「未来を描いたもの」という言葉が、不気味に耳の奥で反響した。

これは、誰の未来なのだろう。そして、この女性は、一体誰なのだろうか。湊は、私ではない誰かを愛していたのだろうか。画集の最後のページは、なぜか白紙のままだった。その空白が、咲の心を締め付けた。湊が遺した謎は、止まっていたはずの咲の時間を、軋む音を立てて動かし始めた。

***第二章 色褪せたパレット***

画集の謎に取り憑かれた咲は、週末になると、描かれた風景を探して街をさまよった。湊が遺したパレットの、色褪せた絵の具を辿るような旅だった。最初に見つけたのは、画集の冒頭に描かれていた海辺の駅だった。古びた木造の駅舎は、潮風に晒されて銀灰色に変色し、絵の中の姿そのままで咲を迎えた。

ホームに立つと、湊と一緒に旅をした日の記憶が、夕陽のように鮮やかに蘇る。彼の大きな手、笑うと細くなる目、煙草の匂い。幸せだった記憶は、同時に鋭い刃となって胸を刺した。彼はこの場所に、私ではない誰かと来たのだろうか。

次に、湊の数少ない友人に連絡を取った。誰もが彼の死を悼み、思い出を語ってくれたが、画集のことも、そこに描かれた女性のことも、誰も知らなかった。「あいつは、サキと別れてから、どこか殻に閉じこもっちまったみたいだったよ」。友人の一人はそう言った。その言葉は、咲の混乱をさらに深くするだけだった。

疑念と嫉妬が、黒い染みのように心に広がっていく。湊は、私に隠れて別の誰かと会っていたのではないか。別れ際に彼が言った「少し、時間が欲しい」という言葉の裏には、別の愛情が芽生えていたのではないか。ページをめくるたびに現れる、あの柔らかな笑顔の女性が、咲の心をかき乱す。

画集を抱きしめて眠る夜、咲は湊の夢を見た。夢の中の彼は、何も語らず、ただ悲しげな目で咲を見つめている。咲は彼に手を伸ばすが、その手は空を切るばかり。目が覚めると、頬が冷たい涙で濡れていた。

湊の愛情を疑う自分自身が、たまらなく嫌だった。けれど、目の前にある画集という「証拠」が、彼女の心を蝕んでいく。愛していた。心の底から。だからこそ、知りたくなかった真実がそこにあるような気がして、怖かった。それでも、咲はページをめくる手を止められなかった。真実が何であれ、湊が遺した最後の軌跡から、目を逸らすことはできなかったのだ。

***第三章 最後のページ***

手がかりが尽きかけ、諦めかけていた頃、咲は画集の片隅に描かれた小さな看板に気づいた。ブレンドコーヒーの湯気が立ち上るカップの絵に添えられた、「カフェ・ソラ」という文字。インターネットで検索すると、街の外れに、その名の喫茶店が実在することが分かった。

錆びついた看板、蔦の絡まるレンガの壁。画集に描かれたステンドグラスが、午後の光を受けてキラキラと輝いている。ドアを開けると、コーヒー豆を焙煎する香ばしい匂いが咲を包んだ。

カウンターの中にいた白髪のマスターは、咲が差し出した画集を見ると、驚いたように目を見開いた。
「これは……湊くんの。完成していたのか」

マスターは、湊がこの店の常連だったこと、そして、彼が事故に遭う数ヶ月前から、熱心にこの画集を描いていたことを語ってくれた。

「あの日も、彼はこの席で絵を描いていた。とても楽しそうにね。おばあさまのために、って」
「おばあさま……?」

咲の問いに、マスターは静かに頷いた。
「湊くんのおばあさまはね、少しずつ記憶を失っていく病気だったんだ。だから彼は、おばあさまが忘れてしまわないように、楽しかった思い出を絵にして残そうとしていた。この画集は、彼の未来じゃなく、おばあさまの『過去』の思い出を描いたものなんだよ」

その言葉は、雷のように咲の全身を打ち抜いた。画集に繰り返し描かれていたあの女性は、湊の恋人などではなかった。若き日の、彼の祖母の姿だったのだ。海辺の駅も、丘の上の木も、すべては祖母と祖父の思い出の場所だった。

「彼は言っていたよ。『ばあちゃんが俺を忘れちまっても、俺が覚えてる。じいちゃんとばあちゃんが生きた美しい時間を、俺が絵で繋ぎ止めるんだ』ってね」

咲の目から、涙が止めどなく溢れた。湊は誰かを裏切ってなどいなかった。彼は、消えゆく記憶を繋ぎ止めようと、たった一人で、深い愛情を込めて筆を走らせていたのだ。自分の疑念が、彼の清らかな想いを汚していたようで、恥ずかしくてたまらなかった。

マスターは、おもむろに画集の最後の、白紙のページを指差した。
「湊くんは、この最後のページに、一番大切なものを描くんだと言っていたよ」
そして、彼はカウンターの下から、小さなランプを取り出した。
「彼は、このページの裏に、特殊なインクでメッセージを隠していたんだ。このランプの光を当てると、浮かび上がるはずだ」

咲は震える手でランプを受け取り、白紙のページに光を当てた。すると、そこには、湊の筆跡で、たった一行の言葉が、淡い光を放って浮かび上がった。

『咲へ。君との未来も、描きたかった』

その言葉を見た瞬間、咲の世界から音が消えた。湊はずっと、自分を想っていてくれた。別れた後も、彼の心には自分がいた。画集に描かれた祖母への愛と同じくらい、あるいはそれ以上に深い愛情が、その短い一文に凝縮されていた。咲は、その場に崩れるようにして、嗚咽した。三年間、心の奥底に凍りついていた悲しみが、ようやく温かい涙となって溶け出していくのを感じた。

***第四章 未完の肖-像***

あの日以来、咲の世界は色を取り戻した。時雨堂書店の古びたインクの匂いも、窓から差し込む午後の光も、すべてが優しく感じられる。胸の奥にあった、湊に対する疑念や後悔の棘は、彼の最後のメッセージによって、綺麗に抜き去られていた。

画集は今、咲の部屋の一番日当たりの良い場所に飾られている。それはもはや、嫉妬や謎の対象ではなく、湊が遺してくれた、愛そのものだった。彼が描いた祖母の笑顔を見るたびに、咲は湊の優しさを思い出し、胸が温かくなる。そして、最後のページの言葉を思い出すたびに、切なさと共に、深く愛された記憶が自分を支えてくれるのを感じた。

湊の死を、本当の意味で受け入れることができたのかもしれない。彼はもういない。けれど、彼が遺した愛は、確かにここに在る。それで十分だった。咲は、止まっていた自分の時間を、少しずつ進め始めた。

ある雨上がりの午後、店の呼び鈴が軽やかな音を立てた。入ってきたのは、スケッチブックを小脇に抱えた若い男性だった。
「すみません、美術の画集を探しているんですが」

その声に顔を上げると、青年は少し照れたように笑った。窓から差し込んだ光が、彼の輪郭を柔らかく縁取っている。その姿が、ほんの少しだけ、若い頃の湊に似ているような気がした。

咲は、ふっと息を吐き、柔らかな微笑みを浮かべた。
「はい、ご案内します。どんな絵がお好きなんですか?」

それは、新しい恋の始まりではないのかもしれない。けれど、閉ざされていた心が、誰かに向かって静かに開かれていく、確かな予感があった。

湊が描けなかった、咲との未来。その肖像画は、まだ真っ白なキャンバスのままだ。けれど、これから咲自身の手で、新しい色を重ねていくことができる。湊が遺してくれた愛を胸に抱きながら、咲は未来へと続く最初の一歩を、静かに踏み出した。空には、大きな虹がかかっていた。

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