エラーコードは恋の始まり

エラーコードは恋の始まり

9
文字サイズ:

僕の目には、世界が少しだけ親切に映る。人の頭上に、僕に対する「好感度」がパーセンテージで表示されるからだ。

「相田くん、このデータ助かるよ! さすがだね!」
そう言って肩を叩く先輩の頭上には【好感度: 78%】。まあまあの数字だ。バイト先のコンビニで「いつもありがとうございます」と微笑む店員さんは【好感度: 62%】。営業スマイルだが、悪くは思われていないらしい。
この能力のおかげで、僕は人間関係の地雷を踏まずに生きてこられた。誰が自分に好意的で、誰がそうでないか一目瞭然なのだから。だが、それは同時に、答えの分かりきったテストを延々と解かされているような退屈さも伴った。驚きも、期待も、すれ違いもない。数字がすべてを支配する、味気ない世界。

そんな僕の日常に、予測不能なバグが発生したのは、大学図書館でのことだった。

彼女の名前は、月島雫。新しく司書のアルバイトとして入ってきた、物静かな文学部の学生。透き通るような白い肌と、本のページをめくる長い指が印象的だった。
僕がカウンターに本を差し出した、その時だ。僕は自分の目を疑った。
彼女の黒髪の上に浮かんでいたのは、数字ではなかった。

【好感度: ???%】

クエスチョンマークが三つ。まるでシステムエラーだ。何度まばたきをしても、表示は変わらない。こんなことは生まれて初めてだった。僕の脳は混乱し、心臓がやけに大きな音を立て始めた。
エラーコードの意味は? 僕の能力が壊れた? それとも、彼女が何か特別な存在だというのか?
理由の分からない胸の高鳴りは、僕を彼女へと突き動かした。

それから僕は、研究室にいる時間以外は、ほとんど図書館に入り浸るようになった。
「あの、古代ギリシャの建築様式に関する本を探しているんですが」
「この作家の初期の短編集って、置いてますか?」
我ながら陳腐な口実を並べては、僕は月島さんに話しかけた。彼女は少し驚いた顔をしながらも、いつも丁寧に対応してくれた。伏せられた睫毛が長く、時折こちらを見上げる瞳は、深い森の湖のように澄んでいる。
話してみると、彼女は本の虫で、特にミステリーが好きだということが分かった。僕が何気なく好きな作家の名前を挙げると、彼女の顔がぱっと明るくなり、堰を切ったようにその魅力について語り出した。

「相田さんもお好きなんですね! あのトリックの伏線の張り方が、もう天才的で…!」

楽しそうに話す彼女を見ていると、僕の胸は温かいもので満たされていく。いつしか僕は、彼女の頭上の「???」を解読することよりも、彼女自身のことを知りたいと、心の底から思うようになっていた。
だが、数字が見えないというのは、これほどまでに不安なものなのか。僕のジョークは滑っていないだろうか。今の質問は退屈じゃなかっただろうか。彼女は、僕のことをどう思っているんだろう。
分からない。分からないから、知りたくなる。
答えの見えない問いを前に、僕は生まれて初めて、本気で「ワクワク」していた。

運命の日、とでも言うべきだろうか。その日は外で激しい雨が降っていた。閉館時間を知らせる音楽が流れ、図書館には僕と彼女の二人だけになった。
窓を叩く雨音だけが響く静寂の中、僕はカウンターの前に立っていた。
今しかない。エラーコードの向こう側へ、僕は一歩踏み出す覚悟を決めた。

「月島さん」
僕の声は、自分でも驚くほど震えていた。
「僕、君のこと、全然分からないんだ」
彼女はきょとんとした顔で僕を見る。頭上の表示は、相変わらず【???%】のままだ。
「君と話していると、いつも手探りで……自分がどう思われているのか、まったく見当がつかない。でも、だからかな。君ともっと話したい。君のことを、もっと知りたいって思ったんだ。俺、君のことが好きです」

言い切った瞬間、心臓が口から飛び出しそうだった。断られたら、僕の好感度メーターはきっとマイナスに振り切れる。
沈黙が痛いほど空間を支配する。
やがて、月島さんはふっと息を漏らし、そして、信じられない言葉を口にした。

「……私も、ずっと不思議でした。相田さんのことが」
彼女は少し躊躇いがちに、僕の顔をまっすぐに見つめた。
「私にも、見えるんです。人の、私に対する気持ちが。でも、相田さんの頭の上だけは、いつも『???%』って表示されてて……」

え?
時が止まった。僕の思考回路がショートする。彼女も、同じ能力を?

「自分と同じ人がいるなんて、思ってもみなかった。怖かったけど……でも、すごく嬉しかったんです。数字じゃなくて、ちゃんと自分の心で向き合える人が、初めて現れたから」
彼女の頬が、夕暮れの光のように淡く染まる。
「私も、あなたのことが好きです。数字が見えないあなたのことを」

その瞬間、僕たちの世界で奇跡が起きた。
お互いの頭上に浮かんでいた【???%】の表示が、淡い光を放ちながら、ゆっくりと形を変えていく。そして―――ふっと、泡のように消え去った。
エラーコードは消えた。もう、そこには何もない。ただ、目の前にはにかむ彼女がいるだけ。

僕らは顔を見合わせて、同時に吹き出した。
「なんだ、そういうことか」
「みたいですね」
言葉にできないほどの愛しさが込み上げてくる。
僕たちは、数字という呪いから解き放たれ、たった今、本当の恋を始めたのだ。

「ねえ、月島さん」
「はい」
「これからはさ、数字じゃなくて、言葉で、態度で、ちゃんと確かめ合っていこう」

僕の言葉に、彼女は世界で一番素敵な笑顔で頷いた。
窓の外では、いつの間にか雨が上がり、大きな虹が空にかかっていた。予測不能な僕たちの未来を、祝福するように。

TOPへ戻る