忘却の市場と錠前師の指

忘却の市場と錠前師の指

6
文字サイズ:

カチリ、と乾いた音が響いた。カイの手の中で、百年誰も開けられなかったという真鍮の絡繰箱が、静かに口を開けた。埃っぽい古物商の店内に、客の驚嘆と主人の呆気にとられた声が満ちる。しかし、カイ自身は何一つ理解できずにいた。自分の指が、まるで独立した生き物のように、複雑な文字盤を回し、隠された仕掛けを寸分の狂いもなく押し込んでいたのだ。この指は、自分のものではない。この知識は、自分の記憶ではない。

カイには、十五歳以前の記憶がなかった。物心ついた時からこの街の孤児院で暮らし、今は古物商で働いている。だが、時折こうして、見ず知らずの技術や知識が、脳裏の霧を晴らす稲妻のように閃くのだった。

「お前さん、一体何者なんだ……?」

主人の問いに、カイは首を振ることしかできない。答えを探すため、彼は街の裏通りで囁かれる禁忌の場所へと足を向けた。あらゆる記憶が商品として取引されるという、「忘却の市場」へ。

市場は、甘い香辛料と古い羊皮紙の匂いが混じり合う、迷宮のような路地にあった。色とりどりの液体が満たされた小瓶が露店に並び、それぞれに「初恋のときめき」「亡き母の手料理の味」「一流剣士の太刀筋」といった札が添えられている。人々は記憶を買い、自らの人生を彩り、あるいは辛い記憶を売って、過去から逃れていた。

「何かお探し? それとも、何かお売りになりたい?」

声をかけてきたのは、猫のようにしなやかな身のこなしの少女だった。リラと名乗った彼女は、この市場の情報屋だという。カイが事情を話すと、彼女の瞳が好奇心にきらめいた。

「他人の記憶が流れ込んでる、ね。珍しい話じゃないけど、絡繰箱を開けるほどの専門技術となると、話は別。あんたの中にあるのは、かなり『上物』の記憶だよ」

リラの案内で、カイは市場の深部にある記憶鑑定士の元を訪れた。老鑑定士はカイの額に水晶をかざすと、深く皺の刻まれた顔を驚きに歪ませた。
「……これは……間違いない。伝説の錠前師、『沈黙のゼン』の指だ」
沈黙のゼン。いかなる錠前、いかなる封印も、音もなく解いたと言われる伝説の職人。彼の記憶は、王家の秘宝庫の場所を知る唯一の手がかりとして、多くの権力者が血眼になって探している代物だった。

その言葉が引き金だった。突如、黒装束の男たちがカイを取り囲んだ。市場の秩序を司るという触れ込みの、しかしその実態は価値ある記憶を独占する私兵組織、「忘却の番人」だった。

「その記憶、我々が預かろう」

リーダー格の仮面の男が、冷たい声で告げる。逃げ場はない。だがその瞬間、カイの身体は意思とは無関係に動き出していた。彼は近くの露店の天幕を固定していた留め金を瞬時に外し、混乱に乗じて駆け出した。ゼンの記憶が、この市場の構造、抜け道、仕掛けの全てをカイに教えていた。

「こっち!」

リラの手がカイの腕を掴み、迷路のような路地を疾走する。追っ手の足音が背後から迫る。
「奴らの狙いはあんたの中の記憶だ! なぜ王家がそれを欲しがるか分かるかい? ゼンの最後の仕事は、暴君だった先々代の王が、国中の富を隠した『嘆きの宝物庫』に封印を施すことだったんだ!」

追い詰められた二人が逃げ込んだのは、市場の地下に広がる「記憶の廃棄場」だった。捨てられた無数の記憶が混ざり合い、澱んだ沼のように揺らめいている。過去の悲鳴や笑い声が幻影となって壁をすり抜け、不気味な光景を作り出していた。

そこに、仮面の男が立ちはだかった。
「ゼン……その忌まわしき名め。我が一族は、かつて王宮の錠前師だった。だが、ゼン一人のために、その名誉も技術も全て奪われたのだ。その記憶を寄越せ。我が一族の正当なる遺産だ」

仮面の男が振るう特殊な警棒が、カイの記憶を直接引き剥がさんと迫る。カイは咄嗟に身を屈めた。その時、脳裏にゼンの静かな声が響いた気がした。

――錠は、守るためにある。奪うためではない。

そうだ。この力は、何かを守るためのものだ。カイは廃棄場を見渡した。無数の記憶の残滓が、エネルギーとなって渦巻いている。ゼンの知識が、この場所の構造を解き明かす。ここは、市場全体の動力を司る巨大な絡繰装置そのものだった。

カイの指が、再び踊り始めた。壁の配管を回し、床のタイルをずらし、幻影の奥に隠された歯車を噛み合わせる。それは、錠前を開ける動きに酷似していた。仮面の男が愕然とする中、廃棄場全体が巨大な一つの絡繰として動き出す。床が傾き、壁がスライドし、男は足元の床と共に奈落へと滑り落ちていった。

静寂が戻った廃棄場で、カイはゆっくりと息を吐いた。身体の奥で、ゼンの記憶が穏やかに鎮座しているのを感じる。それはもはや寄生した異物ではなく、カイという人間を形作る、かけがえのない一部となっていた。

市場の地上に戻ると、夜明けの光が差し込んでいた。
「これからどうするんだい?」リラが尋ねる。
カイは自分の両手を見つめた。この指は、まだ自分のものという実感は薄い。自分の過去も、まだ霧の中だ。
「分からない。でも、やるべきことは分かってる」

カイは微笑んだ。「この力で、不当に記憶を奪われた人たちを助けたい。俺は、俺自身の記憶を、これから作っていくよ」

その顔は、もはや記憶のない空っぽの青年ではなかった。伝説の錠前師の指と、未来を紡ぐ意志を持つ、一人の男の顔をしていた。忘却の市場に、新しい物語が産声を上げた瞬間だった。

TOPへ戻る