リアがその古びた羅針盤を手に入れたのは、港町の埃っぽい骨董市でのことだった。祖父から受け継いだ地図屋の店番を抜け出し、潮風に混じるがらくたの匂いを嗅ぎながら歩いていると、ひとつの露店に並んだ真鍮製の羅針盤が、まるで彼女を呼ぶかのように陽光を弾いたのだ。それはただの羅針盤ではなかった。ガラスの下で揺れる針は北を指さず、ただひたすらに、青い空の、何もない一点を指し示していた。
「そいつは『風詠みの羅針盤』さ。伝説の空飛ぶ島、『エアリア』への道を指すって代物だよ」
店の主であるしわがれた老人はそう言って笑ったが、リアの心は燃え上がった。エアリア。子供の頃に誰もが夢見る、雲の上に浮かぶという幻の島。彼女はなけなしの金貨を叩いて羅針盤を手に入れると、港で一番大きな飛行船の修理工場へと駆け込んだ。
そこにいたのは、カイ。油と夢にまみれた若き発明家だ。彼の自慢の小型飛行船『アルバトロス号』は、帆と蒸気機関を組み合わせた風変わりな船で、ほとんどの人間からは「飛ぶガラクタ」と笑われていた。
「空飛ぶ島だと?お嬢ちゃん、おとぎ話は寝る前に読むもんだぜ」
カイは鼻で笑った。しかし、リアが羅針盤を突き出すと、彼の表情が変わった。羅針盤の針は、カイの背後にある設計図の一点を、寸分違わず指し示していた。それは、カイが計算上存在するはずだと信じていた、大気の流れが渦を巻く特異点――通称『凪の目』だった。
「……面白い。乗ったぜ、その与太話」
カイの目が、少年のように輝いた。
こうして、地図屋の娘と変わり者の発明家による、前代未聞の冒険が始まった。アルバトロス号は港を飛び立ち、羅針盤が指し示す空の高みへと昇っていく。眼下に広がる世界が模型のように小さくなり、やがて彼らは、絶えず雷鳴が轟く巨大な積乱雲の壁、『ストーム・ベルト』に突入した。
「しっかり掴まってろよ、リア!」
カイが叫ぶ。船は木の葉のように揺さぶられ、稲妻がマストを掠める。視界は荒れ狂う雲と雨で真っ白だ。その時、雲の切れ間から巨大な影が姿を現した。空を泳ぐクジラのような、伝説の生き物『スカイホエール』の群れだ。彼らは嵐のエネルギーを糧にしているという。アルバトロス号は、その巨体の合間を縫うようにして、決死の飛行を続けた。
幾多の困難を乗り越え、ついに彼らはストーム・ベルトを抜けた。嘘のような静寂が訪れ、目の前には、息を呑むような光景が広がっていた。
雲の海に浮かぶ、巨大な島。
エメラルド色の苔に覆われた古代の建造物、天を突くようにそびえる水晶の塔、そして島全体を覆う穏やかで温かい光。そこが、伝説の島エアリアだった。
二人はアルバトロ-ス号を島の平原に着陸させ、探索を始めた。人の気配はなく、ただ美しい廃墟が静かに時を刻んでいるだけだ。島の中心にある巨大な神殿に足を踏み入れた彼らは、エアリアが浮遊している秘密を知る。神殿の中央に安置された、心臓のように明滅する巨大な『風のクリスタル』。このクリスタルが、島全体を空に留めていたのだ。
しかし、その輝きは弱々しく、今にも消え入りそうだった。
「まずいぞ、リア!このままじゃ、クリスタルのエネルギーが尽きる。島ごと落下するぞ!」
カイの悲痛な声が響いたその時、神殿の床が揺れ、石像だと思っていた巨大なゴーレムが動き出した。クリスタルを守る古代の番人だ。侵入者を排除すべく、その巨大な腕を振り上げる。
絶体絶命のピンチ。だが、リアは恐怖に震えながらも、あることに気づいていた。手に握りしめた羅針盤が、クリスタルに呼応するように熱く脈動しているのだ。『風詠みの羅針盤』――それはただ道を指すだけではない。風を、大気の流れを『詠み』、そして操るための鍵だったのだ。
「カイ!船に戻って!エンジンの圧力を最大にして、排気口を神殿の天窓に向けて!」
「何をする気だ!」
「風を送るのよ!この島に、新しい風を!」
リアの覚悟を決めた目に、カイは一瞬ためらったが、すぐに頷いて走り出した。ゴーレムの猛攻を、リアは身を挺してかわし続ける。やがて、神殿の天窓からアルバトロス号が作り出した強力な風が吹き込んできた。
リアは神殿の中心に立ち、羅針盤を天に掲げた。
「風よ、集え!古のクリスタルに、新たな息吹を!」
彼女の声に応えるかのように、羅針盤から放たれた光が風と絡み合い、巨大な光の竜巻となってクリスタルに注ぎ込まれていく。クリスタルは眩いほどの輝きを取り戻し、力強く脈動を再開した。その圧倒的なエネルギーに、ゴーレムは動きを止め、再びただの石像へと戻った。
島は、落下を免れたのだ。
夜が明け、再生したエアリアに朝日が降り注ぐ。神殿のテラスから眼下の雲海を眺めながら、リアとカイは笑い合った。
「とんでもない冒険だったな」
「ええ。でも、始まりに過ぎないわ」
リアの持つ羅針盤の針は、今や安定したクリスタルを指し示すのをやめ、再び、空の彼方にある新たな一点を指して、静かに揺れていた。
世界のどこかにある、まだ見ぬ冒険の在り処を。二人の胸は、次なる旅への期待で、高鳴っていた。
風詠みの羅針盤と空飛ぶ島
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