世界から音が消えて、十年が経った。
風は無言で頬を撫で、雨は飛沫を上げるだけでアスファルトを叩く音を立てない。人々は手話と、必死の形相で交わされる筆談だけで意思を疎通し、世界は息苦しいほどの静寂に支配されていた。
かつて天才竪琴弾きと呼ばれた俺、リオの指は、その意味を失って久しい。音のない世界で、音楽は存在しない。人々が忘れたように、俺自身も忘れかけていた。弦が空気を震わせ、美しい旋律が生まれるあの奇跡の瞬間を。
希望など、とうに枯れ果てたはずだった。亡き祖父の遺品を整理していたあの日までは。埃をかぶった木箱の底から現れたのは、羊皮紙の古地図と一冊の手記。そこには、にわかには信じがたい伝説が記されていた。
『世界の頂、天を突く針のもとに、始まりの音叉は眠る。それこそが、失われた音を呼び覚ます唯一の鍵なり』
震える指でページをめくる。祖父の筆跡が、まるで語りかけてくるようだった。馬鹿げたおとぎ話だ。そう思う一方で、心の奥底で凍り付いていた何かが、微かに融けるのを感じた。俺は錆びついた愛用の竪琴を背負い、誰にも告げず、静寂の街を後にした。
音のない旅は、死と隣り合わせだった。背後から忍び寄る獣の気配も、崩れ落ちる岩の予兆も、すべてが沈黙の中に葬り去られる。頼りになるのは、地面から伝わる微かな振動と、肌をかすめる空気の揺らぎだけ。かつて耳で捉えていた世界の情報を、全身をアンテナにして拾い集めなければならなかった。
荒野を越え、乾いた川床を渡り、いくつもの廃墟のような町を通り過ぎた。人々は俺の背負う竪琴を見て、奇異の目を向けた。ある老婆は、懐かしそうに目を細め、手話で「昔、鳥の声が好きだった」と語ってくれた。ある若者は、俺の目的を嘲笑い、「音なんてものは、元から存在しない幻だ」と紙に書き殴った。
それでも、俺は歩みを止めなかった。進むごとに、五感は研ぎ澄まされていく。風の匂いで天候を予測し、地面の硬さで道筋を判断する。世界は音を失っても、その響きを別の形で伝えてくれていた。
そして数ヶ月後、俺はついに地図の示す場所へとたどり着いた。雲を突き抜け、天へと伸びる巨大な結晶質の山脈――「天を突く針」。そのあまりの荘厳さに、俺はただ立ち尽くすしかなかった。
「天を突く針」は、ただの山ではなかった。一歩足を踏み入れた途端、俺の精神は奇妙な幻覚に苛まれ始めた。聞こえるはずのない竪琴の音色、喝采を浴びた演奏会の記憶。そして、突如として世界から音が消え去ったあの日の、耳を塞いでも止まない無音の絶叫。幸せな過去と絶望的な現実が、代わる代わる俺を責め苛む。
「音とは、耳で聞くものだけではないのだよ、リオ」
幻覚の中に、今は亡き師の姿が現れた。穏やかな瞳で、彼はそう語りかける。
「心の耳で、世界の響きを感じるのだ」
師の言葉を振り払うように、俺はよろめきながら山頂を目指した。そして、息も絶え絶えにたどり着いた頂には、古びた石の祭壇と、そこに鎮座する巨大な水晶の音叉があった。これか。これが、「始まりの音叉」。
俺は震える手でそれに触れた。だが、それはただの冷たい石塊だった。何の力も、何の気配も感じられない。伝説は、やはりただのおとぎ話だったのか。希望の糸がぷつりと切れ、俺は膝から崩れ落ちた。静寂が、勝利を宣言するように世界を覆い尽くす。
絶望の淵で、ふと師の言葉が蘇った。『心の耳で、世界の響きを感じるのだ』。
俺はゆっくりと立ち上がり、背負っていた竪琴を構えた。傷だらけの、音を奏でることのない、ただの木と弦の塊。だが、これこそが俺の魂そのものだった。
目を閉じ、深く息を吸う。音を取り戻したいという願いではない。ただ純粋に、音楽を愛していた頃の気持ちを、この静寂の世界でたった一人、奏でたいと思った。
そっと、指で弦を弾いた。
もちろん、音はしない。だが、弦の震えが指先を打ち、竪琴の木を伝い、腕を駆け上り、胸の中心で確かな「響き」となった。それは俺だけに聞こえる、魂の音楽だった。
その瞬間。足元の巨大な水晶の音叉が、淡い光を放ち始めた。音ではない。光の波紋が、俺の心の音に共鳴するように、ゆっくりと、しかし確実に広がっていく。
光の波紋は山頂から世界へと降り注ぎ、沈黙に覆われた大地に触れていった。最初に聞こえたのは、微かな風の音だった。ざわめきが木々を揺らし、葉が擦れ合う音がそれに続く。そして、俺の心の内で鳴り響いていた竪琴の旋律が、現実の音となって世界に響き渡った。
各地で人々が空を見上げた。顔を見合わせ、信じられないといった表情で自身の喉に手を当てる。そして、誰かが発した小さな「あ」という声が、十年ぶりに世界に生まれた最初の人の声となった。それを皮切りに、堰を切ったように、泣き声、笑い声、歓喜の叫びが世界中に溢れ出した。鳥は歌い、川はせせらぎ、世界は失われたシンフォニーを取り戻したのだ。
俺は山頂で、生まれ変わった世界の音を全身で浴びていた。一度失ったからこそわかる、一つ一つの音が持つ、かけがえのない輝き。涙が頬を伝ったが、拭おうとは思わなかった。
俺は再び竪琴を構える。そして、新しい世界で最初の曲を、高らかに奏で始めた。それは絶望の果てに希望を見つけた、一人の男の冒険の歌。その音色は風に乗り、蘇った世界を祝福するように、どこまでも響き渡っていった。
沈黙の果てのソナタ
文字サイズ: