空に浮かぶ島々「浮遊諸島」で生まれ育ったカイは、典型的な“風読み”の一族の末裔だった。書庫にこもり、古文書の埃っぽい匂いに安らぎを見出す、臆病な青年。彼の冒険はいつも、黄ばんだ羊皮紙の上でだけ繰り広げられていた。
その日常が崩れ始めたのは、カイが住む島「エアリア」が、理由もなくゆっくりと高度を下げ始めた時からだ。島を浮かせる生命線である風が、日に日に弱まっていく。長老は、世界のすべての風が生まれるという伝説の地、“風の源流”に異変が起きているのだと告げた。
「カイよ、お前しかおらん」
長老に託されたのは、一族に伝わる古地図と、祖父が遺した奇妙なコンパス。針は南北ではなく、常に最も強い風の流れを指し示すという代物だった。
「僕が……? 無理です、本物の空は怖い」
震えるカイの肩を叩いたのは、背後から聞こえた快活な声だった。
「へぇ、面白そうな話じゃない。アタシの“シルフィード号”なら、どんな空域だってひとっ飛びだよ。ただし、料金はきっちりもらうけどね!」
振り向くと、腕利きの風帆船乗りとして名高いリナが、悪戯っぽく笑っていた。彼女の愛機、小型で高速なシルフィード号は、この空域で最も速い船として知られている。カイは震える手で祖父のコンパスを握りしめ、覚悟を決めた。こうして、臆病な風読みと、豪胆な船乗りの、奇妙な二人旅が始まった。
シルフィード号は、リナの操る通り、まるで燕のように滑らかに空を駆けた。眼下に広がる雲海、点在する緑豊かな浮遊島々。書物でしか知らなかった世界が、圧倒的な現実としてカイの眼前に広がる。
最初の試練は、突然訪れた。“静寂の海域(カーム・ベルト)”と呼ばれる、風が完全に死んだ魔の空域。シルフィード号は推進力を失い、まるで琥珀に閉じ込められた虫のように、ぴたりと動かなくなった。
「ちっ、最悪だわ……。このままじゃジリ貧よ」
焦るリナを横目に、カイは目を閉じ、全神経を集中させた。肌を撫でる大気の微かな揺らぎ、髪をかすめる極小の渦。彼は書物で学んだ知識ではなく、血に流れる“風読み”の感覚を呼び覚ましていた。
「リナ! 右舷前方、高度三十! かすかな上昇気流がある!」
「本気で言ってるの!?」
半信半疑のリナだったが、カイの真剣な眼差しに賭けた。彼女の卓越した帆の操作が、カイの指し示す、目には見えない風の道を的確に捉える。重々しく停滞していた船体が、ぎしり、と音を立てて動き出し、ゆっくりと、しかし確実に魔の空域を脱出した。
「あんた、ただの本の虫じゃなかったのね」
リナの言葉に、カイは少しだけ胸を張った。
古地図とコンパスが示す航路の先に、巨大な暗雲の渦が見えてきた。“雷雲の渦(サンダー・ヴォルテックス)”。船を飲み込み、雷で引き裂くという空の墓場だ。そして、その背後からは、黒煙を吐き出す巨大な蒸気船が猛追してきていた。空賊団“アイアン・クロウ”だ。彼らの狙いもまた、“風の源流”だった。
「挟み撃ちか! どうする、カイ!」
リナの絶叫が風に混じる。絶体絶命の状況で、カイの脳裏に古文書の一節が閃いた。
「渦の中心だ! 伝説では、巨大な嵐の中心には“竜の眼”と呼ばれる穏やかな場所がある!」
「正気なの!?」
「信じて!」
カイの叫びに、リナはニヤリと笑った。「面白くなってきたじゃない!」
シルフィード号は機首を雷雲に向け、一直線に突っ込んでいく。猛烈な風が帆を叩き、稲妻がマストをかすめる。カイはコンパスを睨みつけ、絶えず変化する風の隙間を叫び続けた。リナは神業のような操船で、荒れ狂う大気の奔流を乗りこなしていく。やがて、嘘のように風が止み、静寂と青空が広がる“竜の眼”に到達した。追ってきた空賊船は、渦の激流に巻き込まれ、翻弄されている。二人は束の間の休息の後、再び渦を抜け、ついに伝説の地へとたどり着いた。
“風の源流”は、カイの想像を絶する光景だった。空中に浮かぶ巨大な水晶体が無数にきらめき、それ自体が壮大な風を生み出している。その中心で、一際大きく輝くはずの“風の心臓”が、今は黒いイバラのようなものに覆われ、弱々しく明滅していた。
「あれが……異変の原因……」
カイが呟いたその時、傷だらけの空賊船が姿を現した。甲板に立つ冷酷な首領ギデオンが、嘲笑を浮かべる。
「小僧、ご苦労だったな。その“心臓”は俺様がいただく!」
「させるもんですか!」
リナがシルフィード号を急旋回させ、空賊船の注意を引きつける。その隙に、カイは船から飛び降り、近くの水晶体へと渡った。
“風の心臓”に近づき、カイは気づいた。イバラは心臓を蝕んでいるのではない。心臓が弱った結果、淀んだ気に引かれて巣食っているのだ。必要なのは破壊ではない。活性化だ。
カイは、一族に伝わる“風呼びの唄”を口ずさみ始めた。最初はか細く、震える声だったが、次第に力がこもっていく。彼の声は風と共鳴し、周囲の水晶体を震わせ、美しい音色を奏で始めた。それはまるで、空そのものが歌っているかのようだった。
その歌声に応えるように、“風の心臓”が眩い光を放ち始める。蘇った清浄な風の奔流が、黒いイバラを根こそぎ吹き飛ばしていく。力の奔流に抗えず、ギデオンの船は木の葉のように空の彼方へと弾き飛ばされた。
世界に、力強く、そして優しい風が戻った。カイの故郷エアリアも、再び安らかな高度を取り戻したことだろう。
シルフィード号の甲板で、カイは生まれ変わったような気持ちで空を眺めていた。隣でリナが笑う。
「借金返済どころか、世界を救っちゃったわね。で、英雄さん。次はどこへ冒険に行く?」
臆病な本の虫は、もうどこにもいなかった。そこには、自信に満ちた本物の冒険者が立っている。カイは祖父のコンパスを握りしめ、まだ見ぬ水平線の先を指さした。
「どこへだって行けるさ。この風と、君がいればね」
二人の冒険は、まだ始まったばかりだった。
風の源流と空渡りのコンパス
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