歯車と蒸気の匂いが立ち込める街「ギアブルク」で、リアムは空を見上げる変わり者だった。人々が地上の富を求めて鉄と石炭にまみれる中、彼の心は祖父が遺した一冊の古びた日記と共に、雲の遥か彼方にあった。日記に描かれた、伝説の天空の島「エオリア」。そして、そこへ導くという「風の羅針盤」の設計図。
「できた……ついに完成したぞ!」
リアムは工房で、手のひらに載るほどの真鍮製の羅針盤を掲げた。通常の磁石とは違い、その針は北ではなく、絶えず微かな風の流れを捉え、ゆらゆらと宙を指し示している。彼の夢を乗せるべく、なけなしの金で組み上げた小型飛行船「イカロス号」の操舵席に、リアムは震える手で羅針盤を設置した。あとは、このポンコツ船を空の果てまで飛ばせる腕利きのパイロットだけだ。
噂を頼りに訪ねた酒場で、リアムはセーラと出会った。歴戦のゴーグルを額に上げた彼女は、グラスの蒸留酒を傾けながら、リアムの計画を鼻で笑った。
「天空の島? あんた、まだそんなおとぎ話を信じてるのかい。悪いが、子どもの夢に付き合うほど暇じゃないんでね」
「報酬は弾みます。僕の全財産です」
リアムが差し出した金貨袋に、セーラは片眉を上げた。だが、彼女の心を本当に動かしたのは、金貨の重みよりも、リアムが見せた風の羅針盤の不可思議な輝きだった。北でも南でもない、未知の空域を指し続ける針に、彼女のパイロットとしての本能が疼いた。
「……いいだろう。ただし、墜落しても文句は言うなよ」
イカロス号は、セーラの操縦で荒々しくも力強く大空へ舞い上がった。風の羅針盤が指し示す先は、船乗りたちが「悪魔の喉笛」と呼んで決して近づかない、巨大な積乱雲の渦巻く空域だった。
「本気でここへ突っ込むのかい!?」
セーラの怒声が、轟く雷鳴にかき消される。
「羅針盤がここを指しているんです! 信じてください!」
リアムの叫びに応えるように、セーラはぐっと操縦桿を握りしめた。イカロス号は巨大な雲の壁に飲み込まれた。
視界はゼロ。激しい乱気流が、木の葉のように船体を揺さぶる。その時、稲光に照らされた闇の中から、巨大な影が姿を現した。鮫のような流線型の船体に、無数の砲門を備えた最新鋭の武装飛行艇「タイラント号」。その船首には、富と名声のためなら手段を選ばない空賊、バルガスの紋章が描かれていた。
「小僧、その羅針盤は俺様がいただく!」
スピーカーから響く嘲笑と共に、火線がイカロス号の翼を掠めた。
「あの野郎、伝説を横取りする気か!」
セーラが悪態をつきながら、神業のような操縦で機体を反転させる。リアムは機関室に駆け込むと、安全弁を無視してボイラーの圧力を限界まで引き上げた。
「セーラ、今です!」
蒸気が爆発的な勢いで噴出し、イカロス号は矢のように加速。追撃を振り切り、雲の迷宮の中へと逃げ込んだ。
どれほどの時間が経っただろうか。死闘でボロボロになったイカロス号が、ふっと静寂に包まれた。嵐を抜けたのだ。
「……嘘だろ」
セーラの呟きに、リアムも息を呑んだ。
目の前には、どこまでも広がる雲海。そして、その上に荘厳に浮かぶ、巨大な一つの島があった。豊かな緑に覆われ、巨大な滝が島から雲の下へと流れ落ちている。水晶のように透き通った建造物が、木々の間から太陽の光を反射してきらめいていた。
「エオリア……」
リアムの目から、涙がこぼれ落ちた。
島に降り立った二人を迎えたのは、人の姿をした穏やかな自動人形(ガーディアン)たちだった。彼らは何世紀もの間、主を失ったこの島を静かに守り続けていた。島の中心にある神殿に導かれた二人は、エオリアの真実を知る。かつて地上の大災害から逃れるため、古代人はこの島を空に浮かせた。しかし、その浮遊を支える動力源「エーテル・コア」が、長い年月の果てにエネルギーを失い、島全体がゆっくりと落下を始めているというのだ。
「そんな……せっかく見つけたのに、失われてしまうなんて!」
リアムが絶望に声を震わせたその時、神殿の床が大きく揺れた。崩壊が始まったのだ。
「泣いてる暇はないぞ、発明家!」セーラがリアムの肩を叩く。「あんたの知識で、そのコアとやらを再起動させる方法はないのかい?」
リアムは祖父の日記と神殿の壁画を必死に照らし合わせる。
「方法はある……でも、危険すぎます! コアに直接、外部からの衝撃エネルギーを与えるしかない!」
「つまり、イカロス号をぶつけるってことかい。面白いじゃないか!」
セーラは不敵に笑った。
作戦は無謀そのものだった。リアムがガーディアンたちの助けを借りて崩れゆく神殿の最下層へ向かい、コアの制御盤を操作。そのタイミングに合わせて、セーラがイカロス号でコアの真下にあるエネルギー集積点に突っ込む。
「リアム、合図を!」
無線からセーラの声が響く。リアムは落下する瓦礫を避けながら、最後のレバーを押し込んだ。
「今です、セーラ!」
直後、凄まじい衝撃音と共に、神殿全体が青白い光に包まれた。
リアムが意識を取り戻した時、島の揺れは完全に収まっていた。エーテル・コアは再び力強い鼓動を取り戻し、エオリアは空にその位置を固定していた。ガーディアンたちが、大破しながらも奇跡的に船体をとどめたイカロス号から、セーラを助け出している。
「……あんたのおとぎ話も、たまには役に立つもんだね」
煤だらけの顔で笑うセーラに、リアムも笑い返した。
数日後、ガーディアンたちの手で完全に修復されたイカロス号は、新たな翼を得てエオリアを飛び立った。古代の叡智の一端を授かり、彼らの船は以前よりも力強く風を捉えていた。
眼下に広がる無限の世界を見下ろしながら、セーラが尋ねる。
「で、次のおとぎ話はどこにあるんだい、船長?」
リアムは操舵席に目をやった。修復された風の羅針盤の針が、今また、新たな冒険が待つ未知の空域を、きらめきながら指し示していた。
「さあ、風に聞いてみましょう」
二人の冒険は、まだ始まったばかりだった。
風の羅針盤と天空の島
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