沈黙の味
1 4357 文字 読了目安: 約9分
文字サイズ:
表示モード:

沈黙の味

第一章 苦い破片と甘い記憶

街は、耳障りな結晶に埋もれていた。

家々の屋根にも、石畳の道にも、人々の肩にも、鋭利な『不協和音の破片』が降り積もる。それは、誰かの怒声が凍てついた黒曜石の棘であり、絶望の溜息が固まった鈍色のガラス片だった。人々は厚い外套の襟を立て、うつむき加減に足早に通り過ぎていく。互いの視線を交わすこともなく、新たな不協和音を生み出さぬよう、唇を固く結んで。

調律師のアオは、路傍に落ちていたひときわ大きな破片を拾い上げた。指先が、その鋭利な縁に触れてちくりと痛む。彼はためらわず、その黒い結晶を舌に乗せた。瞬間、焼けた鉄のような苦味が口内を満たし、喉の奥を刺すような辛さが広がった。目を閉じると、見知らぬ男女が互いを罵り合う光景が網膜に焼き付く。憎悪と疲労が混じり合った、救いのない味。アオは静かにそれを飲み下し、空を見上げた。灰色の空からは、今日もまた無数の苦い味が降り注いでいる。

かつて、この世界は美しい音で満ちていたという。鳥のさえずりは夜明けの光を宿した琥珀となり、恋人たちの愛の囁きは月の光を閉じ込めた真珠となった。そして、至高の音楽家が奏でる旋律は、七色に輝く『旋律の石』として、人々の心を温めていた。アオの舌は、その甘さを知っている。

懐から、小さな布袋を取り出す。中には、爪の先ほどの大きさの乳白色の石。師であり、母のような存在だったリリィの形見だ。彼女が最後に奏でたリュートの音色が結晶化したもの。そっと口に含むと、蜂蜜と熟した果実を合わせたような、優しく芳醇な甘みが広がった。目を閉じれば、暖炉のそばで微笑むリリィの姿が浮かぶ。彼女の指が弦を弾くたびに生まれる柔らかな光の粒。それは、世界がまだ優しさに満ちていた頃の記憶の味だった。

「リリィ……なぜ、旋律は失われてしまったんだ?」

答えのない問いが、吐息と共に白い結晶となって霧散する。世界から『旋律の石』が消え始めたのは、いつからだったか。代わりに増え続ける『不協和音の破片』。そして、その原因とされる世界の中心、あらゆる音を拒絶する『大沈黙の壁』。

アオは決意を固めた。リリィが遺したもう一つの品、古びた『共鳴砂時計』を強く握りしめる。この砂時計だけが、失われた音の残響を聴かせてくれる。

壁の向こうに、答えがあるはずだ。失われた旋律の源泉が。

この世界を、再び甘い音で満たすために。アオは、苦い破片が積もる道を、ただ一人、世界の中心へと歩き始めた。

第二章 砂時計が紡ぐ残響

『大沈黙の壁』への旅路は、過去の音の墓標を辿る巡礼のようだった。アオは、打ち捨てられた村や、風化した街の跡をいくつも通り過ぎた。そこには、かつて響いていたであろう音の残骸が、静かに眠っているだけだった。

ある涸れた泉のほとりで、アオは地面に半ば埋もれた、丸みを帯びた石を見つけた。それは淡い翠色を放つ『旋律の石』の欠片だった。ひび割れ、輝きもほとんど失われている。彼はそっと膝をつき、『共鳴砂時計』をその石のそばに置いた。砂時計の中の銀色の砂が、石に呼応するように微かな光を放ち始める。

アオは、ゆっくりと砂時計を反した。

サラサラと砂が落ちる音と同時に、世界の色が変わる。

幻視が始まった。目の前の涸れた泉には清らかな水が満ち、その周りでは村人たちが輪になって踊っていた。軽やかな笛の音が風に乗り、子供たちの屈託のない笑い声が弾ける。アオの舌の上に、瑞々しいミントのような爽やかな甘さが広がった。それは共同体の喜びと、ささやかな幸福の味だった。幻の村人たちが、アオには目もくれず、楽しげに歌い踊っている。彼は、時間に置き去りにされた幽霊のように、ただその光景を味わっていた。

しかし、砂が落ちきると同時に、幻は陽炎のように消え失せた。再び目の前に広がるのは、荒涼とした大地と、沈黙した泉の跡。そして舌に残るのは、幻の甘さの残滓と、現実の乾いた苦味だけだった。この落差が、アオの胸を締め付ける。

旅を続けるうちに、アオは気づいていた。『大沈黙の壁』に近づくほど、あらゆる音の結晶が少なくなっていく。風の音さえも、次第にその輪郭を失い、大気は粘性を帯びたように重くなっていく。まるで巨大な何かが、世界の音をすべて吸い尽くそうとしているかのようだ。

ついに、地平線の彼方に巨大な壁が見えてきた。それは建造物ではなかった。空間そのものが歪み、凍りついたかのような、巨大な『透明な音の壁』。光を不自然に屈折させ、その向こう側を蜃気楼のように揺らめかせている。触れることのできる、絶対的な沈黙。あれが、世界の音の終着点。

アオは乾いた唇を舐め、一歩、また一歩と、音の無い世界へと足を踏み入れた。

第三章 大沈黙の向こう側

『大沈黙の壁』の前に立ったアオは、その圧倒的な存在感に息を呑んだ。それは天まで届く巨大な氷塊のようであり、同時にどこまでも深い水底のようでもあった。耳は何も捉えない。だが、皮膚が、骨が、完全な無音の圧力を感じて悲鳴を上げていた。ここには、いかなる音の結晶も存在しない。喜びも、悲しみも、すべてがこの壁に吸い込まれ、無に帰すのだ。

どうすれば、この壁を越えられるのか。

アオは途方に暮れかけた。その時、懐でリリィの形見の石が、微かに熱を帯びていることに気づく。彼は導かれるように、その乳白色の石を『共鳴砂時計』の窪みにはめ込んだ。

次の瞬間、砂時計がこれまでになく激しい光を放った。アオが手を離すと、砂時計は宙に浮かび、リリィの石から放たれた柔らかな光が一条の筋となって『大沈黙の壁』に突き刺さる。

キィン、と。

初めて、この沈黙の世界で音が生まれた。ガラスにひびが入るような、鋭く、そしてどこか澄んだ音。アオが舌で感じたのは、リリィの旋律石が持つ、あの優しい甘さだった。リリィの最後の音が、この絶対的な沈黙をこじ開ける唯一の鍵だったのだ。

壁に生まれた亀裂は、蜘蛛の巣のように広がっていく。やがて、人の通れるほどの穴が空くと、砂時計は光を失い、アオの手の中に落ちた。

アオは意を決して、穴の向こうへと足を踏み入れた。

しかし、そこに広がっていたのは、彼が夢見ていた『調律の泉』ではなかった。

それは、巨大な機械仕掛けの聖域だった。

無数のパイプが血管のように絡み合い、巨大な歯車がゆっくりと、しかし苦しげに回転している。空間の中心には、水晶でできた巨大な心臓が吊り下げられ、弱々しい光を明滅させていた。壁の向こう側から絶えず流れ込んでくる、目に見えないエネルギーを必死に処理しているようだった。ここは、失われた旋律の源泉などではない。世界の全ての音を一度吸収し、ろ過し、調律して再び世界へ送り出すための、巨大な『音の処理装置』だった。

装置の中心部、水晶の心臓の中を覗き込み、アオは戦慄した。そこには、世界中から吸い込まれたおびただしい数の『不協和音の破片』が、ヘドロのように淀み、装置の機能を麻痺させていた。喜びや愛といった『旋律の石』は、この不協和音の濁流の中で溶かされ、力を失っていた。

装置が発する弱々しい呻き。それは結晶化しない、内部の純粋な苦痛の音。

世界を沈黙させたのは、この装置自身だったのだ。増えすぎた負の感情を処理しきれず、自らがオーバーロードで崩壊するのを防ぐために、世界との接続を一時的に遮断した。それが『大沈黙の壁』の正体だった。

第四章 未完の旋律

真実を前に、アオは立ち尽くした。世界を救うはずの伝説は存在せず、そこにあったのは、世界の悲鳴に耐えきれず、自ら機能を停止した巨大な機械だった。この装置が壊れれば、世界は制御不能な不協和音で満たされ、崩壊するだろう。

アオは、ゆっくりと装置の心臓部へと歩み寄った。手を伸ばすと、水晶の表面から、痺れるような苦味が伝わってくる。彼の舌は、この機械が味わってきた幾億もの人々の苦痛を、一瞬にして感じ取った。その時、彼は悟った。自分の持つこの味覚共感覚は、ただ音を味わうためだけのものではない。音の感情を深く理解し、その流れを調律するために与えられた力なのだと。自分こそが、この装置と世界を繋ぐ、生身の調律師なのだと。

彼は覚悟を決めた。

両手をそっと、水晶の心臓に重ねる。そして、意識を集中させ、自らの記憶の最も深い場所にある音を呼び覚ました。それは、まだ幼かった彼が、師であるリリィと初めて奏でた二重奏の記憶。拙く、不揃いだったが、確かな喜びと信頼に満ちていた、あの日の旋律。

「リリィ……あなたの音を、世界に返すよ」

アオの記憶から生まれた旋律が、彼の舌の上で至高の甘みとなり、その感情の奔流が、両手を通じて装置の中核へと流れ込んでいく。それは、苦痛に喘ぐ巨大な機械への鎮魂歌であり、再起動を促す生命の息吹だった。

装置が、激しく振動を始めた。水晶の心臓は眩い光を放ち、内部で淀んでいた『不協和音の破片』を砕き、溶かし、吸収していく。だが、それは浄化ではなかった。装置は、蓄積された全ての感情――喜び、悲しみ、怒り、憎しみ、そして愛――を調律することなく、未加工のまま世界へ再放出する道を選んだのだ。

ゴオオオオ、と地響きが鳴り、アオの背後にあった『大沈黙の壁』がガラスのように砕け散った。

世界に、音が戻る。

アオは装置の聖域から外へ出た。彼がそこで浴びたのは、かつてのような調和の取れた美しい音楽ではなかった。それは、あらゆる感情が混ざり合った、生の『音の混沌』だった。遠い街で生まれた赤ん坊の産声。見知らぬ恋人たちの囁き。老婆の嘆き。嵐の轟き。祈りの声。呪いの声。それら全てが、一つの巨大な奔流となって世界を満たしていた。

アオの舌の上で、甘さ、苦さ、辛さ、酸っぱさ、そして名付けようのない無数の味が、一度に爆発した。それは耐え難いほどの刺激だったが、不思議と不快ではなかった。むしろ、これこそが生きている世界の本当の味なのだと感じた。

空を見上げる。そこからはもはや、美しい『旋律の石』も、鋭い『不協和音の破片』も降ってこない。ただ、目に見えない音の粒子が、雨のように降り注いでいるだけだ。

人々は戸惑いながらも、家の窓を開け、空を見上げ、久しぶりに戻ってきた音に耳を澄ませていた。

アオは、そっと目を閉じた。

彼の旅は終わったのではない。始まったのだ。

この混沌とした、ありのままの世界の音の中から、新しい調和を見つけ出す。それこそが、これからの調律師の仕事なのだ。

アオは、未完の旋律に満ちた世界に向かって、静かに微笑んだ。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと...

TOPへ戻る