第一章 色褪せた海図
「失くしたんです。私の人生で、最も大切なものを」
曇りガラスの向こう側で滲む街の灯りを背に、老人は静かにそう言った。彼の名はアキラ。深く刻まれた皺は穏やかな入り江のようだったが、その瞳の奥には、干上がった海の底のような、茫洋とした喪失感が広がっていた。
俺、カイトは記憶潜航士(メモリーダイバー)だ。特殊なニューロ・インターフェースを介し、他人の精神の海、すなわち記憶の深層に潜る。失われた鍵の在り処、忘れたはずのパスワード、あるいは、トラウマという名の沈没船。俺の仕事は、そんな記憶の海の底から、依頼人が求める「何か」をサルベージすることだ。
「最も大切なもの、ですか。具体的には?」
俺は機械的に尋ねた。これまでの依頼は常に具体的だった。しかし、アキラの依頼はあまりに漠然としていた。まるで、存在しない海を指し示す、色褪せた海図のようだ。
「それが分かっていれば、あなたに頼みはしませんよ」老人は寂しそうに笑った。「ただ、胸にぽっかりと穴が空いている。冷たい風が吹き抜けるような、この感覚だけが確かなんです」
破格の報酬。曖昧な依頼内容。何か裏がある。俺の直感が警鐘を鳴らしていたが、それ以上に、彼の瞳の奥にある空虚が、俺自身の内側にある何かと共鳴した。かつて、俺も潜航中の事故で大切な相棒を失った。その喪失感は、今も俺の精神の海に、決して消えない傷として刻まれている。
「分かりました。引き受けましょう」
俺はアキラを潜航用のリクライナーに横たわらせ、ヘッドギアを装着させた。ケーブルが繋がり、コンソールのスクリーンに彼の脳波パターンが青い波形となって映し出される。
「深く、息をしてください。これからあなたの海に潜ります」
俺も隣のリクライナーに身を沈め、自身のヘッドギアを装着する。瞼を閉じると、意識が急速に遠のいていく。冷たい水の流れに身を委ねるような感覚。次の瞬間、俺はアキラの記憶の海に立っていた。
そこは、音も色も失われた、静寂の海だった。足元には灰色の砂が広がり、空には鉛色の雲が垂れ込めている。波の音すらしない。生命の気配が完全に欠落した、死んだ海。これまで潜ってきた誰の記憶とも違う、不気味な光景だった。
俺は歩き出した。目標はない。ただ、この広大な無音の世界で、何か「引っかかり」を探すしかない。しばらく進むと、遠くにかすかな影が見えた。近づくにつれ、それは巨大な建造物のシルエットだと分かった。古い、白亜の灯台だ。しかし、その灯りは消えていた。灯台の麓には、小さな人影が佇んでいた。少女のようだ。だが、俺が近づこうとすると、少女の姿は陽炎のように揺らめき、ふっと消えてしまった。
手がかりは灯台と、消えた少女。俺は一度、浮上することにした。意識が現実に戻ると、疲労感が全身を襲う。目の前では、アキラが安らかな寝息を立てていた。彼の失くしたものは、あの灯台に眠っている。俺は確信していた。
第二章 追憶の灯台守
二度目の潜航。俺は迷わず、あの灰色の砂浜に降り立った。目標は明確だ。消えた灯台。
前回よりも海は荒れていた。無音だった世界に、ざあざあと空虚な風の音が響き渡っている。俺という異物の侵入を、彼の記憶が拒絶し始めている証拠だ。精神の海は、時に侵入者を排除するため、記憶の断片を具現化させた「防衛機制」を生み出す。嵐はその前兆だった。
俺は風に抗いながら灯台へと向かった。錆びついた鉄の扉は、軋みながらも開いた。内部は螺旋階段がどこまでも続いている。壁には無数の写真が飾られていたが、どれも顔の部分だけが黒く塗りつぶされ、誰なのか判別できない。この記憶の主が、何かを必死に忘れようとしている強い意志を感じた。
階段を上りきると、灯室に一人の男が立っていた。窓の外の荒れ狂う景色を、背を向けてじっと見つめている。年の頃は俺と同じくらいだろうか。
「誰だ。ここは立ち入り禁止だ」
男が振り返る。その顔を見て、俺は息を呑んだ。アキラ老人と瓜二つの、若い頃の彼だった。これが、この記憶世界の番人、「灯台守」か。
「俺はカイト。アキラさんの依頼で来た」
「依頼だと?あの人は、ただ静かに忘れたいだけだ。余計なことをするな。お前のような部外者が踏み込んでいい場所じゃない」
灯台守の目は、冷たい拒絶に満ちていた。
「彼は失くしたものを探している。あんたが何か隠しているんじゃないのか?」
俺が詰め寄ると、灯台守はフッと嘲るように笑った。「探しているのではない。捨てたのだ。耐えきれない悲しみから身を守るために、自ら記憶をこの灯台に封印した。それをこじ開けることが、本当によかれとでも?」
彼の言葉は重く、俺の胸に突き刺さった。確かに、忘れることでしか救われない魂もある。俺は相棒を失ったあの日から、何度もそう願った。
しかし、依頼は依頼だ。そして、アキラの瞳の奥の空虚は、忘れることで救われた者のそれではない。
「それでも、彼は知りたがっている。たとえ、それがどんなに辛い記憶だとしても」
俺は灯台守の横をすり抜け、灯台の巨大なレンズに手をかけた。ここからなら、この記憶世界の全景が見渡せるはずだ。
「やめろ!」
灯台守が俺を止めようと腕を掴む。だが、遅かった。俺の指がレンズに触れた瞬間、まばゆい光が灯室を満たし、俺の意識はさらに深い層へと引きずり込まれていった。
第三章 約束の地平線
視界が晴れた時、俺は灯台の頂上に立っていた。しかし、眼下に広がる景色は、先ほどまでの灰色の海ではなかった。
どこまでも続く、夏の入道雲。きらめく紺碧の海。白い砂浜に打ち寄せる、優しい波の音。潮の香りが鼻腔をくすぐる。それは、全ての記憶の源流である「原風景」。最も純粋で、改変されていない記憶の聖域だ。
そして、俺はその風景を知っていた。
脳裏に焼き付いて離れない、俺自身の子供時代の記憶。夏休みに祖父の家で過ごした、あの海だ。
なぜ、アキラの記憶の奥に、俺の原風景が存在する?混乱する俺の耳に、優しい声が届いた。
「やっと来たね、カイト」
振り返ると、そこに少女が立っていた。第一回の潜航で見た、あの陽炎のような少女だ。彼女は微笑んでいた。その笑顔を見た瞬間、俺の全身を雷が貫いたような衝撃が走った。忘れるはずがない。俺の相棒、ミナミ。潜航中の事故で、俺の腕の中で意識を失った、彼女の若き日の姿だった。
「ミナミ…?どうして、君がここに…?」
声が震える。ここはアキラの記憶のはずだ。
ミナミは悲しそうに首を振った。そして、信じがたい言葉を口にした。
「ここは、あなたの記憶だよ。ううん、正確には、未来のあなたの記憶」
未来の、俺の記憶?
「あの依頼人、アキラさんは…」ミナミは俺の目を真っ直ぐに見つめて言った。「遠い未来の、あなた自身なのよ」
頭を殴られたような衝撃。点と点が、恐ろしい線で結ばれていく。アキラの瞳の奥にあった、俺と同じ種類の喪失感。俺自身の原風景。そして、目の前にいるミナミ。
未来の俺は、何らかの理由でミナミに関する最も大切な記憶を失ってしまう。その耐えがたい喪失感に苦しみ、時間を超える禁断の技術を使って、過去の自分自身に、失われた記憶のサルベージを依頼してきたのだ。
この冒険は、他人の記憶への旅ではなかった。俺自身の、未来の悲しみを辿る旅だった。
「どうして…未来の俺は、君を忘れてしまうんだ?」
「それは言えない。未来はまだ、確定していないから」
ミナミはそう言うと、そっと俺の頬に手を触れた。その温かい感触は、あまりにもリアルだった。
「でもね、カイト。忘れてしまうこと自体は、悲しいことじゃない。本当に悲しいのは、忘れられたことさえ、忘れられてしまうこと。だから…あなたは、思い出そうとしてくれた。未来のあなたは、私を忘れても、私を想う気持ちだけは忘れなかった。それが、嬉しい」
彼女の言葉が、凍てついていた俺の心をゆっくりと溶かしていく。俺は、ミナミを失ったあの日から、彼女の記憶を風化させまいと必死だった。忘れることは裏切りだと、自分を責め続けてきた。だが、違ったのかもしれない。
第四章 未来からの漂流者
俺は、失うことの恐怖ではなく、たとえ記憶が薄れても、そこに在った想いや繋がりの尊さを、記憶の中のミナミに教えられた。未来の俺はミナミを忘れる。それは耐えがたい運命だ。しかし、彼はその喪失の痛みの中から、俺に助けを求めた。忘れたくないという、魂の叫びを届けに来たのだ。
「ありがとう、ミナミ」
俺が言うと、彼女は優しく微笑み、その姿が光の粒子となって霧散していく。原風景が崩れ始め、俺の意識は急速に現実へと引き戻された。
ヘッドギアを外すと、目の前に座る老人、アキラが穏やかな顔で俺を見ていた。その瞳には、もうあの空虚な色はなかった。代わりに、深い慈愛と、ほんの少しの寂しさが浮かんでいる。
「ありがとう」未来の俺は、現在の俺に言った。「これで、安心して忘れられる」
その言葉と共に、アキラの輪郭がゆっくりと揺らぎ始めた。まるで陽炎のように、彼の存在が希薄になっていく。彼は未来からの時間的な漂流者だったのだ。目的を果たした今、彼は本来いるべき時間軸へと収束していく。
「待ってくれ!」俺は叫んだ。「未来で何が起こるんだ?どうすれば君を…俺を救える?」
アキラは、完全に消える直前、ただ静かに微笑んで言った。
「救う必要はない。ただ、今日という日を、大切に生きればいい。彼女との時間を、一瞬一瞬、心に刻んで」
彼の姿は完全に消え、部屋には俺一人だけが残された。机の上には、約束された報酬だけが、まるで幻の証のように置かれていた。
俺は立ち上がり、窓の外を見た。夕暮れの街の向こうに、小さな灯台が見えた。俺はまだ、あの場所を訪れたことはない。だが、いつか訪れるであろう未来の約束の場所として、その風景は俺の胸に深く刻み込まれた。
未来の俺は、ミナミを失い、その記憶さえも失うのかもしれない。その運命は変えられないのかもしれない。だが、絶望はなかった。未来の自分から託された、一つの希望。それは、喪失の未来を知った今だからこそ、これからの一日一日を、何よりも大切に生きるという決意だった。
俺の冒険は、他人の記憶の海に潜ることから始まった。しかし、行き着いたのは、未来の自分自身の魂だった。これは何かを得るための冒険ではなかった。失われると知ったものを、それでも愛し続けると誓うための、静かで、そして壮大な冒険だったのだ。
俺は窓辺の灯台にそっと手を振り、新しい一日へと歩き出した。