第一章 背後の道
カイの背後には、常に道があった。アスファルトの道、砂利道、獣道、あるいは光の筋のような頼りない道。それらは彼がこれまで下してきた無数の「選択」が物理的な形を成したもので、地平線の彼方まで複雑に絡み合いながら伸びていた。彼は時折、振り返っては、その果てしない分岐をぼんやりと眺めるのが癖だった。
この街では、誰もが時間の揺らぎと共に生きている。今しがた歩いていた石畳の路地が、次の瞬間には鋼鉄の未来都市の通路に変わり、古びた街灯の光がネオンの洪水に飲み込まれる。建物の壁からジュラ紀の羊歯植物が顔を出し、その葉先に滴る朝露の匂いが、排気ガスのそれに混じる。人々は慣れたもので、風景の急変に眉一つ動かさず、ただ足元の座標だけを頼りに目的地を目指すのだ。
「またか」
カイは溜め息をついた。目の前のカフェが、一瞬の空間の歪みとともに、茅葺屋根の茶屋へと変貌した。店先から漂うのは、焙煎された珈琲豆の香りではなく、香ばしい団子の匂い。カイが後悔していたのは、ほんの些細なことだった。昨日の夕暮れ、この場所で友人のリナと交わした約束。彼女の研究を手伝うという約束を、くだらない意地から反故にしてしまった。
彼は背後の道に意識を集中する。無数の道の中から、昨日の夕暮れに繋がる、まだ真新しい一本の道を探し出す。それはアスファルトの、ありふれた道だった。一歩、足を踏み入れる。世界がぐにゃりと歪み、周囲の色と音が逆再生のように巻き戻っていく。
目を開けると、カフェのテラス席に座るリナの姿があった。彼女は不満げに唇を尖らせている。カイは深呼吸し、今度は違う言葉を選んだ。
「すまない、やっぱり手伝うよ。君の研究は、この不安定な世界にとって重要だからな」
リナの顔が、ぱっと花が咲くように明るくなった。その笑顔を見ただけで、胸のつかえが取れる。
元の時間に戻ると、背後の道に変化が起きていた。未来へと伸びていた幾本もの細い光の道のうち、確かに一本がふっと掻き消えた。選択をやり直すたびに、可能性という名の未来が一つ、消滅する。それがこの能力の代償だった。小さな安堵と、それ以上に大きな喪失感が、彼の心を静かに蝕んでいた。その時、街の向こうで甲高いサイレンが鳴り響いた。東地区の一角が、全てが白銀の結晶と化した「未曾有の未来」に完全に固定されてしまったのだという。時間の揺らぎが、確実にその均衡を失い始めていた。
第二章 揺らぐ羅針盤
翌日、カイのアパートのドアを叩いたのは、リナその人だった。彼女は興奮と不安が入り混じった表情で、古びた真鍮製の羅針盤を突き出した。
「カイ、これを見て」
それは「時相羅針盤」と呼ばれる遺物だった。ガラスの下の文字盤には見慣れない古代文字が刻まれ、中央の針は痙攣するように震え、定まることを知らない。
「伝説では、『時間の中枢』の場所を示すと言われているわ。世界の時間の流れを司る、心臓部のような場所。最近の異常な固定化現象は、きっと中枢が機能を停止したせいよ」
リナはそう言って、羅針盤をカイに手渡した。彼の手に収まった途端、針の揺れが僅かに、ほんの僅かに収まったように見えた。
「ただのガラクタさ。気休めにしかならない」カイは皮肉っぽく笑ってみせたが、内心では彼女の言葉に惹きつけられていた。
リナは諦めなかった。彼女はカイの背後に伸びる「選択の道」に目をやった。
「待って。カイ、その一番太い道に近づいてみて」
言われるがまま、カイは幼い頃の大きな決断から伸びる、深く轍の刻まれた道へと数歩近づいた。その瞬間、羅針盤の針が狂ったような回転を止め、びくりと震えながら、街の南西の方角を微かに指し示したのだ。
「あなたの能力が……過去の選択という特異点が、羅針盤を正常に動かす鍵なのかもしれない」
リナの瞳が、発見の喜びに輝いていた。
二人は、羅針盤が指し示す「境界」と呼ばれる地区へと向かうことにした。そこは時間の揺らぎが最も激しく、誰も近寄らない危険地帯だった。高層ビルの谷間を歩いていると、足元のコンクリートが突如ぬかるんだ湿地の土に変わり、太古の虫の羽音が耳元をかすめる。リナはカイの腕を強く掴んだ。彼女の指先から伝わる微かな震えが、この旅の危険性を物語っていた。
第三章 ありえない過去
「境界」は混沌そのものだった。数秒前まで聳え立っていたガラス張りの超高層ビルが、次の瞬間には巨大な蕨の群生する原始の森へと姿を変え、咆哮する恐竜の影が空をよぎる。肌を撫でる空気は、湿った土の匂いと、金属が焼けるオゾンの匂いを交互に繰り返した。
「こっちよ!」
リナが叫び、カイはその手を引いて、時間の裂け目を縫うように走った。時相羅針盤の針は、今や一点を指して微動だにしなくなっていた。その先には、ぽっかりと口を開けた空間の穴があった。周囲の風景がどれだけ激しく移り変わろうと、その穴の向こう側だけは、不気味なほどに静止していた。
そこは、ありえない過去だった。生命の痕跡が一切ない、赤茶けた大地が広がる原始の惑星。空には巨大な二つの月が浮かび、この地球の歴史上、一度も存在しなかった光景が広がっていた。時間が固定されている。それも、本来なら存在し得ない時間軸に。
「なんてこと……。時間の連続性が、根底から崩壊し始めているんだわ」
リナは蒼白な顔で呟いた。その声は、吹き抜ける乾いた風にかき消されそうだった。
このままでは、世界そのものが意味を失ってしまう。街が、人々が、そしてリナが生きるこの世界が、意味不明な時空の断片に成り果ててしまう。カイは拳を強く握りしめた。どんな代償を払ってでも、これを止めなければならない。彼はリナの肩を抱き寄せた。彼女を守りたい。その一心で、心の奥底にあった恐怖が、確かな覚悟へと変わっていくのを感じていた。羅針盤の針は、今やその「ありえない過去」の中心、さらにその奥を指し示していた。時間の中枢は、この先にある。
第四章 中枢の扉
羅針盤が最終的に指し示した場所は、カイの記憶の最も深い場所にあった。寂れた港町。彼が幼い頃に暮らし、そしてリナと離れ離れになる原因となった、あの日の「選択」をした場所だった。
彼の背後には、その時の選択から伸びる、ひときわ太く、深く刻まれた道があった。他のどの道よりも帰りたかった道であり、同時に、最も恐れていた道でもあった。この道を辿れば、きっと多くの未来が失われるだろう。
「行くのか、カイ」リナの声が震えていた。「その道は……あなたの人生で一番大きな選択だったはず。それをやり直したら、未来のあなたが失うものは計り知れないわ」
「それでも、行くしかないんだ」
カイはリナを見つめ、静かに頷いた。彼女の悲しげな瞳から目を逸らし、彼は決意を込めて、その最も太い道へと足を踏み入れた。
視界が白く染まり、時間の奔流が彼を飲み込む。しかし、彼が再び目を開けた時、そこにあったのは懐かしい港町の風景ではなかった。
そこは、無限に広がる光の粒子が舞う、純白の空間だった。時間の概念すら存在しないかのような、静寂に満ちた場所。空間の中央には、巨大な水晶のような装置が静かに脈動しており、その中心から、ぼんやりとした人影が浮かび上がった。それは、深く皺が刻まれた、年老いたカイ自身の姿だった。
『よく来た、若き日の私よ』
老いたカイのホログラムが、穏やかな声で語りかけた。
『ここは時間の中枢。そしてこの装置は、私が作り上げたものだ。未来において、世界の時間軸は完全に崩壊した。それを食い止めるため、私は自らの存在を核とし、この場所に時空を固定するアンカーを設置した。過去の世界を、揺らぎながらも安定させるためにな』
しかし、と彼は続けた。
『私のエネルギーは尽きかけている。装置は停止寸前だ。再起動するには、新しい核が必要となる。この時代に生きる、時空の特異点である……お前の存在そのものが』
第五章 残響の君へ
衝撃的な真実に、カイは言葉を失った。未来の自分が、世界を救うために。そして今、その役目を自分が引き継がねばならないというのか。
『装置を起動すれば、時間の崩壊は止まり、世界は安定を取り戻すだろう』老いたカイのホログラムは静かに告げる。『だが、代償がある。この装置の動力源は、お前がここへ至る原因となった「過去の選択の道」そのものだ。装置が起動した瞬間、その道は根本から消滅する。お前のこれまでの人生、苦悩も、喜びも、リナと出会ったという事実さえも……すべてが無かったことになる』
彼は、冒険の記憶を一切持たない、全く別の人生を歩むことになる。世界は救われる。だが、カイという個人の歴史は、完全に消え去るのだ。
リナとの日々が脳裏をよぎる。彼女の笑顔、彼女の涙、共に駆け抜けた時間の揺らぎ。その全てが消える。胸が張り裂けそうだった。だが、彼はその記憶の中のリナが、これからも穏やかな世界で笑っていてほしいと、心の底から願った。それが、彼にできる唯一で、最後の選択だった。
カイはゆっくりと装置に歩み寄り、冷たい水晶に手を触れた。さよならを言う相手は、もうこの世界にはいない。
「頼んだぞ」
彼は、自分自身にそう呟いた。
眩い光が、彼を包み込んだ。
***
穏やかな陽光が降り注ぐ街角。そこには、小さな工房で木工品を作る、一人の職人がいた。カイと名乗るその青年は、自分の背後に道がないことを、不思議に思ったことすらなかった。ただ時折、理由もなく空を見上げては、何か大切なものを忘れてしまったような、微かな疼きを胸に感じることがあった。
その日、工房の前を、一人の女性が通りかかった。彼女はカイの作る木彫りの鳥に目を留め、ふと足を止めた。
「……きれい」
女性――リナ――が呟く。カイは顔を上げ、彼女と目があった。瞬間、お互いの胸に、理由のわからない温かい感情が灯った。それは、失われた記憶の残響。世界から消え去ったはずの、ある選択の物語が残した、微かで、しかし確かな響きだった。
二人は、初めて会ったはずなのに、どこか懐かしい気持ちに包まれながら、自然に微笑み合った。世界は、今日も緩やかな時間の揺らぎの中で、静かに続いていく。