忘却の言霊使いと沈黙の書庫

忘却の言霊使いと沈黙の書庫

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第一章 消えゆく辞書

リクトは、切り立った崖の縁に立ち、眼下に広がる雲海を見下ろしていた。湿った風が彼の頬を撫で、旅の疲れを思い出させる。目的地は、この深い谷の向こう側。しかし、そこに道はない。彼の背負う古びた革袋には、わずかな食料と水、そして白紙のページばかりが目立つ一冊の日記帳が入っている。彼の本当の旅の道具は、その唇から紡がれるものだった。

「――橋」

リクトが静かに、しかし明確な意志を込めてその一語を紡ぐと、虚空に淡い光の粒子が集まり始めた。粒子は瞬く間に撚り合わさり、対岸へと伸びる、半透明の優美なアーチを形成していく。彼はその光の架け橋を、何の感慨もなく見つめた。そして、その現象が完全に終わると同時に、彼の脳裏から一つの概念が綺麗に抜け落ちた。目の前にある、谷を渡るためのこの建造物。これが何という名前で、どういう機能を持つものなのか、彼はもう理解できない。ただ、渡れるものだ、という漠然とした感覚だけが残っていた。

これが、リクトの一族に課せられた言霊の「代償」だった。彼らは言葉を現実の事象に変換する力を持つ。しかし、一度力として行使した単語は、その意味、記憶、概念のすべてを術者の精神から永遠に消し去るのだ。彼の頭の中の辞書は、旅を続けるほどに、ページが引き裂かれ、空白が増えていく。

この過酷な旅の目的は、ただ一つ。最愛の妹、ミナを救うためだ。ミナは三年前、「沈黙の病」に罹った。ある朝、彼女は一切の言葉を失った。声が出ないのではない。言葉という概念そのものが、彼女の中から消え去ってしまったかのように、ただ虚空を見つめるだけの人形になってしまったのだ。医者も賢者も匙を投げた。

唯一の希望は、世界の果てにあるという「沈黙の書庫」に眠る「原初の言葉」。あらゆる呪いを解き、失われたものを取り戻す力を持つとされる伝説の言霊。それを手に入れ、ミナを元の快活な少女に戻す。その一心で、リクトは自らの語彙を削りながら、この誰も踏み入れたことのない秘境を進んでいた。

光の建造物を渡り終えると、それは霧のように掻き消えた。彼は日記帳を開き、インク壺にペンを浸す。しかし、何を書けばいいのか分からない。彼はたった今、何か大切な言葉を使ったはずなのに、それが何だったのか思い出せない。日記には、そんな空白の記述が増え続けていた。

「大丈夫。ミナのためなら」

彼は自分に言い聞かせるように、まだ使える数少ない言葉を呟いた。その声は、広大な自然の中で、あまりにも小さく、頼りなかった。彼の冒険は、何かを得るための旅ではなく、何かを失い続ける、終わりなき喪失の旅路だった。

第二章 空白の日記

旅はリクトの精神と肉体を着実に蝕んでいった。雪に覆われた山脈を越えるために「炎」という言葉を使い、暖を取る術と引き換えに、揺らめく赤い熱源が何であるかを忘れた。獰猛な森の獣に襲われた際には、咄嗟に「盾」を具現化し、その代償として防御という概念を失った。

彼の世界は、急速に輪郭を失い、名もなき事象で満たされていった。食事は「これ」を「する」こと。眠りは「あれ」に「なる」こと。語彙が貧しくなるにつれて、彼の思考もまた、驚くほど単純化されていく。かつては妹に物語を読み聞かせ、詩を紡ぐことさえあった自分が、今では感情を表現する的確な言葉すら見つけられない。

ある夜、洞窟の中で火ではない何かで暖を取りながら、彼は日記帳を広げた。インクで汚れた指が、空白の多いページをなぞる。

『今日は、谷を越えた。何かを使って。とても便利だった。でも、それが何かは分からない。ミナ、君に会いたい。この気持ちを何と言えばいいのか、僕にはもう分からないんだ』

書ける言葉は、日に日に減っていく。「悲しい」「寂しい」「嬉しい」。そういった感情の機微を表す言葉は、旅の初期に、困難を乗り越えるための精神的な支えとして使い切ってしまっていた。今、彼の中にあるのは、名付けようのない、ただ重くのしかかる感情の塊だけだった。

時折、彼は恐ろしい想像に囚われた。「ミナ」という、妹の名前さえ忘れてしまったら? 旅の目的そのものを失ってしまったら? その恐怖が、彼を前へと駆り立てる原動力であり、同時に彼の心を苛む最大の呪いでもあった。

彼は、残された言葉を指折り数えるようになった。「希望」「光」「未来」「愛」。これらは、最後の切り札として、沈黙の書庫にたどり着くまで決して使うまいと心に誓った、聖域のような言葉たちだ。これらさえ失えば、自分はただの言葉を持たない抜け殻になってしまうだろう。

彼は日記帳を閉じ、革袋にしまい込んだ。洞窟の外では、名も知らぬ風が、名も知らぬ木々を揺らし、名も知らぬ夜空には、名も知らぬ星々が瞬いていた。かつてそれらに名前と物語を与えていたのは、彼自身の「言葉」だった。言葉を失うことは、世界を失うことと同義なのだと、リクトは骨身に染みて感じていた。それでも彼は歩みを止めない。妹の沈黙を終わらせるためなら、自分の世界が沈黙に沈んでも構わなかった。

第三章 沈黙の書庫が語る真実

幾多の困難の果てに、リクトはついに目的地である「沈黙の書庫」にたどり着いた。それは、雲を突き抜けるほど巨大な、水晶でできた塔だった。周囲には一切の音がなく、風の囁きすら存在しない、絶対的な静寂が支配していた。

リクトが恐る恐る扉に手を触れると、それは音もなく内側へと開いた。内部は、天井が見えないほどの吹き抜けになっており、壁一面が膨大な数の書物で埋め尽くされている。しかし、そのどれもが真っ白な表紙で、背表紙に題名はない。まさしく、沈黙の書庫だった。

「よくぞ参られた、言葉を失いし者よ」

声が響いた。いや、声ではない。直接、リクトの脳内に澄んだ思念が流れ込んできた。空間の中心に、ゆらりと光の人影が浮かび上がる。それが、この書庫の番人である「記憶の精霊」だった。

「原初の言葉を…ミナを救うための言葉をください」

リクトは、か細い声で懇願した。残された語彙を必死にかき集めて。

精霊は静かに首を振った。「原初の言葉など、ここにはない。ここは、失われた言葉が眠る場所。そして、真実を映す場所でもある」

精霊がそっとリクトの額に触れると、彼の周囲の景色がぐにゃりと歪んだ。目の前に広がり始めたのは、三年前の、あの日。まだ言葉豊かだった頃の自分と、笑いかけるミナの姿だった。二人は裏山で遊んでいた。その時、不意に崖の一部が崩れ、巨大な岩がミナめがけて落下してきたのだ。

幼いリクトは、恐怖のあまり絶叫した。しかし、それは単なる悲鳴ではなかった。

「――守る!!」

彼の魂の奥底から放たれた、純粋で強大な言霊。その瞬間、岩はミナに届く寸前で不可視の力に阻まれ、粉々に砕け散った。リクトは、妹を救ったのだ。しかし、その記憶は、あまりの衝撃に彼自身も封じ込めていた。

「強すぎる言葉は、呪いとなる」と精霊の思念が響く。「あなたの『守る』という言霊は、あまりに強力すぎた。それはミナを物理的な脅威から守るだけでなく、あらゆる外部からの干渉…喜びも、悲しみも、そして『言葉』そのものからも、彼女を隔絶する強固な殻となってしまったのだ。それが、沈黙の病の正体だ」

リクトは愕然とした。膝から崩れ落ちる。自分が妹を救った? 違う。自分が、妹から言葉を奪ったのだ。良かれと思ってしたことが、最愛の妹を沈黙の牢獄に閉じ込めていた。旅の目的が、希望が、音を立てて崩れ去っていく。

「では、どうすれば…どうすればミナは救われるのですか?」

彼は涙ながらに問うた。記憶の精霊は、哀れむような、それでいて厳かな思念を送ってきた。

「呪いは、かけた者自身が解くしかない。だが、言葉でかけられた呪いを、別の言葉で上書きすることはできぬ。さらに強固な檻を生むだけだ。ミナを真に解放する方法は、ただ一つ。あなたが、言葉の力を完全に手放すこと。言霊使いとしての力を捨て、あなた自身が『沈黙』を受け入れることだ」

それは、リクトが持つ全ての言葉を忘却することを意味していた。妹を救うための最後の切り札として残してきた「愛」も「希望」も、そして「ミナ」という名前さえも。彼は、妹を救うために、自分自身という存在の証明である言葉の全てを、差し出さなければならないというのか。あまりにも残酷な真実が、絶対的な沈黙の中で、リクトの心を粉々に打ち砕いた。

第四章 はじまりの言葉

故郷に戻ったリクトは、衰弱しきっていた。旅の過酷さよりも、知ってしまった真実の重みが、彼の魂をすり減らしていた。彼はミナの部屋に入った。窓辺の椅子に座る妹は、三年前と何も変わらず、ただ静かに外を眺めているだけだった。その瞳は、何も映していないように見えて、どこか遠くを見ているようでもあった。

リクトは、妹の隣に静かに腰を下ろした。これまで彼は、ミナを「救うべき対象」としてしか見ていなかった。彼女が何を考え、何を感じているのか、想像しようともしなかった。ただ、自分の信じる「正しさ」を押し付けようとしていただけなのだ。言葉という、あまりに強力で、傲慢な力によって。

彼はミナの手をそっと取った。その手は、驚くほど冷たかった。彼はミナの瞳をまっすぐに見つめた。言葉は使わない。ただ、見つめる。すると、ミナの瞳が微かに揺れ、一筋の涙がその白い頬を伝った。

ああ、そうか。ミナはずっと、苦しんでいたんじゃない。彼女は、僕の言葉の呪縛の中で、ずっと僕に何かを伝えようとしていたんだ。言葉ではなく、心で。僕がそれに気づかなかっただけなんだ。

リクトは、究極の選択を迫られていた。自分を失うか、妹を失ったままにするか。しかし、今の彼にとって、それはもはや選択ではなかった。答えは、とうの昔に出ていた。

彼は、残してきた最後の、そして最も大切な言葉たちを、心の中で一つ一つ手放す準備をした。「希望」を捨て、「未来」を消し、「光」を闇に還す。最後に、最も手放し難い、温かな感情を表すあの言葉も。しかし、彼はそれらの言葉を具現化しなかった。妹を救うのに、これ以上世界を歪める力は必要ない。

リクトはミナの手を握りしめたまま、静かに微笑んだ。そして、自分自身に向けて、たった一つの、最後の言霊を紡いだ。それは、これまで何かを得るために使ってきた力とは全く違う、全てを無に帰すための言葉。

「――忘れる」

その瞬間、閃光も衝撃もなかった。ただ、静かに、リクトの世界から音が消えた。色彩が抜け落ち、概念が溶けていく。自分の名前、旅の記憶、妹との思い出。頭の中にあった全ての言葉のページが、一斉に燃え尽きていくような感覚。彼は自分が誰で、なぜここにいるのか、目の前の少女が誰なのかも分からなくなった。思考は停止し、彼の内なる世界は、完全な沈黙と空白に支配された。

しかし、不思議なことに、胸の奥に灯る、温かい感覚だけは消えなかった。手のひらに伝わる、か細い温もり。目の前の少女を守りたいという、名前のない、純粋な衝動だけが残っていた。

その時だった。

「……おにい、ちゃん」

数年間、閉ざされていたミナの唇から、掠れた、しかし確かな声が漏れた。言葉の檻が、砕け散ったのだ。

リクトは、その声の意味を理解できなかった。しかし、目の前の少女が自分を見て、微笑んでいることは分かった。彼女の瞳には、確かな光が戻っていた。

言葉を全て失ったリクト。しかし彼は、妹との真の繋がりを取り戻した。二人の間に、もう言葉は必要なかった。見つめ合うだけで、触れ合うだけで、互いの心が流れ込んでくるようだった。

リクトの新しい冒険が始まった。それは世界の果てを目指す旅ではない。ミナが、彼の空白になった辞書に、一つ一つ、世界の名前を教え、新しい言葉を書き込んでいく旅だ。

「これはね、『花』だよ」

ミナが庭の花を指さして微笑む。

リクトは、その音の響きを、形を、生まれて初めて知るかのように、ただ静かに反芻する。それはかつて彼が知っていた「花」とは違う、妹との絆によって意味を与えられた、全く新しい、はじまりの言葉だった。

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