クロノ・カレイドスコープ
第一章 色褪せた万華鏡
俺の世界は、常にノイズに満ちていた。
アスファルトは物理的な重さを主張する鈍い藍色に沈み、その上を通り過ぎた無数の人々の記憶や感情の残滓が、微かな緋色の埃となって舞い上がる。人々は感情抑制薬(エモーション・ブロッカー)でコーティングされた無表情を浮かべ、その存在感は希薄な赤紫色となって、灰色の街並みに溶けていく。俺、カイの目には、それが世界の本当の姿として映っていた。
物理的な質量を示す青。存在の質量を示す赤。この二つの色が混ざり合い、万物は紫色の濃淡で構成されている。俺のこの特異な視覚は、常に情報過多で、世界を巨大な万華鏡(カレイドスコープ)のように見せていた。だが、その映像は決して美しいものではなく、ただひたすらに疲れるノイズの集合体だった。
この世界では、感情は災厄の引き金だ。強い感情は時空を歪ませ、『時間変動域』と呼ばれる危険地帯を生み出す。深い悲しみが降らせる終わらない雨。激しい怒りが巻き起こす、全てを過去の塵へと還す時間の嵐。だからこそ、人々は感情を捨てた。平穏と引き換えに、自らの存在を示す緋色を褪せさせて。
だが、その均衡は崩れつつあった。最近、街のあちこちで『時間混合現象』が起きている。現代的なビルの壁に、突如として古代の蔦が絡みつき、ショーウィンドウの向こうに、まだ見ぬ未来都市のネオンが幻のように明滅する。変動域が拡大し、互いに結合を始めているのだ。俺の目には、世界の青と赤の境界線が曖昧に滲み、紫色が不安定に揺らめいているのが見えた。まるで、壊れかけた映写機が、あらゆる時代のフィルムを無秩序に重ねて映し出しているかのように。
人々が眉をひそめて通り過ぎるその現象の中心で、俺だけが気づいていた。これは単なる歪みではない。世界が、失われたはずの鮮やかな『感情』を取り戻そうと、喘いでいるのだと。
第二章 錆びた砂時計の囁き
変動域の研究者だった恩師が失踪して、半年が経つ。彼の研究室は、埃をかぶったまま主の帰りを待っていた。俺は遺品整理の許可を得て、その扉を開けた。鼻をつくのは、古い紙と、微かなオゾンの匂い。時間変動の際に発生する特有の香りだ。
部屋は、物理法則の青が濃く、それでいて恩師の探究心という鮮烈な赤が染み付いていた。壁一面の本棚、床に散らばる計算式。その中で、俺の目を引いたのは、机の上にぽつんと置かれた一つの砂時計だった。
それは古びた真鍮の枠に収められ、ガラスの中には砂ではなく、白く微細な結晶が封入されていた。俺がそれに触れた瞬間、ポケットに忍ばせていた恩師の日記の切れ端が微かに熱を持った。
『――感情の海。かつて世界を覆っていた、あらゆる生命の感情の集合体。時間変動は、その海が再び満ちようとしている兆候ではないか。もしそうなら、この『共鳴する砂時計(シンクロ・アワーグラス)』が道標となるだろう。これは時間に共鳴する結晶。持ち主の感情を糧に、未来の奔流から一本の確かな流れを掬い上げる。だが、代償は大きい。感情そのものを喰らうのだから』
俺は砂時計を手に取った。ひんやりとしたガラスの感触。その瞬間、窓の外で起きた小さな時間混合――少女が転んで泣き出した途端、彼女の足元の敷石が数百年昔の苔むした石畳に変わった――に、砂時計が反応した。中の結晶が、少女の悲しみに呼応するように淡い光を放ち、一瞬だけ、ガラスの中に苔が乾ききってひび割れる未来の幻影を映し出した。
このノイズまみれの世界から解放されるかもしれない。あるいは、恩師の追った謎の答えに辿り着けるかもしれない。かすかな期待が、俺の胸に希薄な緋色を灯した。俺は砂時計を懐にしまい、拡大を続ける街外れの巨大な時間変動域へと、足を向けた。
第三章 時間の断層
時間変動域の内部は、狂った神が描いた絵画のようだった。
空には白亜紀の巨大な翼竜が飛び、その影が未来的な金属の廃墟を横切る。足元では、古代のシダ植物がアスファルトの裂け目から芽吹き、すぐそばでホログラムの広告がノイズ混じりに明滅していた。一歩踏み出すごとに、空気が変わる。恐竜時代の湿った土の匂い、未来の汚染された金属の匂い、そして、ここを生み出したであろう誰かの、遠い過去の悲しみの匂いがした。
俺の視界は、青と赤が激しく明滅する色彩の嵐に呑まれ、立っていることさえ困難だった。不意に、足元の地面がぐらりと揺れた。俺の真下の大地が、数千年分の風化を数秒で経て、砂となって崩れ落ちようとしていた。
「危ない!」
思考より先に、死への恐怖が全身を駆け巡った。その瞬間、懐の砂時計が灼熱を帯びて輝いた。ガラスの中に、崩落する地面と、そのわずか数メートル先に存在する、古代の巨大な木の根という安定した足場のビジョンが映し出される。
俺は咄嗟にその根に向かって跳んだ。背後で轟音が響き、さっきまで俺が立っていた場所は、時間の奈落へと消えていた。
安堵の息をついたのも束の間、奇妙な喪失感に襲われる。あれほど鮮烈だった「恐怖」という感情が、まるで薄い膜を一枚隔てた向こう側の出来事のように感じられた。砂時計が代償を奪っていったのだ。俺の存在を示す緋色が、また少し、褪せてしまった。
それでも、俺は進むしかなかった。この世界の狂気の中心へ。恐怖が薄れた心は、奇妙なほど静かで、混沌とした風景の中にある種の法則性――感情の波紋が描く模様を、冷静に読み解き始めていた。
第四章 緋色の共鳴
変動域の最深部は、意外なほど静かだった。そこは、あらゆる時代が溶け合ったガラス細工のような森で、時間の結晶が木漏れ日のように降り注いでいた。その中心、巨大な水晶の根元に、彼女はいた。
亜麻色の髪をした、十歳くらいの少女。彼女は感情抑制薬などとは無縁のように、楽しげに鼻歌を歌いながら、時間の結晶でできた花を編んでいた。彼女の存在そのものが、俺が見たこともないほど濃く、鮮やかな緋色を放っていた。それは純粋な生命力、純粋な感情の色。彼女の周囲だけ、混沌とした時間の流れが、まるで彼女の鼻歌に合わせるかのように、穏やかで美しいリズムを刻んでいた。
「あなたは…?」
俺が声をかけると、少女――リナは、ぱちりと大きな瞳で俺を見つめた。
「やっと来たのね、調律師さん」
彼女がそう言って、俺に駆け寄り、その小さな手を俺の手に重ねた瞬間。
世界が、爆ぜた。
懐の砂時計が、これまでとは比較にならないほどの光を放ち、俺の内に残っていたなけなしの感情――好奇心、驚き、そしてリナに対する微かな愛しさ――を、根こそぎ吸い上げていく。視界が真っ白に染まり、脳内に直接、膨大な情報が流れ込んできた。
それは、遥か未来からのメッセージだった。感情を完全に失い、精神的な死を迎えつつあった人類が、種の存続をかけて過去に放った最後の希望。それが『感情の種』。あらゆる感情の原型を宿し、世界をかつての『感情の海』に戻すことで、未来に感情を再送しようという、悲痛な願いだった。
目の前の少女、リナこそが、その『感情の種』だったのだ。
第五章 感情の海の目覚め
俺が意識を取り戻した時、世界は終わりを迎えていた。いや、あるいは、始まっていたのかもしれない。
空には、様々な時代の太陽が、大きさも色も異なる宝石のようにいくつも浮かんでいた。大地は歴史の地層を剥き出しにし、街だった場所には、原始の海と超未来の都市が奇妙なモザイク模様を描いている。リナの感情が完全に解放され、世界中の時間変動域が結合し、あらゆる時間のレイヤーが同時に存在する、完全な『時間混合状態』へと移行したのだ。
人々は、理解を超えた光景に絶叫し、逃げ惑っていた。だが、その叫び声すら、過去の戦の雄叫びや、未来のサイレンの音と混ざり合い、奇妙なハーモニーを奏でている。
俺は、もう何も感じなかった。砂時計に全ての感情を吸い取られた心は、凪いだ湖面のようだった。だからこそ、俺にはこの混沌が、ノイズではなく、壮大な交響曲の楽譜のように見えた。
物理的な質量を示す青い五線譜の上に、存在の質量を示す赤い音符たちが、無数に、そして複雑に踊っている。恐竜の絶滅という深い悲しみの低音。最初の生命が生まれた喜びの高らかなファンファーレ。未来の人類が託した切ない祈りの旋律。
リナが俺の手を握る。彼女の瞳は、この新しい世界への期待にきらめいていた。
「ねえ、きれいでしょう?」
彼女の言葉に、俺は頷く。元に戻すことは、もはや不可能だ。そして、おそらく無意味だ。未来の人類は、感情のない平穏を捨てて、この混沌を選んだのだ。ならば、俺がすべきことは一つしかない。
第六章 時の調律者
俺はリナの手を取り、砂時計を天に掲げた。もはや感情を喰らう必要のない砂時計は、俺の意志そのものに共鳴する、完璧な調律の道具(タクト)となっていた。
俺は振る。
この世界の不協和音を、調和のとれた音楽へと変えるために。
カイという一個人の感情は失われた。だが、その代わりに、俺は万物の感情を理解する視点を得た。崩壊する都市の絶望(ディープブルー)に、そこに生きた人々の愛の記憶(スカーレット)を重ね、切ない追憶の和音を奏でる。芽生える生命の歓喜(マゼンタ)に、いつか訪れる死の静寂(インディゴ)を寄り添わせ、存在の尊さを示す旋律を紡ぐ。
俺の意志に応じて、世界の色彩が混ざり合い、新たな法則が生まれていく。過去の悲劇は未来への教訓となり、未来の希望は過去の苦しみを照らす光となる。時間はもはや一直線に進む川ではない。あらゆる時代が互いに影響を与え合い、響き合う、巨大な生命の海そのものだった。
俺は『時の調律者』となった。
人々は最初、この変化を恐れるだろう。だが、やがて気づくはずだ。失われた祖先の声を聞き、まだ見ぬ子孫の夢を感じながら生きることの豊かさに。感情を抑圧するのではなく、それを美しい音色として奏でることの喜びに。
俺は、もはや人間ではないのかもしれない。ただ、この世界の全てを愛おしく思う、名もなき概念。
色とりどりの感情が織りなす、万華鏡のような新世界の空の下で、俺は静かにタクトを振り続ける。終わることのない、生命という名の壮大な歌が、宇宙に響き渡る。その、最初の一音を、確かにこの世界に刻みつけて。