残響世界の調律師
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残響世界の調律師

第一章 砕氷のプレリュード

耳の奥で、薄いガラスが砕ける音がした。最初は一つ、やがて無数の破片が擦れ合うような、冷たく澄んだ音が連鎖する。俺、東耶(とうや)にとって、それは死の予兆だった。過去に経験した、凍死の瞬間の記憶が蘇らせる幻聴。

「おい、東耶! ぼうっとするな!」

同僚の声に我に返ると、目の前のクレーンが吊り上げた鉄骨が、不自然なほどゆっくりと揺れていた。まるで水飴の中を動くように。俺は無意識に喉を鳴らす。幻聴のボリュームが上がる。キィン、と神経を逆撫でする高音が混じり始めた。

周囲の空気が急速に冷えていくのを肌で感じた。吐く息は白く凍り、鉄骨の表面には霜がみるみるうちに広がっていく。夏の盛りだというのに、現場の誰もが異常な寒さに腕をさすった。

「なんだ、これ……急に……」

誰かが呟いた直後、事件は起きた。吊り上げられていた鉄骨を固定するワイヤーが、まるで氷の彫刻のように脆く砕け散ったのだ。轟音と共に落下する鉄塊。しかし、それは地面に激突しなかった。地面から数メートルのところで静止し、まるで無重力空間に浮かぶように、ゆっくりと回転を始めた。

俺の耳鳴りは最高潮に達し、そして、ふっと消えた。世界の法則が、ほんの少しだけ死んだのだ。人々が呆然と空中の鉄骨を見上げる中、俺はただ、この世界が静かに壊れ始めていることを確信していた。近頃、こんな『法則のバグ』が頻発している。そしてその度、俺の耳には、過去に経験した様々な死の音が鳴り響くのだ。

第二章 揺らぐ世界の羅針盤

「お前のその耳が、世界の歪みを観測する唯一のセンサーだ」

そう言ったのは、俺の恩師であり、都市伝説的な物理学者でもある千景(ちかげ)さんだった。彼女の研究室は、古い天文台のドームに隠されるように存在し、カビと古書の匂いが満ちていた。彼女は埃をかぶった木箱から、手のひらサイズの羅針盤を取り出した。

「『観測者の羅針盤』。磁北ではなく、最も強い『期待』の方向を指し示す」

受け取った羅針盤は、ひんやりと重かった。ガラスの下の針は、銀色の液体のように揺らめき、定まらない。俺がそれを握ると、針はぴたりと動きを止め、都市の中心にそびえ立つ、巨大な白い塔を指し示した。

「『調和の塔』……」

「そうだ。世界の物理法則を安定させるための、集合的無意識の増幅装置。だが、最近のあれは、どうもおかしい」

千景さんの言葉と同時に、羅針盤がブーンと低く唸り、激しく振動を始めた。掌に走る痺れ。耳の奥では、乾いた紙が燃え上がる音と、水が肺に流れ込む音が同時に鳴り響いた。焼死と溺死の記憶。異なる死が、同じ場所から俺を呼んでいた。羅針盤のガラス表面に、髪の毛ほどの細い亀裂が走ったのが見えた。

第三章 残響の幻視

『調和の塔』に近づくにつれて、俺の幻聴は耐え難い不協和音へと変わっていった。高所から落下する風切り音、感電のスパーク音、圧死する瞬間の骨が軋む音。あらゆる死の記憶が、濁流のように俺の意識を飲み込もうとする。

塔の麓にある広場で、俺は羅針盤を構えた。針は狂ったように回転し、ガラスのひびは蜘蛛の巣のように広がっていく。

目を閉じる。羅針盤に意識を集中させると、周囲の景色が滲み、過去の幻影が浮かび上がった。広場を埋め尽くす、無数の人々の祈りにも似た『期待』の残滓。

――事故が起きませんように。

――病気が治りますように。

――誰も死なない、安全な世界でありますように。

それは、誰もが抱く純粋な願いだった。だが、その純粋さが、あまりにも強すぎた。一滴の不純物も許さない蒸留水のように、それは生命に不可欠なものまでをも排除しようとしている。羅針盤が指し示す幻視の奥で、俺は見た。安全を願う人々の顔から、喜怒哀楽の表情が抜け落ち、能面のように均一化していく様を。

「違う……これじゃない……」

俺が呟くと、羅針盤のひびが一層深く刻まれた。

第四章 塔の中の静寂

塔の内部は、不気味なほど静かだった。俺の幻聴すらも吸い込んでしまうような、完全な静寂。中央には、天を突く巨大な水晶の柱が脈動するように淡い光を放っていた。世界の『期待』を集め、増幅するコアだ。

その根元に、車椅子に座る人影があった。

「東耶くん。よく来たね」

「千景、さん……?」

そこにいたのは、俺に羅針盤を託したはずの恩師だった。彼女は穏やかに微笑んでいる。だが、その瞳の奥には、狂信的なまでの強い光が宿っていた。

「驚いたかい? 私が全ての元凶だよ」

彼女は静かに語り始めた。かつて事故で最愛の家族を失ったこと。その悲しみから、世界からあらゆる『不確実性』、すなわち事故や病、災害、そして死そのものを排除しようと決意したこと。この『調和の塔』を使い、全人類の無意識下にある『完璧な安全への期待』を極限まで増幅させ、世界の法則を書き換えようとしているのだと。

「危険も、悲しみも、死もない。完璧で、永遠に安定した世界。それが、私の創る未来だ」

物理法則の不安定化は、その副作用だった。あまりに強すぎる『安全への期待』が、予測不能な生命の多様性、偶然性、つまり『生』そのものを世界のバグとして認識し、排除しようとした結果だった。俺が聞いていた『予兆の音』は、世界の法則が悲鳴を上げる音だったのだ。

「君のその耳は、旧世界の遺物だ。新しい世界に、死の記憶は必要ない」

彼女の言葉は、絶対的な善意に満ちていた。そして、それ故に、恐ろしかった。

第五章 死の交響曲

無菌室のような世界。痛みも悲しみもない代わりに、喜びも驚きもない世界。それは、生きていると言えるのだろうか。

俺の脳裏に、これまでに経験した『死』の記憶が駆け巡った。凍える夜の静寂、炎に包まれる瞬間の熱、水中で遠のいていく光。それらは確かに苦痛だった。だが、その記憶があるからこそ、俺は朝の陽射しの暖かさを知り、風の匂いを感じ、誰かと触れ合う温もりを愛おしく思うことができた。

死があるから、生は輝く。不完全だからこそ、世界は美しい。

「千景さん、あんたは間違ってる」

俺は懐から、ひび割れた羅針盤を取り出した。そして、塔のコアである水晶柱に向かって歩き出す。

「やめなさい、東耶くん! 世界を混沌に還す気かい!」

千景さんの悲痛な叫びを背に、俺は水晶柱に手を触れた。そして、俺という存在の全てを懸けて、意識を解放した。

凍死の、ガラスが砕ける音。

焼死の、紙が燃える音。

溺死の、水が満ちる音。

圧死の、金属が呻く音。

落雷の、空が裂ける音。

俺が持つ全ての『死』の記憶が、『予兆の音』が、凄まじい交響曲となって塔のコアに流れ込む。それは絶望と苦痛の旋律でありながら、同時に、それらを乗り越えた先にある、力強い生命の賛歌でもあった。増幅された『死の交響曲』は、光の波となって世界中に響き渡った。

手の中の羅針盤が、まばゆい光を放って砕け散った。その破片は、もはや何も指し示さない。ただ、無数の可能性に満ちた、予測不能な未来そのものを映し出す、無数の鏡となった。

第六章 新世界の冒険者

世界は、変わった。

法則の崩壊は収まり、世界は新たな安定を取り戻した。だが、それはかつての不動の世界ではなかった。時折、雨は七色に輝き、夜空には二つの月が寄り添うように浮かぶ。人々は少しの戸惑いの後、その不確かで美しい風景を、当たり前のように受け入れ始めた。

俺の耳から、『予兆の音』は完全に消え去っていた。もう危険を予知することはできない。死の記憶は、世界に明け渡してしまったからだ。俺は、ただの俺になった。

瓦礫と化した『調和の塔』の跡地で、俺は夜明けの空を見上げていた。かつて羅針盤だった鏡の破片を一つ、ポケットから取り出す。それはただ、昇り始めた太陽の、不確かで、しかし圧倒的に美しい光を映しているだけだった。

未来は分からない。明日、何が起こるかも知らない。この先、どんな危険が待っているかも。

だが、それでいい。

不完全なこの世界で、予測不能な生を、俺は歩いていく。風が頬を撫で、新しい朝の匂いを運んでくる。その顔に浮かんだのが、穏やかな微笑みであったことを、俺自身だけが知っていた。

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