彩なき響き、音なき光

彩なき響き、音なき光

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第一章 失われた赤と始まりの音叉

レンの世界は、静かすぎた。人々は口を動かして意思を伝えるが、その声はまるで綿に吸い込まれるように遠い。風は景色を揺らすだけで音を立てず、川は黙って流れる。彼は「響き職人」だった。古文書に残された記述を頼りに、かつて世界に満ちていたという「音」を再現するのが仕事だ。木を削り、金属を打ち、弦を張る。しかし、彼が作り出すのは、あくまでも「響きの模型」に過ぎなかった。彼自身、本物の雨音も、鳥のさえずりも、そして祖父が愛したという「風鈴」の音色も、一度として聞いたことがなかった。

彼の日常が覆ったのは、祖父の遺品である古い木箱を開けた時だった。埃をかぶった道具類に混じって、一本の黒檀で作られた奇妙な音叉が横たわっていた。他のどの道具とも違う、吸い込まれるような黒。何かに引かれるように、レンはそれを手に取り、軽く机の角で打った。

瞬間、世界が歪んだ。

彼の耳の奥で、今まで経験したことのない、澄み切った金属音が「キーン」と鳴り響いた。それは彼の作ったどの「響きの模型」とも違う、魂を直接震わせるような生きた音だった。驚きに目を見開いたレンは、息を呑んだ。目の前にあった赤いリンゴが、色を失っていたのだ。それは艶やかな赤色を完全に剥ぎ取られ、まるで燃え尽きた炭のような、味気ない灰色の塊に成り果てていた。部屋の中の他の赤いもの――壁にかけた布、インク瓶の蓋、彼の着ている上着の刺繍――すべてから「赤」という概念がごっそりと抜き取られ、世界は一段階、色褪せて見えた。

レンは恐怖よりも好奇心に支配されていた。音叉が震えを止めるのと同時に、彼の頭の中に、淡い光を放つ地図のような幻影が浮かび上がった。それは彼が住む街を抜け、険しい山脈を越えた先にある、深い谷を指し示していた。伝説の「万響の谷」。失われたすべての音が眠る場所。

音叉は、世界から色を奪い、音を与える鍵なのか?

レンは灰色のリンゴを手に取った。ずしりとした重みは変わらないのに、その存在感はひどく希薄に感じられた。彼は決意した。この音叉を手に、万響の谷へ行こう。世界に本物の音を取り戻すために。たとえ、その代償として、この世界の色彩を失うことになったとしても。静寂に支配された世界よりも、音に満ちた世界の方が、ずっと豊かに違いない。そう信じて、レンは「赤」を失った世界へと、最初の一歩を踏み出した。

第二章 灰色の旅路と耳澄ます心

旅は、喪失の連続だった。

レンは音叉を羅針盤のように使い、地図が示す次のポイントでそれを鳴らした。黄金色の麦畑が広がる平原で音叉を鳴らすと、世界から「黄色」が消え、彼の耳には虫の羽音のような繊細な旋律が届いた。どこまでも青い空が広がる湖畔で鳴らすと、「青」が失われ、水が岸を打つ柔らかなリズムが聞こえてきた。

旅が進むにつれて、レンの世界は急速に色彩を失い、白と黒とその間の無数のグラデーションだけで構成された、モノクロームの世界へと変貌していった。かつては宝石のように輝いていた花々は、ただ形の違う濃淡の染みとなり、旅人の心を慰めるはずの夕焼けは、空に広がる巨大な水墨画のようで、どこか物悲しかった。

しかし、失うものがあれば、得るものもあった。色を失うたびに、レンの聴覚は信じられないほど鋭敏になっていったのだ。初めは音叉がもたらす旋律だけだった。やがて彼は、風が草の葉を撫でる微かな摩擦音、地中深くで岩が軋む音、そして夜空の星々が瞬く、か細い囁きのような音まで聞き取れるようになった。世界は沈黙しているのではなかった。ただ、あまりにも繊細な音で満たされているために、誰も気づかなかっただけなのだ。

彼は、灰色の森の中で足を止め、目を閉じた。木の根が水を吸い上げる音。落ち葉の下で虫が土を掻く音。枝から枝へ、目に見えない小動物が飛び移る気配。五感の情報が聴覚に集中することで、彼は世界の新たな側面を知覚していた。色彩豊かな世界では決して気づけなかった、生命の微細な営みの音。その発見は、彼に歓喜をもたらした。

だが、その歓喜は常に一抹の寂しさと隣り合わせだった。ある日、彼は空腹に耐えかねて、木の枝になっていた果実をもぎ取った。それはかつて「橙色」だったはずの果実だ。今はただの灰色の球体にしか見えない。一口かじると、甘い香りと果汁が口に広がったが、彼の心は満たされなかった。かつて、この果実の鮮やかな色を見て、どれほど心が躍ったことだろう。味覚や嗅覚は、視覚と結びついてこそ、本当の豊かさを生むのではないか。

レンの心に、初めて迷いが生じた。自分は本当に世界を豊かにしているのだろうか。音に満ちたモノクロームの世界と、静寂に包まれた色彩豊かな世界。どちらが、本当に人々が望む世界なのだろうか。答えの出ない問いを抱えながら、彼は完全に色を失った世界の果て、万響の谷を目指して、歩き続けた。

第三章 万響の谷と沈黙の真実

幾多の山を越え、乾いた川床を渡り、ついにレンは「万響の谷」の入り口にたどり着いた。そこは、彼の旅路で見てきたどの景色よりも徹底的に色が失われ、まるで世界のネガフィルムのような光景が広がっていた。黒い岩肌、白い砂、灰色の枯れ木。空には、太陽なのか月なのか判然としない、ただの白い円盤が浮かんでいる。

谷の奥深くへと進むと、巨大な空洞が姿を現した。その中心に、まるで氷でできているかのように透き通った、巨大な鐘が鎮座していた。これが伝説の「万響の鐘」。レンは確信し、吸い寄せられるように鐘へと近づいた。

「ようやく来たか、旅人よ」

背後からかけられた声に、レンは弾かれたように振り返った。そこには、鐘と同じくらい長い時を生きてきたかのような、深い皺を刻んだ老人が立っていた。

「あなたは……?」

「わしはこの谷の音守。そして、おぬしの祖父の古き友人じゃ」

老人は静かに語り始めた。それは、レンが信じてきたすべてを根底から覆す、衝撃的な真実だった。

「世界から音が失われたのではない。我々が、封印したのじゃ」

老人の言葉に、レンは思考が停止するのを感じた。

「かつて、この世界は音に満ちておった。しかし、音は人の感情を過剰に煽る力を持つ。美しい音楽は人を陶酔させ、勇壮な調べは戦意を掻き立て、不協和音は憎悪を増幅させた。やがて人々は音の力を利用して争い始め、世界は滅びの寸前にまで至った」

初代の音守たちは、苦悩の末に決断したのだという。世界の平和のために、あらゆる「音」をそのエネルギーごと、この万響の鐘に封印することを。

「では、色は……?」

「音を封印するには、莫大なエネルギーが必要じゃった。そこで彼らは、音の波動を、光の波動――つまり『色』に変換して、世界に定着させたのじゃ。我々が目にしている世界の色彩こそが、封印された音の力の現れ。世界が静かなのは、呪いなどではない。先人たちが未来に託した、平和という名の祝福なのじゃよ」

レンは愕然とした。彼が手にしていた音叉は、その封印を逆流させ、色をエネルギー源として音を解放するための「鍵」だったのだ。彼が世界に取り戻していた音は、かつて世界を混乱に陥れた禁断の力だった。良かれと思って続けてきた冒険は、世界を救うどころか、危うい過去へと引き戻す愚かな行為に他ならなかった。彼の足元が、ガラガラと音を立てて崩れていくようだった。

第四章 君が選ぶ世界の色

「さあ、選ぶがよい」と音守は言った。その目は、レンの魂の奥底まで見透かしているようだった。

「その音叉で最後の一撃を鐘に与えれば、封印は完全に解かれる。世界は再び音に満ちるじゃろう。かつてのように、歓喜と、そして争いの音にな。あるいは……」

老人は、鐘の根元を指さした。「その音叉をそこへ捧げるのじゃ。そうすれば、おぬしが解放した音は再び色へと戻り、世界は元の姿を取り戻す。だが、代償として、おぬしがこの旅で得た鋭敏な聴覚と、耳にしたすべての音の記憶は、この鐘に吸い取られることになる」

レンは、手の中にある黒檀の音叉を握りしめた。その冷たい感触が、彼の迷いを映しているかのようだった。

音に満ちた世界。それは、彼がずっと夢見てきた世界だった。風鈴の音色、人々の笑い声、心躍る音楽。それを手に入れるチャンスが、今、目の前にある。しかし、そのために失われるものの大きさを、彼は旅を通して知ってしまった。色のない世界の、どうしようもないほどの寂しさを。灰色の果実の味気なさを。濃淡だけで描かれた夕焼けの虚しさを。

彼は旅の途中で聞いた、石の呼吸や草のささやきを思い出した。あの繊細な音の世界は、確かに美しかった。しかし、それは色彩という大きな犠牲の上に成り立つ、危うい均衡でしかなかった。豊かさとは、何か一つが突出することではない。音も、色も、光も、静寂も、すべてが調和して初めて、世界は本当に豊かになるのだ。

レンは静かに目を閉じた。祖父の顔が浮かんだ。祖父は、音のない世界で、誰よりも色彩の美しさを愛した人だった。彼は響き職人でありながら、同時に優れた画家でもあったのだ。祖父は、音の持つ危うさを知っていたのかもしれない。だからこそ、音の「模型」を作ることで、その記憶だけを静かに後世に伝えようとしたのではないか。

レンは、目を開けた。彼の瞳には、もう迷いはなかった。

「俺は……色を選びます」

彼は鐘の根元に進み出て、そっと音叉を置いた。音叉が台座に触れた瞬間、まばゆい光が放たれ、レンの耳に、旅で出会ったすべての音が奔流となって逆流してきた。虫の羽音、水の囁き、岩の軋み。それらの音が、彼の身体を通り抜け、巨大な鐘へと吸い込まれていく。まるで、大切な記憶が剥ぎ取られていくような、切ない痛みがあった。

音が完全に消え去った時、世界が変わった。

最初に気づいたのは、足元の砂だった。白一色だった砂が、柔らかな黄金色に輝き始めた。見上げると、灰色の空はどこまでも澄んだ青色に変わり、岩肌には力強い緑の苔が息づいていた。まるで、世界が一斉に呼吸を再開したかのように、あらゆる場所に色彩が溢れ出したのだ。

レンは、鋭敏な聴覚を失った。もう、石の囁きを聞くことはできない。彼は再び、ただの響き職人に戻った。万響の谷を後にし、故郷への道を辿る彼の耳には、以前と同じ静寂がまとわりついていた。

しかし、彼の心は満たされていた。彼は、風に揺れる木々の葉が奏でる「緑」の音を、西の空を染める夕焼けが歌う「赤」の音を、心で聞くことができた。世界は音に満ちてはいない。しかし、決して空っぽではなかった。

彼の冒険は、何かを得るためのものではなく、既にあるものの本当の価値を知るための旅だったのだ。レンは空を見上げ、静寂の中に満ちる、目に見えない光の響きに、そっと微笑んだ。

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