流転する石の見る夢
第一章 崩れる砂の街
カイが生きてきた世界は、常に溶け、混ざり、そして固まることを繰り返していた。昨日の丘は今日の沼となり、親しんだはずの家並みは、夜明けと共に名も知らぬ奇妙な形の森へと姿を変える。人々はそれを『液状化』と呼び、定められた運命として受け入れていた。変化こそが、この世界の唯一の常識だった。
カイには、ささやかな秘密があった。彼が素手で触れた物体は、その過去の変転を奔流のように彼の意識へと注ぎ込むのだ。ただし、流動する世界の物体から得られる記憶は、常に途切れ途切れの残像に過ぎなかった。砕けたレンガに触れれば、それがかつて暖炉だった頃の火の粉の熱を。乾いた土塊に触れれば、それが川底だった頃の水の冷たさを。断片的な感覚の洪水は、彼に安らぎよりもむしろ、寄る辺のない孤独を教え込むだけだった。
近頃、その世界の理が狂い始めていた。液状化の周期が、老人の記憶にあるどの時代よりも性急になっているのだ。再構築までの間隔が短くなり、大地は常に不安定に揺らぎ、人々の顔には疲労と諦観の影が色濃く浮かんでいた。まるで世界そのものが、焦燥に駆られて身悶えているかのようだった。
第二章 揺れる羅針盤
「このままでは、全てが原型を留めぬ泥になる」
集落の古老は、皺だらけの手で古びた木箱をカイに差し出した。その声は、風に揺れる枯れ葉のようにか細かった。
「伝説に聞く、『不変の石』を探すのだ。世界のどこかに、ただ一つだけ、決して液状化することのない始まりの場所があるという」
箱の中に鎮座していたのは、黒曜石の盤面に、乳白色の針が浮いた奇妙な羅針盤だった。針は定まることなく、常に微かな痙攣を繰り返している。
「『流動の羅針盤』。次に崩れる場所を指し示す。だが、もし伝説が真実なら…その針が完全に静止する場所こそが、『不変の石』の在処だ」
カイは羅針盤を手に取った。ひんやりとした感触。彼の能力が、羅針盤に込められた過去の記憶を呼び覚ます。無数の人々の手、期待、そして絶望。幾世代にもわたって、この小さな道具が希望の証として受け継がれてきた軌跡が、一瞬の閃光となって彼の脳裏を駆け抜けた。彼は、息を呑み、静かに頷いた。この震える針の先に、答えがあるのなら、行くしかない。
第三章 記憶の残響
カイの旅は、終わりなき変容との追いかけっこだった。羅針盤が指し示す方向へと歩を進める傍から、足元の地面が粘性を帯びて波打ち始める。背後では、いましがた通り過ぎたばかりの岩山が、音もなく溶けていくのが見えた。空には、湿った土と、何かが根源から作り変えられる際に放たれる、甘く奇妙な匂いが満ちていた。
彼は時折、液状化の波から奇跡的に取り残された古い岩や木の根に触れた。能力が発動し、無数の過去が彼を襲う。
――巨大な獣たちの闊歩する音。
――名も知らぬ文明が築いた石造りの都市の喧騒。
――全てが一度無に還り、新たな生命が芽吹く瞬間の、静かな産声。
それは、壮大で、しかしあまりに無機質な世界の年代記だった。そこには誰の意志も介在しない、ただ繰り返される破壊と再生の記録があるだけだ。カイは、その途方もない時間の流れの前に、自分の存在が砂粒のようにちっぽけなものに思えて、何度も膝をつきそうになった。
だが、旅を続けるうちに、彼は気づいた。羅針盤の針の震えが、わずかずつ、しかし確実に小さくなっていることに。まるで、巨大な磁力を持つ何かに引き寄せられるように。希望と、そして正体不明の畏怖が、彼の心臓を同時に掴んだ。
第四章 静止する針
荒涼とした、灰色の砂礫がどこまでも続く平原に出た。風はなく、音もなく、世界の時間が止まったかのような錯覚を覚える場所だった。カイは掌の中の羅針盤に目を落とし、息を止めた。
あれほどせわしなく震え続けていた乳白色の針が、まるで凍りついたかのように、一点を指して完全に静止している。
その指し示す先。平原の中央に、それはあった。
光を呑み込むほどに黒い、巨大な球体だった。表面は完璧なまでに滑らかで、空も大地も、カイ自身の姿さえも映し込まない。それは、そこにあるという事実だけを、絶対的な沈黙をもって主張していた。周囲の空間だけが、まるで重力に歪められたかのように、陽炎めいて揺らめいている。
これが、『不変の石』。
カイは乾いた喉を鳴らし、一歩、また一歩と、その黒球へと近づいていった。世界の命運が、この黒い沈黙の中に眠っている。彼はそう信じていた。
第五章 不変の孤独
カイは震える指先を、その氷のように冷たい表面に伸ばした。世界を救うのだ。この液状化の狂乱を止め、人々に安息を取り戻すために。
指が触れた瞬間、彼の意識は肉体を離れ、時空の彼方へと引きずり込まれた。
覚悟していた断片的な記憶の洪水ではなかった。
そこにあったのは、ただ一つの、始まりから終わりまで途切れることのない、連続した意識の記憶だった。
――無からの世界の創造。灼熱の星々が生まれ、やがて冷えて固い地殻を成す光景。
――原始の海に生命が生まれ、進化し、多様な種が地上を覆い尽くす様。
――いくつもの文明が勃興し、栄華を極め、そして液状化の波に呑まれて消えていく、無数のサイクル。
カイは、見ていた。いや、「それ」と一体化して、全てを体験していた。彼は、この世界の創造主が、自らの写し身として、世界の変容を見守るためだけに遺した『観測者』そのものになっていたのだ。
変化し続ける世界の中で、ただ一つ変わらない点として存在し続けること。それは、祝福などではなかった。それは、永遠という名の呪いだった。喜びも、悲しみも、愛も、憎しみも、全てが波のように押し寄せては、彼の前を通り過ぎていく。彼は何にも干渉できず、ただ見つめることしかできない。億万の孤独が、彼の意識を磨り潰していく。
そしてカイは、戦慄と共に真実を悟った。
液状化の加速は、故障や暴走などではない。あまりに永い時間、変化を見守り続けたこの『不変の石』が、その不変であるという役目に疲弊し、自らの存在ごと、この世界を完全な無、永遠の安息へと還すことを望んだ結果だったのだ。
世界を救う希望の礎ではなかった。これは、世界を終わらせるための、静かな意志そのものだった。
第六章 流転する祈り
意識が肉体に戻った時、カイは黒球の前で涙を流していた。それは悲しみや絶望の涙ではなかった。途方もない時間、たった独りで世界を支え、そして今、その重みに耐えきれず崩れ落ちようとしている存在への、深い共感からくる涙だった。
どうすればいい? この疲弊しきった魂の願いを無視して、無理やり世界の存続を強いることが、本当に「救い」なのだろうか。
カイはもう一度、黒球に両手をそっと触れた。
今度は、彼の記憶を、彼の生きた証を、一方的に注ぎ込むために。
彼は見せた。
液状化で家を失った赤ん坊を抱きしめる母親の温もりを。
一夜にしてできた奇妙な形の丘で、子供たちがはしゃぎ回る笑い声を。
変わり果てた土地で、それでも種を蒔き、明日の収穫を信じる人々の、ささやかな祈りを。
彼自身が、断片的な記憶の中から感じ取った、名もなき人々の、儚くも美しい一瞬一瞬の輝きを。
――変化は、終わりだけではない。
――流転の中にこそ、生命の煌めきがある。
それは説得ではなかった。破壊でも、制御でもない。ただ、カイというちっぽけな人間が体験した、この流動する世界の愛おしさを、永遠の孤独者にそっと手渡すような、祈りに近い行為だった。
第七章 夜明けの揺らぎ
黒球からの応答はなかった。しかし、カイの手を通して、氷のような表面の奥深くで、何かが微かに、本当に微かに、脈打ったような気がした。それは、あまりにも永い間忘れていた、温かい感情の残滓だったのかもしれない。
カイはゆっくりと手を離し、黒球に背を向けた。
彼が来た道を戻り始めると、ポケットの中の羅針盤が、かすかにカタ、と音を立てた。見れば、凍りついていたはずの乳白色の針が、ごくわずかに、まるでためらうように揺れ始めている。
世界の液状化が止まったわけではない。終わりが回避された保証もない。
だが、カイは知っていた。あの不変の孤独者は、ほんの少しだけ、この流転する世界の夢を、もう少しだけ見てみようと思ってくれたのだと。
灰色の平原に、夜明けの光が差し込み始める。それは昨日までとは違う、全く新しい地形を照らし出していた。カイは、その不確かで、それでも美しい世界に向かって、確かな足取りで歩き出した。彼の旅はまだ、終わらない。