第一章 錆びた街と詩の欠片
時間そのものが、寄せては返す潮のようにこの世界を洗い流していた。昨日は古代の石畳だった道が、今日は未来の光る金属板に覆われている。人々はそんな『時間潮汐』の気まぐれに慣れ、空の色で明日の街並みを占っていた。
リラは、錆びた鉄骨が空に向かって嘆くように突き出す街の片隅で、膝を抱えていた。時間潮汐に攫われた両親の姿が瞼の裏で明滅し、胸を掻きむしるような悲しみが喉元までせり上がる。その激情が限界に達した瞬間、左手の小指に鋭い痛みが走った。見れば、指先から淡い光が生まれ、皮膚が薄氷のようにひび割れていく。痛みと同時に、熱い何かが内側から溢れ、きらきらと舞う光の粒子へと変わった。
やがて光が収まった時、彼女の左手の小指はなくなっていた。その代わりに、掌には涙の雫が固まったような、虹色に輝く小さな結晶がひとつ残されていた。小指があった場所の記憶も、なぜこれほど悲しかったのかという感情の源泉も、靄がかかったように思い出せない。ただ、胸に残る空虚な喪失感だけが生々しかった。
「それが、君の詩か」
不意にかけられた声に顔を上げると、フードを目深にかぶった青年が立っていた。月の光を反射する銀色の髪が、フードの隙間から覗いている。彼はリラの手の中にある結晶を、痛ましむような、それでいてどこか懐かしむような瞳で見ていた。
「君のような『時詠み』を探していた。世界が、終わろうとしている」
青年の名はカイ。彼は、激しさを増す時間潮汐の源流、『時の泉』が枯れつつあることを告げた。リラの手の中にある詩の結晶こそが、泉の渇きを癒す唯一の手がかりなのだと。
第二章 空の破片が映すもの
カイに導かれ、リラは旅に出た。目指すは、世界の中心にあり、すべての時間の源とされる『時の泉』。道中、彼らは時間潮汐によって現れた古代の遺跡に足を踏み入れた。風が柱の間を吹き抜ける音は、遠い昔の誰かの囁きのように聞こえる。
苔むした祭壇の上で、リラは手のひらほどの大きさの、空の一部を切り取ったかのような透明な石を見つけた。カイはそれを『空の破片』だと教えた。持ち主の感情に呼応し、時を映す遺物だという。
「試してみるといい。君の詩を、それに」
促されるまま、リラは小指から生まれた詩の結晶を『空の破片』にかざした。すると、破片が淡い光を放ち、目の前の空間に立体的な幻影を映し出した。優しい笑顔の両親。三人で手を繋いで歩いた市場の喧騒。そして、巨大な時間の波がすべてを飲み込む瞬間の、自分の絶叫。失われたはずの記憶と感情が、奔流となってリラの心を打った。
「ああ……」
涙が頬を伝う。これは、ただの記憶の再生ではなかった。詩に刻まれた感情の追体験。リラは自らの特異な体質が、喪失と記録の、あまりにも哀しい仕組みで成り立っていることを理解した。カイは何も言わず、震える彼女の肩にそっと自身の上着をかけた。
第三章 潮汐の奔流
旅を続けるほどに、時間潮汐は牙を剥いていった。未来の戦闘機械の残骸が空から降り注ぎ、ありえたかもしれない並行世界の悲鳴が大地から響き渡る。予測不能な奔流が二人を襲った。
巨大な影のような時間の波が迫る。
「リラ!」
カイが彼女を突き飛ばした瞬間、恐怖と、彼を失いたくないという強い想いがリラの全身を貫いた。今度は右の足首だった。灼けるような痛みと共に、美しい詩句を刻んだ結晶が生まれ、時間の波を僅かに押し留める。リラはその場に崩れ落ち、足首の感覚と、恐怖の記憶を失っていた。
夜、焚き火を囲みながら、カイは一族に伝わる古い伝承を語った。
「『時の泉』は、世界から失われた『物語』を糧にしているらしい。誰かの喜び、悲しみ、愛、そのすべてが泉を満たし、時間を安定させてきた。だが、人々が物語を忘れたとき、泉は渇き始める」
彼の言葉は、リラの存在そのものが、この世界の理と深く結びついていることを示唆していた。彼女が感情と共に生み出す詩こそ、失われゆく『物語』そのものなのかもしれない。
第四章 時の神殿と虚無
幾多の困難を乗り越え、二人はついに『時の泉』があるという時の神殿にたどり着く。しかし、そこに広がっていたのは想像を絶する光景だった。広大な神殿の中央にあるはずの泉は、水一滴なくひび割れ、底には脈打つ黒い影――『虚無』が渦巻いていた。それは、すべての物語を喰らい、時間を無に帰そうとする存在だった。
「来るな!」
カイが叫ぶが、遅かった。『虚無』はリラの心の最も深い部分にある絶望を読み取り、両親を失った瞬間の幻影を叩きつける。喪失の痛みが、記憶を失ったはずの心に蘇る。息が詰まり、世界が闇に閉ざされる。
その闇の中で、カイを守ろうとする自分の腕が見えた。この人を失うわけにはいかない。この温もりだけは。
リラの右腕が、内側から爆発するような光を放った。絶望を凌駕するほどの、守りたいという強い意志。それは彼女の右腕すべてを、これまでで最も大きく、そして複雑な詩を刻んだ光の結晶へと変えた。凄まじい光が『虚-無』を打ち払い、神殿に束の間の静寂が訪れる。
リラは、感覚のない右腕の付け根を見つめ、呆然と立ち尽くしていた。
第五章 最後の詩
カイは震える手で、リラの失われた右腕から生まれた巨大な結晶を拾い上げた。そして、それを『空の破片』に映し出す。
空間に浮かび上がったのは、凄絶な詩だった。両親を失った絶望、世界の終わりへの恐怖、そして、それらすべてを包み込み、なお燃え盛るカイへの愛と、未来への祈り。その詩の幻影の最後に、一つの情景が浮かび上がった。泉の中心に立つ一人の人間。その全身が光となり、泉を満たしていく。
――最も純粋で強大な『物語』。
――一人の人間の、全存在。
それが、泉を回復させる唯一の方法だった。
リラは、自らの運命を悟った。その表情は、不思議なほど穏やかだった。
「だめだ、リラ。そんなこと…!」
カイが叫ぶ。彼の冷静さは消え失せ、必死の形相でリラに駆け寄った。
「君がいなくなって救われた世界に、何の意味がある!」
「意味なら、あるよ」
リラは、残された左手でカイの頬に触れた。
「あなたがいる。それが、私の物語の意味」
第六章 泉へ捧ぐ物語
リラはカイに静かに微笑みかけると、一人、干上がった泉の中心へと歩みを進めた。彼女が中央に立った瞬間、足元から柔らかな光が溢れ始めた。
それは、彼女の人生そのものだった。
初めて笑った日の喜び。初めて歩いた日の小さな誇り。両親と過ごした温かな日々の記憶。カイと出会い、旅をした中で生まれた恐怖、怒り、そして愛。彼女の肉体は、その一つ一つの感情を美しい詩句に変えながら、足元からゆっくりと結晶化していく。
世界から音が消え、ただリラが紡ぐ壮大な叙事詩だけが、神殿に満ちていく。
全身が光の詩に変わる、その最後の瞬間。リラはカイに向かって、声にならない言葉を囁いた。
『私の物語を、忘れないで』
光が弾け、無数の詩の結晶となったリラは、涸れた泉の底へと降り注いだ。すると、ひび割れた大地から清らかな水が湧き出し、瞬く間に神殿を満たしていく。黒い『虚無』は聖なる水の奔流に浄化され、完全に消え去った。
第七章 残響の伝説
時間潮汐は、嘘のように穏やかになった。世界は崩壊を免れ、人々は安定した時の中での暮らしを取り戻した。
しかし、リラという少女がいたことを覚えている者はいなかった。歴史から彼女の存在そのものが消え、まるで初めからいなかったかのように世界は再構築された。ただ、世界を救ったという『名もなき詩人』の伝説だけが、おとぎ話として曖昧に語り継がれるのみ。
カイだけが、すべてを覚えていた。
彼は時折、再生した『時の泉』を訪れる。そして、懐から取り出した『空の破片』を、清らかな水面にかざすのだ。
すると、泉の底で永遠に輝き続ける、壮大な一篇の詩が共鳴し、水面に美しい幻影を映し出す。
それは、リラという一人の少女が生きた、愛と喪失の物語。
カイは、その残響に耳を澄ませる。彼女の最後の言葉を、決して忘れないために。世界が忘れてしまった、たった一つの大切な物語を、永遠に語り継いでいくために。