時の観測者と砂の遺言

時の観測者と砂の遺言

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第一章 重さのない男

霧島湊(きりしまみなと)にとって、世界は重さで満ちていた。行き交う人々の存在感は、それぞれが異なる質量を持つ鈍い圧力として彼の肌を撫でる。陽気な学生たちの集団は軽く弾むように、疲れ切ったサラリーマンは鉛のように重く、彼の横を沈み込みながら通り過ぎていく。

だが、湊自身の存在は、まるで水面に落とした羽のように軽かった。

「ご注文、お決まりですか」

カフェの店員は、湊の座るテーブルを素通りし、隣の客に微笑みかけた。彼はそっと手を挙げようとして、やめた。よくあることだ。声は掻き消え、姿は景色に溶ける。人々は彼の存在を無意識に濾過してしまう。時折、彼は自分が本当にここにいるのか、不安に襲われるのだった。

雨上がりのアスファルトが放つ湿った匂いが、彼の孤独を一層際立たせる。彼はカフェを出て、雑踏という重力の海に身を投じた。誰かの肩が彼の体をすり抜けるようにして通り過ぎる。まるで幽霊だ。しかし彼には、確かな感覚があった。古い石畳の道や、歴史を重ねた建物の壁際に立つと、彼は微かな「時間の引力」を感じるのだ。そこには、過去に生きた人々の強い感情が、重力場のように歪んだ空間として残っている。喜び、悲しみ、怒り。それらは湊にとって、自分がこの世界と繋がっている唯一の証明だった。

第二章 時間の引力

その現象が「時間侵食」と呼ばれるようになったのは、もう少し後のことだ。はじめは、些細な不協和音に過ぎなかった。

交差点の向こうに、一瞬だけ、ガス灯が立ち並ぶ石造りの街並みが見えた。けたたましいクラクションの代わりに、馬車の蹄の音が聞こえた気がした。人々はそれを「最近よく見る幻影だ」と笑い、スマホのカメラを向けるが、そこにはいつも通りの灰色のビルが映るだけだった。

しかし湊には分かった。あれは単なる幻影ではない。過去が、確かな重さを持って現在に染み出している。時間の引力が、これまで感じたことのないほど強くなっているのだ。

不安に駆られた彼は、祖父が遺した骨董店「時巡堂(ときめぐりどう)」の扉を開けた。埃と古い木の匂いが鼻をつく。軋む床を踏みしめ、薄暗い店内を進むと、一つのオブジェクトが彼の注意を引いた。黒檀の台座に鎮座する、古びた真鍮の砂時計。それに触れた瞬間、指先を鋭い静電気が貫いた。

ずしり、と。これまでに感じたことのない、濃密な時間の重みがそこにはあった。手に取ると、砂時計はひとりでに反転し、銀色に輝く砂がさらさらと流れ始めた。その一粒一粒に、見知らぬ誰かの過去の光景が一瞬だけ、万華鏡のように映っては消えていく。泣き叫ぶ赤子、誓いを交わす恋人、戦火に怯える兵士。それは、ただの砂ではなかった。

第三章 侵食の調べ

世界が軋みを上げるのに、そう時間はかからなかった。テレビのニュースキャスターが青ざめた顔で伝えている。都心の一部区画が、忽然と消失。代わりに、そこには大正時代の街並みが現実として出現し、現代の建造物も、そこにいた人々も、すべてが「上書き」されてしまったのだと。

時間侵食は、もう誰の目にも明らかな脅威となっていた。

湊は、あの砂時計を握りしめていた。これだけが、唯一の手がかりだった。侵食が起こった場所の近くでは、砂時計が脈打つように熱を帯び、砂の落ちる速度が明らかに速まるのだ。それはまるで、道標のように彼を導いていた。

「安定点……世界を救う唯一の場所」

祖父が遺した日記に、走り書きされた言葉。祖父もまた、この世界の歪みに気づいていたのかもしれない。湊は砂時計を頼りに、時間の引力が最も強く渦巻く場所を探し始めた。砂の中に映る無数の悲鳴や祈りが、彼の心を苛む。だが、立ち止まることはできなかった。自分のこの希薄な存在が、あるいはこの事態を解決するためにあるのかもしれないという、淡い希望を抱いて。

第四章 時計台の残響

砂時計が示したのは、街の中心にある古い公園だった。そこにはかつて、街のシンボルだった大時計台がそびえていたという。今はもう、その土台しか残っていない。

公園に足を踏み入れた途端、空気が変わった。過去と現在の空気がマーブル状に混ざり合い、視界がぐにゃりと歪む。存在しないはずの路面電車が警笛を鳴らしながら彼の体を突き抜け、着物姿の子供たちが笑いながら彼の周りを走り抜けていく。それらは重さを持たない幻影だったが、時折、物理的な干渉を伴う危険な残像が襲いかかってきた。

過去の時代のガス灯が突如実体化し、彼の目の前で地面に突き刺さる。

「危ない!」

誰かの声が聞こえた気がした。だが、振り返っても誰もいない。彼は自分の希薄な存在のおかげで、物理的な干渉を紙一重で回避していることに気づいた。まるで、世界が彼を認識しきれずにいるかのようだ。

時計台の土台の中心にたどり着いた時、砂時計がこれまでになく激しく震え、灼熱を放った。砂が、滝のように流れ落ちていく。残りはもう、ほんの僅かだ。

第五章 砂の告白

空間が悲鳴を上げた。湊の目の前で、時間の渦が可視化され、過去と未来の光景が猛烈な速度で明滅する。そして、砂時計が最後の光を放ち、その砂粒の中に、たった一つの、鮮明な光景を映し出した。

そこにいたのは、自分だった。

自分と寸分違わぬ顔。しかし、その目には深い絶望と、想像を絶するほどの疲労が刻み込まれていた。白髪の混じった髪、刻まれた皺。未来の、湊自身の姿だった。

『……ようやく、ここまで来たか』

声が、頭の中に直接響いた。それは幻影の男の声だった。

『時間侵食の原因は、お前だ。いや……俺たちだ』

衝撃的な言葉に、湊は息を呑んだ。未来の湊は、静かに真実を語り始めた。湊が持つ、時間の引力を感じる能力こそが、不安定な時間位相のアンカーとなり、過去を現在に引き寄せる原因となっていたのだと。そして、彼が「安定点」を探し求める旅そのものが、侵食を加速させる最悪のトリガーだったという、残酷な事実を。

『俺は、このループを断ち切るために、未来から干渉し続けた。この世界を救う唯一の方法は、俺自身の存在を楔にして、この場所に「安定点」を創り出すことだけだ』

未来の湊が、悲しげに微笑んだ。

『この砂時計の砂は、俺が存在した時間の破片だ。俺の記憶、俺の存在そのものを削って、過去のお前をここまで導いた。……さあ、もう時間がない』

第六章 透明な観測者

砂時計の、最後の砂が一粒、静かに落ちた。

未来の湊の姿が、眩い光の粒子となって霧散していく。その光は、吸い込まれるように現在の湊の体を包み込んだ。全身が引き裂かれるような感覚の後、訪れたのは、完全な静寂。

ふと気づくと、彼は時計台の公園に立っていた。時間の渦は消え、空は穏やかな青色を取り戻している。侵食は、止まったのだ。近くのベンチでは、人々が何事もなかったかのように談笑している。世界は、救われた。

安堵した湊は、近くを通りかかった女性に声をかけた。「すみません、今、何が……」

しかし、女性は彼に気づくことなく、友人との会話を続けている。おかしい。彼はもう一度、今度はすぐそばに立っていた男性の肩に手を伸ばした。だが、その手は、まるで陽炎を掴むかのように、男性の体をすり抜けた。

絶望が、彼の心を冷たく濡らした。人々から、彼の「存在の重さ」が一切感じられない。彼の存在は、世界の時間軸から完全に切り離されてしまったのだ。急いで自分のアパートに戻ると、そこには見知らぬ家族が住んでいた。彼の部屋も、家具も、彼が生きてきた痕跡すべてが、この世界から綺麗に消え去っていた。

誰の記憶にも、記録にも、彼はもういない。

第七章 永遠の幻影

霧島湊は、透明な観測者となった。

彼はもう、誰かに触れることも、声を届けることもできない。食事も睡眠も必要としない、時間という概念の外側に立つ存在へと変質してしまった。彼の孤独な魂は、未来の自分が作り上げた「安定点」に固着させられたのだ。

それは、耐え難いほどの孤独だった。しかし、絶望だけではなかった。彼の目には今、この安定した世界の真の姿が見えていた。現代の街並みの上には、過去の時代の幻影が美しいオーロラのように重なり、未来の都市のシルエットが蜃気楼のように揺らめいている。人々の頭上には、彼らが経験してきた過去の記憶や、これから紡がれる未来の可能性が、無数の光の糸となってきらめいていた。

彼は雑踏の中に立ち、行き交う人々の、かつて感じた「存在の重み」を思い出す。それはもう感じることはできないが、彼だけがその本当の意味を知っていた。

彼は空を見上げた。青空を、かつてこの空を飛んだであろう飛行船の幻影が、音もなく横切っていく。

彼の右手には、あの砂時計が握られていた。中の砂は、もう二度と動くことはない。それは、未来の彼が払った犠牲の証であり、現在の彼が、かつてこの世界に確かに存在したという、唯一の遺言だった。

悲しく、そしてあまりにも美しい世界を、彼は永遠に見守り続ける。

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