忘却の編み手
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忘却の編み手

第一章 触れる者と無貌の地

リヒトは、世界から隔てられた場所に生きていた。彼の手袋越しの指先が古い石壁に触れる。それだけで、彼の意識は時間の奔流に呑み込まれた。地殻が隆起する轟音、氷河に削られる無音の悲鳴、幾千年もの雨風が肌を打つ感覚。幻視の嵐が過ぎ去るのを、彼はただ息を殺して耐える。これが彼の持つ呪いであり、能力だった。触れたもの全ての『記憶された旅路』を、圧縮された濁流として追体験してしまうのだ。

彼が住む世界は、『物語の記憶』によって形作られていた。英雄譚が語り継がれる街は陽光に輝き、恋人たちの囁きが染み込んだ森は瑞々しい緑を保つ。しかし、忘れ去られた物語の場所は、その存在の輪郭を失っていく。色が褪せ、音が意味をなくし、やがて時空が歪んだ『無貌の地』となって世界地図から消滅するのだ。そして今、その侵食は世界中で加速していた。

ある霧雨の降る日、リヒトが住む廃墟の街に、一人の少女が現れた。エリアと名乗る彼女は、雨に濡れた栗色の髪を揺らし、好奇心に満ちた瞳でリヒトを見つめた。

「あなたね、〝触れる者〟のリヒト」

彼女の言葉に、リヒトは一歩後ずさる。己の能力は、人との繋がりを拒絶する理由そのものだった。

「心配しないで。あなたの力を借りに来ただけ」

エリアは背負っていた革の鞄から、古びた一冊の本を取り出した。表紙には何の装飾もなく、ただ滑らかな黒革が張られているだけ。

「これは『無記の書』。私の一族が代々守ってきたもの。世界を蝕む『無貌の地』の増加は、歴史から失われた『空白の時代』が原因だと、古文書は伝えているわ。その謎を解く鍵が、あなたなの」

リヒトは訝しげに眉をひそめた。世界の崩壊など、自分には関係のないことだと思っていた。彼はただ、人知れず、膨大な記憶の奔流から逃れて静かに生きていきたかった。しかし、エリアの真摯な眼差しが、彼の心の壁を微かに揺さぶった。その瞳の奥に、強い物語の輝きを感じたからだ。

第二章 無記の書の囁き

エリアに促され、リヒトはおそるおそる手袋を外した。冷たい革の感触が指先から離れると、途端に世界のあらゆる記憶が肌を刺すように流れ込んでくる。彼は深呼吸一つでそれを押し殺し、震える指先で『無記の書』の表紙に触れた。

瞬間。

いつものような暴力的な記憶の洪水ではなかった。それは、静寂だった。完全な無。音も、色も、匂いも、感情すらも存在しない、絶対的な空白の感覚。まるで、物語が生まれる以前の原初の虚無に触れたかのようだった。

リヒトが驚きに目を見開くと、空白のページに淡い光のインクが滲み出すように、文字とも絵ともつかないイメージが浮かび上がった。

巨大な塔。空を覆うほどの翼。そして、悲しげに響く鐘の音。

イメージは一瞬で掻き消え、書物は再び沈黙した。

「……見えた」リヒトは掠れた声で呟いた。

「何が?」エリアが身を乗り出す。

「分からない。でも……これは誰の記憶でもない。失われた、物語の残響だ」

その日から、二人の旅が始まった。エリアが古文書から探し出した『空白の時代』の手がかりを頼りに、彼らは忘れられた場所を目指した。『無記の書』は、リヒトが失われた物語の断片に触れるたびに、その空白のページに束の間の幻を映し出す道標となった。リヒトは初めて、自分の能力が呪いではなく、何かを紡ぐための力なのかもしれないと感じ始めていた。

第三章 忘れられた都の残響

彼らが次に訪れたのは、砂漠の風に半分埋もれた古代都市ザラームだった。かつては水と緑に恵まれた交易の中心地だったというが、今ではその物語も忘れ去られ、『無貌の地』へと変貌する寸前だった。建物の輪郭は陽炎のように揺らめき、時折、空間がガラスのようにひび割れる音がした。

リヒトは崩れかけた広場の中心にある礎石に手を置いた。

途端に、彼の脳裏に数万の人生が駆け巡る。市場の喧騒、恋人たちの口づけの甘さ、職人たちの誇り高い槌音。しかし、その活気ある記憶は、突如として恐怖に塗りつぶされた。人々が、自らの過去を、家族の名前を、愛する歌を忘れていく。物語を失った魂が、まるで糸の切れた人形のように虚ろな目で彷徨い始める。街から色が抜け落ち、音が意味を失っていく絶望の光景。リヒトは思わず叫び声を上げて手を引いた。

「大丈夫!?」

エリアが彼の肩を支える。リヒトは荒い息を繰り返しながら、震える手で『無記の書』を開いた。そこには、先程よりも鮮明な文字が光の軌跡となって浮かび上がっていた。

『大いなる物語は、自らを贄とすることで、破滅を封じた』

『編み手は、忘却を紡ぎ、時を守る』

「編み手……?」エリアが呟く。「一体、誰が何のために?」

謎は深まるばかりだった。しかし、この言葉は、誰かが意図的に『空白の時代』を作り出したことを示唆していた。リヒトの胸に、冷たい予感が芽生え始めていた。

第四章 時の最果てで待つ者

二人はついに、世界の中心に聳え立つ『始原の図書館』に辿り着いた。そこは、世界のあらゆる物語が生まれる場所であり、同時に終わりを迎える場所でもあった。館内は無数の書物が並んでいたが、その多くは埃をかぶり、物語の力を失いかけていた。

図書館の最奥。時の流れから切り離されたかのような静寂の中で、一枚の巨大な黒曜石の石板が鎮座していた。世界の法則そのものが刻まれているという『理の石板』だ。エリアが息を呑んで見守る中、リヒトは覚悟を決めてその冷たい表面に触れた。

幻視が、来た。

だが、それは過去ではなかった。未来だった。

――目の前に、老いた自分がいた。深い皺が刻まれた顔で、涙を流している。その手には、全てのページが輝く文字で埋め尽くされた『無記の書』があった。隣には、エリアによく似た、だがどこか違う、穏やかな微笑みを浮かべた女性が寄り添っている。老いたリヒトは、書物の最後のページに何かを書き込むと、静かに目を閉じた。すると、書物から放たれた眩い光が世界を包み込み、一つの巨大な物語――一つの時代そのものが、歴史から綺麗に消し去られていく光景が見えた。

その瞬間、未来の自分からのメッセージが、時を超えてリヒトの魂に直接流れ込んできた。

《これは、我々が選んだ道だ。世界を喰らうほどの強大な『破滅の物語』があった。それを打ち消す唯一の方法は、世界の記憶そのものから物語を消し去ること。だが、その代償として生じた『空白』は、世界の存在基盤を揺るがす新たな病となった》

《世界を救う物語は、世界に記憶されてはならないのだ》

《だから、新たな物語が必要になる。希望に満ち、破滅を乗り越えるほどの力を持つ、新しい物語が。そしてその物語もまた、『空白』となって世界を癒すための礎となるのだ》

幻視から解放されたリヒトは、呆然と立ち尽くしていた。『空白の時代』を作った犯人は、未来の自分自身だったのだ。

第五章 新たなる空白の物語

全てを悟った。自分たちが追い求めてきた『空白の時代』とは、かつて世界を滅ぼしかけた『破滅の物語』を、未来の自分たちが自己を犠牲にして封じ込めた跡地だったのだ。しかし、その行為が生み出した巨大な『空白』が、今、新たな崩壊を招いている。

この崩壊を止めるには、その『空白』を埋める、新しい物語が必要だ。破滅の記憶を上書きするほどに強く、希望に満ちた物語。

それは――リヒトとエリアが、失われた時代を求めて旅をした、この冒険の物語そのものだった。

「僕たちの旅が……」リヒトの声が震える。

隣で、エリアもまた真実を理解していた。彼女の瞳には涙が浮かんでいたが、その表情は不思議なほど穏やかだった。

「そう。私たちの物語が、次の世界を救うのね」

それは、世界の歴史に自分たちの存在を刻むのではなく、世界を救うために自らの存在と記憶の全てを消し去るという選択だった。語り継がれる英雄になるのではない。誰にも知られず、忘れ去られる救世主になるのだ。

二人は顔を見合わせ、静かに微笑んだ。そこに迷いはなかった。

リヒトは『無記の書』を掲げる。エリアがそっと彼の手の上に自分の手を重ねた。二人の旅路、交わした言葉、分かち合った想い。その全てが、眩い光となって『無記の書』に流れ込んでいく。ページがひとりでに捲れ、彼らの物語が最後の空白を埋めていく。

「君に出会えてよかった」リヒトが言った。彼の指先から、世界の記憶が剥がれ落ちていく感覚があった。

「私もよ、リヒト」エリアの声もまた、風に溶けるように掠れていく。

やがて、彼らの輪郭が薄れ、光の粒子となって霧散していく。彼らが紡いだ物語は、世界の傷である『空白』を完全に満たし、新たな歴史の礎となった。世界は崩壊を免れ、再び安定を取り戻すだろう。そこでは新しい物語が生まれ、語り継がれていく。ただ、そこにリヒトとエリアという二人の旅人がいたことだけを、誰も知ることはない。

彼らの物語は、世界を救うために、永遠に忘れ去られたのだ。


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