忘却のコンパス

忘却のコンパス

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第一章 眠れる少女と忘れられた道

埃をかぶったランプの灯りが、リヒトの手元にある古書を揺らめきながら照らしていた。部屋の空気は重く、窓の外で降りしきる冷たい雨の音が、リナの浅く静かな寝息に重なる。彼の最愛の妹、リナ。彼女が深い眠りに落ちてから、もう三度目の季節が巡っていた。どんな名医も、どんな賢者も、そのまぶたを開かせることはできなかった。人々はそれを「硝子の眠り病」と呼び、ただ為す術もなく彼女の生命の灯火が消えるのを待つだけだった。

リヒトは諦めなかった。書庫の奥深くに眠る、埃とインクの匂いが染みついた禁書を漁る日々。そして今、彼の指は一つの記述の上で止まっていた。

『最果ての地に「魂の井戸」あり。その一滴は、いかなる魂をも目覚めさす。されど、井戸へ至る道は「忘却の道」。歩む者は一歩ごとに記憶を代償とし、その魂を道に捧げるべし』

忘却の道。その言葉の響きは、リヒトの心臓を冷たい手で掴むようだった。記憶を失う。それは、自分自身を失うことに他ならない。リナとの思い出、笑い合った日々、交わした約束。それら全てが、この旅の燃料になるというのか。

彼はそっとリナのベッドサイドに近づいた。青白い顔、閉じられたままの長い睫毛。まるで精巧に作られた人形のようだ。だが、その胸はかすかに上下している。まだ、彼女はここにいる。リヒトは彼女の冷たい手を握りしめた。

「リナ。待っていてくれ」

もし、この旅の果てに、僕が君の名前さえ忘れてしまったとしても。僕という存在が、思い出の欠片も残らない空っぽの器になったとしても。君がもう一度その瞳で世界を見てくれるなら、僕はどんな代償でも払おう。

リヒトの心は決まった。彼は古書に描かれた不鮮明な地図を懐にしまい、旅の支度を始めた。これが、ただ前に進むことだけが許された、後戻りのきかない冒険の始まりだった。彼のコンパスが指し示す先は、未知の土地ではなく、彼自身の魂の奥深くへと続く、忘却の道だった。

第二章 色褪せる思い出の欠片

忘却の道は、特定の場所に存在する道ではなかった。それは、魂の井戸を目指すと強く意識した瞬間から、日常の風景に侵食してくる奇妙な小径だった。街外れの森を抜けるいつもの道が、気づけば霧深い、見たこともない苔むした石畳に変わっていた。一度足を踏み入れれば、もう引き返すことはできない。

最初になくしたのは、些細な記憶だった。歩き始めて数時間、ふと口ずさんでいた子供の頃の歌のメロディーが、霧のように頭から消え去った。思い出そうとすればするほど、そこには空白が広がるだけだった。まるで、脳の一部が綺麗に切り取られたような、奇妙な喪失感。

道は静寂に包まれていた。聞こえるのは自分の足音と、時折吹く風が木々を揺らす音だけ。しかし、その風の音も、どこか現実味がない。まるで分厚いガラス越しに聞いているように、全ての音がくぐもって響いた。

数日が過ぎた。リヒトは空腹を覚え、リュックから干し肉を取り出した。だが、口に含んだ瞬間、彼は眉をひそめた。味がしない。塩気も、燻製の香りも、肉の旨味も、何も感じない。それはただの繊維の塊だった。彼は慌てて、母が作ってくれた甘い木の実のジャムを舐めた。甘くない。思い出の中にあるはずの、あの胸が躍るような甘さが、舌の上から完全に消え失せていた。

「母さんのジャムの味……」

その記憶が失われたのだと、彼は直感した。味覚そのものが失われたのではない。その味に紐づいていた「思い出」が喰われたのだ。楽しい食卓の光景、母の優しい笑顔。それらが霞み、輪郭を失っていく。リヒトは膝から崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえた。

道はさらに彼の記憶を貪った。ある朝、彼は道端に咲く名も知らぬ青い花を見つけた。その深く、吸い込まれそうな青色に、彼はかつてリナと見上げた故郷の空を重ねた。リナはあの空の色が大好きだった。そう思った瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。目の前の青い花が、そして見上げた空が、色を失い、モノクロームの濃淡に変わった。

「ああ……!」

リヒトは叫んだ。リナが好きだった空の色を、忘れてしまった。彼女の笑顔を思い出す。まだ、それは鮮明に思い出せる。だが、その笑顔の周りにあった世界が、急速に色と音と匂いを失っていく。彼の内なる世界は、確実に崩壊を始めていた。

それでも、彼は歩みを止めなかった。失うたびに、胸にぽっかりと穴が空く。その空虚感を埋めるように、彼はリナの名前を何度も、何度も呟いた。

「リナ、リナ、リナ……」

この名前だけは、この存在だけは、決して手放すものか。空っぽになってもいい。ただ、君を救うという目的だけが、彼の体を前に押し進める唯一のコンパスだった。道には時折、風化した石像のように動かなくなった人影があった。おそらく、目的さえも忘れてしまった旅の成れの果てだろう。自分もああなるのだろうか。恐怖が足元に絡みつく。だが、リヒトは唇を噛み締め、灰色の道をただひたすらに進んだ。

第三章 魂の井戸の真実

どれほどの時が流れただろう。リヒトの記憶は、もはや虫食いの古書のように、ほとんどの部分が失われていた。彼はなぜ自分がこの道を歩いているのか、その理由もおぼろげになっていた。ただ、心の奥底で燃え続ける熾火のような、何かを「救わなければならない」という強迫観念だけが、彼の足を動かしていた。

やがて霧が晴れ、目の前に巨大な洞窟の入り口が現れた。洞窟の中央には、静かに水を湛える古井戸があった。水面は月光を反射し、まるで銀河を溶かし込んだように神秘的に輝いている。ここが「魂の井戸」に違いない。

彼が井戸に近づくと、水面がさざ波立ち、そこから人の声ではない、厳かで深みのある声が響いた。

『よくぞ辿り着いた、記憶なき旅人よ。お前は何を求める?』

「……救いたいんだ」リヒトはかすれた声で答えた。「大切な……誰かを。眠り続けている……」

『その者の名を言えるか?』

「……」リヒトは絶句した。唇が震え、必死に記憶の断片をかき集めようとする。美しい髪、澄んだ瞳、優しい声。断片的なイメージは浮かぶのに、それらを結びつける「名前」がどうしても出てこない。忘れてしまった。最も大切だったはずの名前を。

絶望に打ちひしがれる彼に、井戸の声は静かに続けた。

『お前が忘れたのは、名だけではない。真実の願いもだ』

「真実の……願い?」

『思い出せ。お前が救おうとしている少女は、不治の病に蝕まれていた。日に日に痩せ細り、耐え難い痛みに昼も夜も呻き続けていた。あらゆる治療も虚しく、彼女に残されたのは、ただ苦しみながら死を待つだけの時間だった』

井戸が語る言葉とともに、リヒトの脳裏に、封じられていた光景が蘇る。そうだ。彼女は眠っていたのではない。苦しんでいたのだ。骨と皮ばかりになった腕で、シーツを掻きむしり、涙を流しながら「殺して」と懇願していた。

「やめろ……」リヒトは耳を塞いだ。

『お前は彼女を愛していた。だからこそ、耐えられなかった。彼女がこれ以上苦しむ姿を見ることに。そして、お前は願ったのだ。彼女を、その苦しみから解放してやりたい、と』

声は容赦なく、核心を突いた。

『この井戸の水は、魂を目覚めさせはしない。魂を安らかな、永遠の眠りへと誘うのだ。お前がこの旅に出たのは、彼女を目覚めさせるためではない。彼女に安楽の死を与えるため。その罪の意識と悲しみを、この忘却の道で全て捨て去るために……』

それが、この冒険の真実だった。

「救う」という言葉に隠された、あまりにも残酷で、あまりにも優しい本当の意味。リヒトは、妹をその手で終わらせるという耐えがたい決断の記憶を、自ら進んで道に差し出していたのだ。彼は、妹を「救う」という目的だけを残し、その方法と理由という最も辛い部分を忘れることで、ここまで歩いてきたのだった。

「ああ……ああ……リナ……!」

ついに思い出した名と共に、リヒトは崩れ落ちて号泣した。失った記憶の痛みが、一度に彼の空っぽの心を貫いた。彼は妹を殺すために、ここまで来たのだ。

第四章 愛という名の忘却

どれだけ泣き続けたか、リヒトには分からなかった。涙も枯れ果て、空虚な心が静寂を取り戻したとき、彼はゆっくりと立ち上がった。洞窟の中は相変わらず静かで、井戸の水面だけが銀色に揺れている。

もう、彼の心に迷いはなかった。忘却の道が奪い去ったのは、楽しい思い出や美しい風景だけではなかった。それは、彼を苛んでいた罪悪感や、決断の重みさえも和らげてくれていた。残ったのは、ただ純粋な、妹を苦しみから解放したいという、愛の核だけだった。それは、良いも悪いもなく、ただそこにある、動かしがたい真実だった。

彼は井戸に近づき、携えてきた小さな水筒に、その静かな水を汲んだ。水は手に取ると、驚くほど温かかった。まるで命の温もりのようだった。

忘却の道は、帰り道もまた彼の記憶を奪った。しかし、もはや彼には失うものはほとんど残っていなかった。故郷への道筋、自分の家の場所さえもおぼろげだったが、不思議と足は迷わなかった。彼の魂が、リナのいる場所を覚えていた。

見慣れた、しかし何も感じない部屋に戻ったとき、リナは相変わらずベッドで静かに横たわっていた。だが今のリヒトの目には、彼女の青白い顔に浮かぶ苦悶の影がはっきりと見えた。浅い呼吸の合間に、かすかに漏れる呻き声が聞こえた。

彼はもう、リナとの楽しい思い出を語りかけることはできない。好きだった歌を歌ってやることもできない。彼の内なる世界は、がらんどうの廃墟だ。

それでも、彼はリナのそばに膝をつき、その痩せた頬を優しく撫でた。

「……リナ」

その声は、彼自身のものではないように乾いていた。

「もう、大丈夫だよ。もう、苦しまなくていい」

彼は水筒の蓋を開け、その温かい一滴を、リナの乾いた唇にそっと垂らした。水滴が唇に染み込むと、奇跡が起きた。リナの顔から、ずっとまとわりついていた苦悶の表情がふっと消え、まるで安らかな夢を見ているかのような、穏やかな微笑が浮かんだのだ。そして、か細く続いていた呼吸が、静かに、永遠に止まった。

部屋に、完全な沈黙が訪れた。

リヒトは、ただじっとその顔を見つめていた。悲しみはなかった。喜びもなかった。感情というものが、全て流れ去った川底のようだった。彼は全てを失った。思い出も、妹も、そして自分自身の一部も。

しかし、彼は一つのことを成し遂げた。彼にしかできなかった、究極の愛の形を。

夜が明け、朝日が部屋に差し込んだ。それはリヒトが忘れてしまったはずの、温かい金色だった。彼は立ち上がり、窓を開ける。新鮮な空気が、彼の空っぽの肺を満たした。

彼はこれからどうするのだろう。何も覚えていない場所で、どう生きていくのだろう。分からない。けれど、不思議と恐怖はなかった。彼は忘却の果てに、一つの冒険を終えたのだ。そして、空っぽの心で、これから始まる全く新しい、未知なる人生という冒険の入り口に、ただ静かに立っていた。彼のコンパスはもうどこにもない。だからこそ、どこへだって行けるのだ。

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