メモリーダイバーと忘却の子守唄

メモリーダイバーと忘却の子守唄

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第一章 記憶の海に沈む男

リヒトの部屋は、灰色だった。壁も、床も、窓から見える空でさえも、まるで色という概念を忘れてしまったかのように、濃淡の異なる灰色で塗りつぶされていた。彼は「記憶潜航士(メモリーダイバー)」という、奇妙な職業で生計を立てていた。特殊な装置を使い、依頼人の記憶の海へ潜り、失われた情報や、忘れ去られた風景の断片を拾い集める。金庫の番号、遺言のありか、初恋の人の顔。人々が失くした過去は、彼にとって格好の商材だった。

しかし、他人の温かい思い出に触れれば触れるほど、リヒト自身の内面は空っぽになっていった。まるで、自分という存在が希薄になって、他人の人生の残像を映すだけの、冷たい鏡になったかのようだった。彼には、自分の過去がなかった。物心ついた時から、彼自身の記憶は、ぽっかりと穴の開いた白紙のページだった。

その日、リヒトの元に一通の古風な手紙が届いた。差出人の名はない。封蝋をナイフで丁寧に切り開くと、震えるような文字で綴られた依頼書が現れた。

『亡き夫の、最後の記憶に潜っていただきたいのです。彼が死の間際に口ずさんでいた、一つのメロディを探し出してください。それは、誰にも知られていない、彼が私だけに遺そうとした、最後の贈り物のはずなのです』

依頼主は、最近夫を亡くしたという老婆らしい。夫はかつて、名の知れた作曲家だったという。報酬の欄には、リヒトの目を疑うような金額が記されていた。しかし、それ以上に彼の心を捉えたのは、「最後の贈り物」という言葉だった。贈り主も、受け取る相手もいないリヒトにとって、それは理解の範疇を超えた、遠い世界の響きを持っていた。

「メロディ、か」

リヒトは呟き、窓の外の灰色の空を見上げた。仕事は仕事だ。感傷に浸る意味はない。彼は受話器を取り、手紙に記された番号へ、無感情な指先でダイヤルを回した。これが、自分の空虚さをさらに深めるだけの、新たな潜航の始まりに過ぎないと、この時の彼は信じて疑わなかった。

第二章 旋律の残響

潜航装置のヘッドギアを装着すると、意識がゆっくりと現実から剥離していく。冷たいジェルの感触がこめかみに広がり、やがて世界は静寂と暗闇に包まれた。次の瞬間、リヒトは全く別の場所に立っていた。

そこは、音と光が乱舞する、万華鏡のような世界だった。作曲家の記憶の海は、リヒトがこれまで潜った誰の記憶とも異なっていた。宙には五線譜の川が流れ、音符の形をした銀色の魚たちが跳ねている。喜びの記憶は、タンポポの綿毛のような暖かな光の粒子となって舞い、悲しみの記憶は、低く響くチェロの音色と共に、足元に深い藍色の霧を生んでいた。

「ここから、あのメロディを?」

リヒトは、この抽象的で美しすぎる世界にわずかな戸惑いを覚えながらも、プロとして冷静に探索を開始した。依頼主である老婆との記憶を辿れば、手がかりが見つかるはずだ。

彼は、五線譜の川に沿って歩き始めた。記憶の断片が、シャボン玉のように浮かび上がっては消えていく。ピアノの前で微笑む若い男。彼が、作曲家だろう。その隣には、陽だまりのような笑顔を浮かべた女性がいる。きっと、彼女が依頼主の老婆の若い頃の姿だ。二人が見つめ合う記憶に触れると、リヒトの胸に、経験したことのない甘く切ない感情が流れ込んでくる。彼は慌ててその感覚を振り払い、先を急いだ。

幸せな記憶の風景をいくつも通り過ぎる。結婚式で鳴り響くパイプオルガンの荘厳な調べ、生まれたばかりの赤ん坊の産声が変奏された優しいカノン、家族旅行で聞いた潮騒のフーガ。どれもが愛に満ちた美しい旋律だったが、依頼された「最後のメロディ」の断片すらなかった。

探索を進めるうち、リヒトは奇妙な違和感に気づいた。この完璧に構築された記憶の世界に、時折、不協和音のような「歪み」が生じるのだ。風景の一部が突然ノイズの走った映像のように乱れたり、美しい旋律の途中で、耳障りな音が混じったりする。そして何より不可解なのは、生まれたはずの子供の記憶が、ある時点からぷっつりと途切れ、その後の風景から完全に消え去っていることだった。まるで、その存在自体が記憶から意図的に削除されたかのように。

これは単なる記憶の劣化ではない。何者かによる、強固なプロテクト。あるいは、持ち主自身が固く封印した、決して触れてはならない心の傷跡。リヒトのダイバーとしての勘が、警鐘を鳴らしていた。

第三章 空白の五線譜

リヒトは、子供の記憶が消えた時点へと意識を集中させた。そこは、真夏の陽光が降り注ぐ、緑豊かな公園の記憶だった。若い作曲家と妻、そして小さな男の子が、楽しそうに笑い合っている。だが、その幸福な光景は、突然、引き伸ばされたテープのように歪み始めた。甲高いブレーキ音、人々の悲鳴、そして、すべてを塗りつ潰すような、絶望的な無音。

次の瞬間、リヒトは激しい抵抗に弾き出され、暗い空間に放り出された。目の前には、巨大な壁がそびえ立っていた。記憶の持ち主が、無意識に築き上げた拒絶の壁だ。これ以上、深部へ進むことを拒んでいる。

「ここまでか…」

諦めかけたリヒトの耳に、壁の向こうから、か細い音が聞こえてきた。それは、これまで追ってきた華やかな旋律とは全く違う、素朴で、どこか懐かしいメロディの断片だった。探し求めているメロディに違いない。だが、それ以上に、その旋律はリヒトの心の奥底に眠る何かを、激しく揺さぶった。彼は、このメロディを知っている。なぜだ? 自分の記憶など、何一つないはずなのに。

衝動に突き動かされ、リヒトは拒絶の壁に手を触れた。激しい精神的なフィードバックが全身を襲う。脳が焼き切れそうなほどの痛み。だが、彼は手を離さなかった。知らなければならない。この壁の向こうに何があるのか。このメロディの正体は何なのか。そして、この言いようのない懐かしさは、どこから来るのか。

「開け…!」

リヒトが心の底から叫んだ瞬間、壁に亀裂が走り、眩い光が溢れ出した。光に飲み込まれながら、彼の意識は記憶の最深部、作曲家の臨終の瞬間へと引きずり込まれていった。

白いベッドの上で、老いた作曲家が静かに横たわっている。しかし、リヒトが目を見開いたのは、その傍らに立つ人物の姿だった。そこにいたのは、依頼主の老婆ではなかった。涙をこらえ、必死に彼のベッドの柵を握りしめているのは、まだ幼い、十歳にも満たない少年。その顔は、ガラスに映った自分自身の姿のように、リヒトと瓜二つだった。

混乱するリヒトの耳に、作曲家の最後の息遣いが聞こえた。彼は、少年に向かって力の限りの笑顔を向け、そして、途切れ途切れに、あのメロディを口ずさみ始めた。

それは、リヒトが白紙の記憶の中で、唯一、断片的に覚えていた子守唄だった。

雷に打たれたような衝撃が、リヒトの全身を貫いた。依頼主の老婆など、どこにもいなかった。彼に依頼したのは、記憶を取り戻すことを渇望した、彼自身の深層心理だったのだ。この記憶の海は、赤の他人のものではない。事故で失われた、リヒト自身の過去。そして、ベッドに横たわるこの男性は、見ず知らずの作曲家などではない。

彼の、父親だった。

第四章 夜明けの冒険者

封印されていた記憶のダムが決壊し、濁流のように感情がなだれ込んできた。公園での交通事故。母を庇って、トラックの前に飛び出した父の姿。病院の白い天井。そして、最後に父が遺してくれた、この子守唄。リヒトは、父の死のショックから、父と母に関する全ての記憶と、それに伴う感情を自ら封じ込めてしまったのだ。記憶潜航士としての能力は、皮肉にも、その精神的な殻の中から生まれたものだった。

「…あ…ああ…」

声にならない嗚咽が、リヒトの口から漏れた。涙というものを、彼は生まれて初めて流した。それは、悲しみだけの色ではなかった。後悔、感謝、そして何よりも、途方もない愛情の色をしていた。父親が最後に遺したメロディは、誰にも知られていない名曲などではなかった。ただ一人の息子を安心させるためだけに歌われた、世界で最も優しく、そして切ない、愛の歌だった。

どれくらいの時間が経っただろうか。リヒトがゆっくりと目を開けると、潜航装置の冷たい感触が、現実へと彼を引き戻した。

ヘッドギアを外すと、窓の外が白み始めているのが見えた。いつもと同じ、灰色の部屋。だが、リヒトにはもう、そうは見えなかった。東の空から差し込む朝焼けの光は、柔らかな薔薇色と、燃えるような黄金色に輝いていた。壁に、床に、彼自身の手に、確かな「色」が宿っている。

彼はゆっくりと立ち上がり、窓を開けた。ひんやりとした夜明けの空気が、涙で濡れた頬を撫でる。遠くから聞こえる街の目覚めの音。鳥のさえずり。そのすべてが、生まれて初めて聞く音楽のように、鮮やかに、そして愛おしく響いた。

彼は、忘れていた子守唄を、静かに口ずさんだ。それはもう、空っぽの器から漏れる空虚な音ではない。父親から受け取った温かい記憶と感情が込められた、彼自身の歌だった。

リヒトの冒険は、終わった。いや、始まったのだ。これまでは、他人の過去という名の地図なき海を、目的もなく漂流していただげだった。だが今は違う。失われた記憶を取り戻し、自分という存在のコンパスを手に入れた。

彼はもう、記憶の海に沈むだけの男ではない。

デスクの上の端末が、新しい依頼の着信を告げていた。リヒトは、朝焼けに照らされた自分の顔が、少しだけ微笑んでいることに気づいた。彼は受話器を取る。その声には、かつての無感情な響きはなく、確かな温もりが宿っていた。

「はい、メモリーダイバーです。あなたの失くした、大切なものを、一緒に探しに行きましょう」

夜明けの光の中、一人の冒険者が、新たな一歩を踏み出した。

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