夢運びのレクイエム

夢運びのレクイエム

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第一章 時の澱が溜まる街

カイが住む街は、時間の澱(おり)が深い。石畳の隙間には、過ぎ去った日々の欠片が琥珀色の粘液となって滲み出し、夕暮れの空気は、錆びた鉄と甘い後悔の匂いで満たされていた。人々は、樽に詰められた透明な「時間」を少しずつ分け合って生きている。だが、彼らの瞳から夢の光が消え始めて久しい。感情の起伏は緩やかになり、街全体がゆっくりと眠りについているかのようだった。

「どうか、妻の最後の夢を見てやってはくれまいか」

煤けたランプの下で、老人が皺だらけの手を差し出した。その手の上には、彼の半生分の時間が詰まった小さな革袋が置かれている。カイは黙ってそれを受け取ると、懐から古びた砂時計を取り出した。決して砂が落ちることのない、虹色の液体で満たされた「永遠の砂時計」。カイ自身の失われた記憶の、唯一の道標だ。

「代償はご存知ですね?」

カイの声は、乾いた葉が擦れるようにか細い。老人は静かに頷いた。カイは目を閉じ、意識を集中させる。彼の唇から、誰も知らないはずの、忘れ去られた言葉が零れ落ちた。それは歌のようであり、祈りのようでもあった。

言葉を紡ぐたび、カイの頭の中から何かが抜け落ちていく感覚に襲われる。今日の昼食の味、昨日読んだ本の題名、数日前に交わした誰かとの会話。記憶は砂の城のように、音もなく崩れていく。それでも彼は、言葉を紡ぐことをやめなかった。

第二章 失われた言葉の響き

「―――リェルナ、フィリオ、ソムニア」

カイの詠唱が最高潮に達した瞬間、部屋の空気が震えた。老人の背後、何もない空間から、燐光を放つ無数の蝶が舞い上がる。それは、亡き妻が見た夢の残滓。一つ一つの羽ばたきが、愛しい人の面影や、共に過ごした日々の温もりを音もなく語りかけてくる。

一羽の蝶が、ひときゆらりと老人の指先に止まった。

その瞬間、老人の瞳から大粒の涙が溢れ落ちた。感情を失いかけていた彼の心に、愛という名の確かな熱が蘇ったのだ。蝶は光の粒子となって溶け、静寂だけが後に残った。

「ありがとう……ありがとう……」

老人の嗚咽を聞きながら、カイはふらりと壁に手をついた。激しい目眩と、奇妙な喪失感が彼を襲う。老人の家に来るまでの道のりを、思い出せない。自分がなぜここにいるのか、その目的さえも、霧の向こう側にあるように朧げだった。ただ、手のひらに残る革袋の重みだけが、取引の完了を告げている。

街角では、灰色の制服に身を包んだ「時間監査官」たちが、鋭い眼光で人々の時間の消費を監視していた。彼らは最高評議会の尖兵であり、「夢」のような非生産的な時間の浪費を、何よりも忌み嫌っていた。彼らの冷たい視線が、カイの背中に突き刺さるのを感じた。

第三章 虹色の砂時計

自分の過去を知りたかった。なぜこの能力を持つのか。なぜ記憶を失い続けるのか。その答えの鍵が、この「永遠の砂時計」にあるとカイは信じていた。彼は街の裏通りに店を構える、物知りの情報屋を訪ねた。時間の流れから外れた品々を扱う、胡散臭い男だ。

「ほう、エターナル・アワーグラスか。そいつは厄介な代物だぜ」

男は、ルーペ越しに砂時計を覗き込み、にやりと笑った。

「古い伝承によれば、そいつは『夢の貯蔵庫』への道標らしい。世界のどこかに、失われた全ての夢が眠る場所があるとかないとか」

カイが砂時計に指で触れると、ガラスの中の虹色の液体が微かに揺らめいた。その瞬間、彼の脳裏に幻がよぎる。無数の光る蝶が乱舞する巨大な洞窟。そして、悲しみに満ちた瞳でこちらを見つめる、自分と瓜二つの男の顔。

「最近、こいつの輝きが濁っているんだ」

カイが呟くと、情報屋は窓の外に目をやった。

「世界の時間が淀んでいるのさ。夢が失われれば、人々は未来を望まなくなる。未来への渇望がなければ、時間は流れを失い、ただ澱のように溜まって腐っていくだけだ」

その言葉は、カイの胸に冷たい楔となって打ち込まれた。

第四章 夢の貯蔵庫

カイは伝承だけを頼りに、世界の中心、「時の源泉」と呼ばれる大瀑布へと向かった。そこは時間の流れが最も激しく、常人ならば意識を保つことさえできない場所だ。だが、砂時計が彼を守るように淡い光を放ち、道を示していた。

滝の裏側に、カイは巨大な洞窟を発見した。情報屋の言った通り、「夢の貯蔵庫」だ。壁一面に埋め込まれたガラスの繭の中で、捕らえられた夢が青白い光を放っている。しかし、その光景はカイが幻で見たような幻想的なものではなく、まるで標本のように、命なく陳列されているだけだった。

「ようやく来たか、記憶なき異分子よ」

洞窟の奥から、荘厳な声が響いた。そこに立っていたのは、最高評議会の議長。彼の傍らには、夢の光をエネルギーに変換する巨大な機械が不気味な唸りを上げていた。

「世界の時間は有限だ。我々は、非生産的な夢を燃料とし、より効率的な未来を創造しているのだ」

議長は傲然と言い放った。

「人々から感情を奪い、停滞した世界を作ることがか?」

「秩序のためだ。夢は人を惑わせ、時間を無駄に消費させる。お前のように、過去の残滓を呼び覚ます能力など、世界の理を乱す害悪でしかない」

監査官たちがカイを取り囲む。逃げ場はなかった。追い詰められたカイの脳裏に、あの幻で見た、悲しげな男の顔が再び浮かんだ。その瞳が、何かを訴えかけている。

第五章 未来からの呼び声

絶望的な状況の中、カイは抗うように両手を広げた。彼自身にも理由はわからなかった。ただ、体の奥底から湧き上がる衝動に従い、彼が知る限り最も古く、最も強力な「失われた言葉」を紡ぎ始めた。それは、この世界の誰にも理解できない、異邦の響きを持つ旋律だった。

詠唱が洞窟に響き渡った瞬間、世界が震えた。壁面のガラスの繭が一斉に共鳴し、甲高い音を立てて砕け散る。機械は火花を散らして停止し、解放された何億という夢の蝶が、光の嵐となって洞窟を満たした。

「馬鹿な……貯蔵庫の制御が……!」

議長の驚愕の声を背に、カイは意識を失いかけた。失われる記憶の奔流が、彼の自我を洗い流していく。その最後の瞬間に、彼は見た。荒廃し、灰色に染まった未来の世界。すべての人々が夢も感情も失い、ただ生きるだけの抜け殻となっている光景。そして、その中でただ一人、涙を流す年老いた自分がいた。未来の彼は、この「夢の貯蔵庫」のシステムに密かに介入し、夢を未来へ運ぶのではなく、過去へと再注入するための装置へと作り変えていたのだ。

『思い出せ……』

未来の自分の声が、魂に直接響く。

『お前は、夢を運ぶ者。この世界を救うために……』

その言葉を最後に、カイの意識は途絶えた。

第六章 夢を運ぶ者

カイが目を覚ました時、彼は洞窟の入り口に一人で立っていた。なぜここにいるのか、何があったのか、何も思い出せない。ただ、空を見上げると、夜空を埋め尽くすほどの光る蝶が、世界中へと散っていくのが見えた。その光景は、なぜかひどく懐かしく、胸が締め付けられるようだった。

手の中には、かつてないほど澄んだ虹色の輝きを放つ「永遠の砂時計」が握られていた。

彼の頭の中から、最後の、そして最も重要な記憶が消えていく。自分がこの世界の人間ではないという事実。夢を喰われ、滅びゆく別の世界から、最後の希望として過去へと送り込まれた存在であるという起源。彼の使命に関する、すべての記憶が。

記憶を失った彼は、自分が誰なのかも、どこから来たのかも、もうわからない。

しかし、彼の魂の最も深い場所には、一つの確かな衝動だけが残されていた。

「夢を、人々のもとへ届けなければならない」

その揺るぎない使命感だけを胸に、カイは再び歩き出す。失われた言葉を紡ぎ、自らの記憶と引き換えに、誰かの心に小さな光を灯すために。

空を舞う夢の蝶が、街に降り注ぐ。眠っていた赤ん坊が笑い、愛を忘れた恋人たちがそっと手を取り合う。世界の時間が、再び微かに、しかし確かに未来へと流れ始めた。

彼は忘れてしまっただろう。自分が何者であるかを。だが、世界は決して忘れない。記憶を失いながら、永遠に夢を運び続ける、名もなき救世主の物語を。

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