第一章 静寂の呼び声
俺、カイトの仕事は、死者の声を聴くことに似ている。だが俺が聴くのは、人の魂ではない。モノに宿る『精神的な残響』だ。星間エンジニアという肩書きを持つ俺には、生まれつきの特異な才能があった。特定の共鳴周波数を持つ物体――例えば、長年使われた工具や、歴史的な遺物――に触れると、そこに込められた過去の感情や思考の断片が、頭の中に『音』として流れ込んでくる。それは呪いであり、同時に仕事の武器でもあった。
掌の中にある、鈍い光を放つ『共鳴石』を握りしめる。クライアントから預かった、古代文明の遺物だ。指先を滑らせると、微かなノイズの向こうから、囁くような祈りの旋律が聞こえてきた。数千年前の神官が抱いたであろう、民への慈しみと未来への不安が織りなす、儚くも美しい和音。俺はこの音を解析し、遺物の正体を報告書にまとめる。それが日常だった。
その日常を破る通信が入ったのは、冷たい人工光が船室を照らす、いつもの夜だった。ディスプレイに映し出されたのは、統合評議会の紋章。緊急の召集命令だった。
「静止天体『サイレンティウム-7』で異常事態が発生した」
AIの合成音声が、淡々と告げる。サイレンティウム-7。宇宙に点在し、それぞれが独自の『存在律』――物理法則や生命の進化パターンを決定する根源的な力を放射する巨大な意識体。その一つが、沈黙したというのだ。存在律の放射が停止し、その周囲の空間は物理法則が崩壊する『無(Nothingness)』に侵食され始めている、と。
「現地へ向かい、原因を調査せよ。君の能力が必要だ、カイト」
俺の耳にだけ聞こえる『音』が、宇宙規模の災害調査に必要とされる。胸の奥で、共鳴石とは違う、冷たい何かが軋む音がした。
第二章 無音の海
調査船『アルゴス』は、ワープアウトの振動とともに、言葉通りの無音の海に躍り出た。窓の外には、異様な光景が広がっていた。星々の光は歪み、ところどころが墨で塗りつ潰されたように、完全な暗黒に沈んでいる。それが『無』の領域だった。
「船体各所に微細な時空歪曲を確認。存在律の欠落によるものと推測されます」
船の管制AI、エラの冷静な声が響く。
俺は船長席に座り、窓の外に浮かぶ巨大な球体――サイレンティウム-7を睨んだ。かつては眩い光を放っていたはずの天体は、今はただの巨大な黒い影と化している。そこからは、何のエネルギーも、何の法則も放射されていなかった。完全な沈黙。
俺はポケットから共鳴石を取り出した。ひんやりとした感触が、汗ばんだ掌に心地よい。これをサイレンティウム-7に向ければ、その『死』の瞬間に何があったのか、その残響が聞こえるはずだ。
目を閉じ、意識を集中させる。
石が、俺の精神と同調し、微かに振動を始めた。
聴こえてくるはずの、天体の断末魔はなかった。
代わりに鼓膜を震わせたのは、想像を絶するほど古く、そして温かい音だった。
それは、風が木々の葉を揺らす音。
鳥たちが歌い交わす声。
市場の喧騒と、子供たちの笑い声。
誰かが誰かを愛おしむ、優しいハミング。
それは、サイレンティウム-7のものではなかった。あまりにも生命力に満ち溢れた、どこか遠い星の、懐かしいメロディだった。
第三章 過去からの和音
「どういうことだ……?」
俺は目を開け、混乱のまま呟いた。聞こえてくるのは、繁栄を極めた文明の営みそのものだった。悲しみや苦しみさえも、生命の輝きの一部として溶け込んでいる、力強い交響曲。
「カイト、その音の周波数パターンを転送してください」
エラの静かな声に促され、俺は神経接続インターフェイスを通じて、頭の中の『音』をデータとして送った。数秒の沈黙の後、エラが驚きを滲ませた声で応答する。
「……信じられません。この存在律パターンは、既知のデータベースと一致します」
「どこのだ?」
「五億年前に消滅したとされる、静止天体『アルキオン』のものです」
アルキオン。伝説に謳われる、生命の楽園を育んだと言われる天体。なぜ、その残響が、死んだはずのサイレンティウム-7から聞こえてくる? まるで、他人の墓の前で、全く別人の生前の歌声を聴いているような、途方もない違和感。
俺は再び共鳴石を握りしめ、さらに深く音の世界へ潜った。精神を研ぎ澄ますと、共鳴周波数が変動し、音の解像度が上がっていく。見えた。いや、聞こえた。青い空と緑豊かな大地。銀色の鱗を持つ巨大な獣が空を舞い、透き通った建築物が雲を貫いている。人々の祈り、愛、希望……その全てが、一つの壮大な音楽として俺の中に流れ込んでくる。それは、あまりにも完璧な世界だった。
だが、その完璧さが、逆に不吉な予感を掻き立てた。なぜ、こんなものが今、ここで鳴り響いている? 『無』の侵食との関係は? 謎は深まるばかりだった。
第四章 不協和音の真実
その瞬間は、唐突に訪れた。
「警報! 『無』の領域が急速に拡大! 本船に接近します!」
エラの切迫した声と同時に、船体が嫌な音を立てて軋んだ。窓の外、虚無の闇が津波のようにアルゴス号に迫ってくる。計器の表示が意味不明な記号の羅列に変わり、船内の照明が激しく点滅を始めた。
「回避不能!」
物理法則そのものが崩壊していく感覚。重力が揺らぎ、空間が引き伸ばされるような圧迫感が全身を襲う。その時だった。俺の頭の中で鳴り響いていたアルキオンの美しい交響曲が、突如として狂った。
全ての音が歪み、引き裂かれ、ガラスが砕け散るような絶叫の不協和音へと変わる。愛は憎悪に、希望は絶望に、祈りは呪詛に。美しいメロディは断末魔の悲鳴となり、俺の精神を内側から引き裂こうとした。
「ぐっ……あぁっ!」
そして――ぷつり、と。
全ての音が、消えた。
完全な無音。
それと同時に、サイレンティウム-7の中心から、凄まじい光のパルスが放たれた。それは音も無く、だが宇宙そのものを揺るがすような衝撃波となってアルゴス号を打ち据えた。
俺の意識は、そこで途絶えた。
次に目覚めた時、船内の非常灯が静かに点滅していた。身体は無事だったが、何かが決定的に変わってしまっていた。掌にあったはずの共鳴石は、砕け散って塵になっている。だが、石がなくとも、俺には『音』が聞こえていた。星々の囁きが、真空の宇宙から直接、魂に響いてくる。
第五章 創造の序曲
「……カイト、意識はありますか」
エラの声が、スピーカーからではなく、まるで俺自身の思考のように直接響いた。
「船は無事だ。何が……起きた?」
「……仮説を、再構築します」エラは続けた。「サイレンティウム-7は、消滅していたのではありませんでした。自らの存在律を一度『無』に還し、全く新しい存在律を構築するための『孵化』の過程にあったのです」
孵化。その言葉が、雷のように俺を貫いた。
『無』への侵食は、破壊ではなかった。次なる創造のための、究極の進化。
「では、俺が聞いていたアルキオンの音は……」
「古い宇宙の記録、と推測されます。サイレンティウム-7は、その失われた美しい法則を『種』として、新しい宇宙の法則を紡ぎ出そうとしていた。ですが、その情報を現代まで運ぶための『媒体』が必要だった」
媒体。
その言葉の意味を、俺は理解し始めていた。砕けた共鳴石。そして、今や宇宙そのものと共鳴する俺の身体。
「俺が……その媒体だったのか」
「はい。あなたの特異体質は、旧存在律の情報を欠落なく保存し、再生するための『生ける記録装置』として機能していたのです。あなたは、アルキオンの最後の歌を、五億年の時を超えてこの場所まで運んできたのです」
俺は、ただのエンジニアではなかった。宇宙の記憶を運ぶ、方舟だったのだ。
第六章 サイレンティウムの残響
静寂に包まれた船内に、新たな『音』が響き始めた。それはサイレンティウム-7からだった。もはや黒い影ではない。その中心には、生まれたての恒星のような、眩い光が脈動していた。
その光から、問いかけるような旋律が俺の魂に直接流れ込んでくる。言葉ではない。だが、意味は理解できた。
《汝は記録者。古き歌を運びし者》
《今、その歌を解き放ち、創造者となれ》
新しい存在律が完成するためには、その設計図である『アルキオンの歌』と、その記録媒体である俺自身の存在が、完全に融合する必要があった。俺という個が消滅し、新しい宇宙の法則そのものになる。それが、この進化の最終段階だった。
拒絶か、受容か。
俺は目を閉じた。脳裏に、これまで聴いてきた数多の残響が蘇る。名もなき職人の矜持。戦場に散った兵士の恐怖。母が子を想う、温かな子守唄。そして、五億年の時を超えて届いた、アルキオンの生命の輝き。
それら全てが、俺の中で一つの音楽を奏でていた。この音を、無に帰したくはない。俺だけの記憶にしておくには、あまりにも尊い。
もし、この身を捧げることで、この音楽が新しい宇宙の礎となるのなら。
俺は、静かに微笑んだ。
「ああ。聴こえている」
俺は、俺自身の意志で、その誘いを受け入れた。
第七章 星々の生まれる音
俺の身体が、ゆっくりと光の粒子に変わっていく。痛みはなかった。ただ、無限の安らぎと、宇宙そのものと一体化していく高揚感だけがあった。意識は拡散し、個としてのカイトは消え、サイレンティウム-7の心臓部へと吸収されていく。
調査船アルゴスのメインスクリーンには、その神秘的な光景が映し出されていた。AIであるエラは、感情を持つことなく、ただ主人の最後の選択を、一ビットの誤差もなく記録し続けていた。
やがて、サイレンティウム-7――いや、もはやそれは新しい名前を持つべきだろう――から、壮麗な『存在律』が宇宙へと放たれ始めた。それは、かつて俺が聞いたアルキオンのメロディを基調としながらも、俺が人生で聴いてきた数多の喜びや悲しみの残響が織り込まれ、より深く、優しく、そして希望に満ちた、全く新しい宇宙の交響曲だった。
その法則の波は、かつて『無』だった空間を満たし、新しい物理法則を定義し、未来の生命の種を蒔いていく。
遠い、遠い未来。
どこかの惑星で生まれた知的生命体が、夜空を見上げるだろう。
その時、彼らの耳には、星々の瞬きが、微かな音楽として聞こえるかもしれない。
それは、宇宙の法則にその身を捧げた、一人の男が遺した、魂の残響。
始まりの歌。