クロノスの調律師
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クロノスの調律師

第一章 歪んだ秒針

僕、時枝 トキ(ときえだ とき)の手の中で、猫の時間は蜜のようにとろりと引き伸ばされる。本来なら瞬きほどの間に終わるはずの喉を撫でる行為が、永遠にも似た数時間に変わる。ゴロゴロという柔らかな振動が指先から伝わり、僕のささくれた心をわずかに癒していく。だが、その甘美な時間の代償はあまりに大きい。

「……あ」

我に返った瞬間、窓の外はインクをぶちまけたような夜に沈んでいた。僕が猫と戯れていたのはほんの数秒。しかし、僕自身の時間は、その代償として猛烈な速度で未来へと放り出されたのだ。失われた一日の記憶。ポケットの中の手のひらサイズの装置が、カチ、カチ、と無機質な音を立て、僕のずれた時間感覚を戒めるように冷たく光る。

これが僕の能力であり、呪いだ。他者の時間を借り受け、そのぶん自分の時間を差し出す。この世界では誰もが不規則な太陽のリズムに翻弄されているが、僕の歪みはそれとは比較にならないほど個人的で、そして孤独だった。

街に出れば、人々は「時間震」の予報に一喜一憂している。太陽がくしゃみをするように活動を強めれば、一時間が数分に圧縮され、人々は息せき切って街を駆け抜ける。逆に活動が停滞すれば、バスを待つ数分が数時間に感じられ、誰もがうんざりした顔で空を睨む。そんな日常の中で、僕だけが、この世界の時間の流れそのものが、巨大な嘘の上に成り立っていることを知っていた。

僕の左手首にはめられた『量子共鳴装置』。それが世界で唯一、絶対的な秒を刻み続ける。僕の心臓の音よりも、僕にとっては確かな存在の証明だった。

第二章 時間震の呼び声

最近、時間震の規模が常軌を逸し始めていた。昨日などは、昼下がりの商店街を歩いていたはずが、気づけば夕暮れのオフィス街に立っていた。景色が溶け合い、人々の悲鳴が引き伸ばされたテープのように聞こえる。まるで世界が悲鳴を上げているかのようだ。

そんなある日、古びた天文台の主と名乗る老婆、アオイが僕の前に現れた。皺だらけの指先は震えていたが、その瞳の奥には、錆びついた望遠鏡のレンズのような、揺るぎない光が宿っていた。

「時枝トキ君だね」

彼女は僕の量子共鳴装置を一瞥し、すべてを理解したように頷いた。

「君のその力が必要だ。この世界が、完全に溶けてなくなる前に」

彼女の研究所は、カビと古い紙の匂いがした。壁一面に並ぶ星図と、解読不能な数式。アオイは震える手で一枚の設計図を広げた。そこに描かれていたのは、僕らが毎日見上げている太陽の、信じがたい内部構造だった。

「太陽は、我々が創り出した人工天体……巨大な時間調整装置だ。そして今、その心臓部が壊れかけている」

彼女の言葉は、僕の孤独な世界に、初めて差し込んだ一筋の光のようでもあり、絶望を告げる雷鳴のようでもあった。

第三章 人工太陽の罪

アオイは語った。かつて、人類は時間を完全に制御しようと試みた。『大調律』と名付けられたその時間実験は、しかし、暴走した。太陽の周期を安定させるはずが、逆に不規則な変動を引き起こし、世界の時間を狂わせてしまったのだという。

「実験は失敗した。だが、たった一つだけ、予測不能な『産物』が生まれた」

アオイの視線が、僕を射抜く。

「それが君だ。君は、暴走した時間のエネルギーが一点に集中して生まれた『特異点』。世界の歪みそのものだよ」

彼女の言葉に、僕は息を呑んだ。僕がずっと抱えてきた孤独の正体。それは、僕自身がこの世界のバグだったからだ。

「君の能力は、時間を操作するんじゃない。君の周囲の時間を、あるべき正しい流れに一時的に『調律』する力だ。そして、その装置は…」

彼女が指さした僕の量子共鳴装置。それは、ただのリズムキーパーではなかった。

「太陽の核心部と共鳴し、その制御を司るための、たった一つの『鍵』なんだよ」

カチ、カチ、と鳴り続ける装置の音が、まるで僕自身の心臓の鼓動のように聞こえ始めた。それは僕をこの世界に繋ぎとめる錨であり、同時に、僕をこの世界の根源へと誘う羅針盤でもあったのだ。

第四章 世界が溶ける日

決断の時は、あまりにも突然やってきた。

観測史上最大級の時間震が、世界を襲った。空が赤と青に引き裂かれ、ビルが飴のようにぐにゃりと曲がる。遠くから聞こえるサイレンの音は、途切れ途切れの不協和音となって鼓膜を揺さぶった。人々は逃げ惑うことすらできず、引き伸ばされた時間の中でゆっくりと絶望に染まっていく。

「もう時間がない!」

アオイの叫びが、研究所に響いた。

「トキ君、君にしかできない! 太陽の核心へ行って、時間を再調律するんだ!」

僕は窓の外に広がる、シュールレアリスムの絵画のような光景を見つめていた。僕が愛した猫、いつも挨拶を交わすパン屋のおばさん、僕が守りたいと思った、ささやかな日常のすべてが溶けていく。

迷いはなかった。

「どうすればいい?」

僕は量子共鳴装置を強く握りしめた。冷たい金属の感触が、僕に覚悟をくれる。

「君自身の時間を、極限まで圧縮しろ。君の意識を、光よりも速く、太陽の核心へと飛ばすんだ。それは…君という存在を燃やし尽くす行為になるかもしれない」

僕は静かに頷いた。

そして、僕の人生のすべてを賭けて、僕自身の時間を一瞬へと圧縮した。

第五章 ループの円環

視界が白く染まり、あらゆる音が消えた。僕の意識は肉体を離れ、純粋な光の粒子となって時空を駆け上がっていく。時間の流れが存在しない、絶対的な静寂の世界。それが、人工太陽の核心だった。

そこは、情報の海だった。過去、現在、未来、あらゆる可能性が光の糸となって絡み合い、巨大なタペストリーを織りなしている。僕はその中心で、この時間変動を引き起こしている『歪み』の根源を見た。

それは、未来からのメッセージだった。

『――世界を救え』

『――太陽の核心へ行け』

『――過去の自分を導け』

それは、未来の僕が送った情報だった。この時間震によって崩壊した未来から、過去をやり直させるために。僕をここに導くために。しかし、その強大な情報エネルギーそのものが、この繊細な時間調整装置に過負荷をかけ、世界を崩壊させる時間震を引き起こしていたのだ。

世界を救おうとする行為が、世界を危機に陥れていた。

僕を救おうとする未来の僕が、僕をこの絶望的な場所に追い込んだ。

始まりも終わりもない、完璧な円環。メビウスの輪のように、僕の運命はねじれ、繋がっていた。

第六章 永遠の調律者

ああ、そうか。

僕は理解した。このループを断ち切ることはできない。僕がここで調律を止めれば、未来は確実に崩壊する。未来の僕が生まれなければ、僕を導くメッセージも送られず、僕はここに辿り着けない。

僕にできることは、たった一つ。

このループを、受け入れること。

未来の僕がそうしたように、僕もまた、この情報の海から『情報』を過去へと送る。それは、未来の誰かを救うためであり、同時に、過去の自分自身をこの絶望的な使命へと導くための、呪いにも似た祝福だった。

僕は最後の力を振り絞り、世界の時間を安定させるための『調律』を行った。僕の意識は無数の光の粒子に分解され、太陽のシステムそのものに溶け込んでいく。僕は時枝トキという個人ではなくなる。僕は、この世界の時間を永遠に支え続ける、名もなき概念となるのだ。

さようなら、僕が愛した世界。

さようなら、僕。

意識が薄れていく中、最後に見たのは、穏やかな日差しに照らされた、どこかの街の風景だった。

第七章 空に響く心臓

狂ったように揺れていた世界の時間は、ぴたりと、その揺らぎを止めた。空はどこまでも青く澄み渡り、太陽は優しく、そして規則正しく世界を照らしている。人々は何事もなかったかのように日常へと戻り、時枝トキという一人の青年がこの世界に存在したことなど、誰の記憶にも残らなかった。

古い天文台で、アオイは空を見上げていた。彼女の手の中にあった量子共鳴装置から、カチ、カチ、という音が消え、ただの冷たい金属塊になったのを、彼女だけが知っていた。老婆の皺だらけの頬を、一筋の涙が静かに伝った。

世界は救われた。ただ、その代償を知る者はもういない。

しかし、時折、風のない晴れた日に、空に耳を澄ませた子供たちが、不思議そうに首を傾げることがあった。

「ねえ、ママ。お日さまの中から、時々、カチ、カチって音がするよ。なんだか、誰かの心臓の音みたい」

その音は、誰にも届かない。けれど、確かにそこに在り続けている。永遠のループの中で世界を支える、一人の少年の、孤独で優しい鼓動の音だった。

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