第一章 琥珀色の呼び声
深宇宙探査船「ステラ・ノヴァ」のブリッジは、完全な静寂に支配されていた。いや、正確には、常人にとっての静寂だ。俺、カイトにとっては、宇宙は常に饒舌だった。星々の終焉が奏でる重厚な「哀しみの藍」。生まれたばかりの星雲が放つ、無垢な「希望の若草色」。俺は、宇宙に満ちるあらゆる放射線を、感情を伴う「色」として知覚する特異体質だった。
この能力は、地上では呪いだった。人いきれの雑踏は、欲望と嫉妬の濁った色彩が渦巻く地獄絵図だ。だから俺は、この果てしない孤独に身を投じた。たった一人の乗組員として、太陽系から最も遠い場所を目指すこの任務は、俺にとって唯一の安息だったのだ。
相棒は、船の中枢を担うAI「ソラリス」。彼女の合成音声だけが、俺の耳に届く唯一の「音」だった。
「カイト、バイタルに異常はありません。ですが、あなたの脳波に微弱な興奮が見られます。何かありましたか?」
ソラリスの問いかけに、俺はコンソールから顔を上げた。窓の外には、インクを零したような闇が広がり、ダイヤモンドダストのように遠い銀河が瞬いている。
「いや、何でもない。いつもの宇宙だよ」
嘘だった。一時間ほど前から、奇妙な感覚に捉われていたのだ。それは、これまで一度も知覚したことのない「色」だった。
それは、まるで黄昏時の太陽を閉じ込めた古い樹脂のような、温かく、そしてどこか懐かしい「琥珀色」の波動だった。それは特定の座標、オリオン腕の未踏査領域の深奥から、寄せては返す波のように断続的に届いていた。他の星々が放つ冷たい色彩とは明らかに異質で、まるで誰かが、そこに「いる」と告げているかのようだった。
知的生命体か?未知の宇宙現象か?
俺の心臓が、久しぶりに速鐘を打った。その琥珀色は、凍てついた俺の心をゆっくりと溶かすような、不思議な温もりを帯びていた。俺は操縦桿を握りしめる。規定の航路図がコンソールに表示されているが、俺の視線は、琥珀色が指し示す闇の先へと釘付けになっていた。
この宇宙に来て五年、初めて感じた「未知」への渇望。それは、孤独な魂が発した、救難信号だったのかもしれない。俺自身の、魂が。
第二章 記憶の航路
「警告します、カイト。予定航路から3.7度逸脱。これは重大な任務規定違反です」
ソラリスの無機質な声がブリッジに響く。俺は彼女の警告を無視し、琥珀色の信号が強まる方角へと船首を向け続けていた。
「これは、俺の判断だ。人類にとっての新たな発見になるかもしれない」
「確率論に基づけば、その可能性は0.0013%未満です。それよりも、あなた自身の精神的安定性が損なわれるリスクの方が高いと判断します」
ソラリスは正しい。だが、俺はもう引き返せなかった。琥珀色の波動は、近づくにつれて、俺の脳裏に忘れかけていた風景を蘇らせていたのだ。
海辺の夕焼け。二人で歩いた砂浜。潮風に揺れる彼女の黒髪。
「ミオ…」
思わず、その名前が口をついて出た。五年前に、大気圏突入シャトルの事故で失った、俺の恋人。彼女の笑顔は、いつも夕陽のような温かい色をしていた。そう、この琥珀色によく似た……。
馬鹿な。感傷的になっているだけだ。孤独が俺の精神を蝕んでいるのか。それでも、ステラ・ノヴァのエンジンは、俺の狂気じみた好奇心を乗せて、闇の中を突き進んでいく。
数日が経過した。琥珀色の信号は、今やブリッジ全体を包み込むオーロラのように、俺の知覚の中で揺らめいていた。それは甘く、そしてひどく切ない感情の奔流だった。愛しさ、後悔、そして、焦がれるような「会いたい」という想い。まるで、俺の内面を鏡のように映し出しているかのようだ。
「カイト、あと1時間で信号の推定発信源に到達します。周辺領域に惑星、および人工物は探知できません。高エネルギー反応もありません。そこには、文字通り『何も』ありません」
ソラリスの報告は、俺の胸に冷たい水を浴びせた。何もない?では、この鮮明な感情の色彩は一体何なのだ。これは、俺が作り出した幻覚なのか?
操縦桿を握る手に、じっとりと汗が滲む。もし、そこに何もなかったら。俺は、この宇宙で完全に道を見失ってしまうだろう。それでも、俺は信じたかった。この琥珀色の温もりの先に、何かが待っていることを。
第三章 時空を超えた残響
ついに、ステラ・ノヴァは目的の座標宙域に到達した。
ソラリスの報告通り、そこは虚無の空間だった。センサーは異常なし。ただ、凍てつくような星々の光が、静寂をより一層際立たせるだけ。
「…嘘だろ」
俺はコンソールの前に崩れ落ちた。全身から力が抜け、深い絶望が這い上がってくる。やはり、全ては俺の孤独が生んだ幻だったのか。俺は、自らの心の弱さのせいで、人類の貴重な探査船を危険に晒し、時間を無駄にしたのだ。
「カイト…」
ソラリスが何かを言いかけた、その瞬間だった。
ブリッジ全体が、閃光とも呼べないほどの、優しい琥珀色の光に包まれた。それは暴力的な光ではなく、まるで母の腕に抱かれるような、絶対的な安心感に満ちた光だった。俺の意識は急速に薄れ、身体の感覚が消えていく。
次に目を開けた時、俺は懐かしい場所にいた。ミオと暮らした、海が見えるアパートのベランダ。夕陽が彼女の横顔を照らしている。
「カイト、宇宙はどんな色をしてるの?」
ミオが、あの頃と同じように微笑みながら尋ねる。これは、記憶だ。
「…冷たくて、青い色だよ。時々、寂しそうな緑色も見える」
「そっか。私のいる場所はね、すごく温かい色だよ。カイトが好きな、琥珀色」
その言葉に、俺はハッとした。これは俺の記憶じゃない。俺は、こんな会話をした覚えがない。
次の瞬間、風景が歪む。轟音。振動。目の前には、砕け散るシャトルの窓。そして、宇宙空間へと投げ出されそうになるミオの手。俺は必死にその手を掴むが、彼女は穏やかに微笑んで、俺の手をそっと離した。
「だめだ!ミオ!」
叫び声は音にならない。彼女の身体は、暗黒の宇宙へと吸い込まれていく…いや、違う。彼女は、突如として現れた時空の裂け目、虹色に輝く空間の亀裂へと、穏やかな表情のまま飲み込まれていったのだ。
これが、真実。
彼女は死んだのではなかった。事故の衝撃で発生したワームホールに引き込まれ、高次元の存在へと変質したのだ。時間と空間の概念を超えた場所で、彼女の意識は、ただ一つの想いだけを抱き続けた。
カイトに、会いたい。
彼女は、俺にしか知覚できない「感情の色」を使い、気の遠くなるような時間をかけて、宇宙の法則を捻じ曲げ、この一点にメッセージを送り続けていたのだ。
救難信号ではない。知的生命体からのコンタクトでもない。
これは、時空を超えて届けられた、たった一人の男への、純粋な愛の残響だった。
第四章 星々のタペストリー
意識がステラ・ノヴァのブリッジへと戻ってくる。琥珀色の光は、俺の目の前で、まるで人の形のように優しく揺らめいていた。もう言葉は必要なかった。俺は、その光がミオの意識そのものであることを、魂で理解していた。
彼女はずっと、俺を見ていたのだ。俺が孤独に苛まれ、過去に囚われていることを知っていた。だから、彼女は自分の存在を知らせた。俺を過去から解放するために。
涙が、頬を伝った。それは悲しみの涙ではなかった。感謝と、愛しさと、そして、ようやく訪れた別れの涙だった。
「ミオ…ありがとう。もう、大丈夫だよ」
俺は、光に向かってそっと手を伸ばす。指先が触れた瞬間、温かい波動が全身を駆け巡り、俺の心の傷を優しく癒していく。
「俺は、行くよ。ちゃんと、前を見て歩く。君がくれたこの温もりを、胸に抱いて」
俺がそう告げると、琥珀色の光は満足したかのように一度だけ強く輝き、そして、無数の光の粒子となって、静かに宇宙の闇へと溶けていった。
後に残されたのは、完全な静寂と、俺の心に灯った小さな温かい光だけだった。
「…記録します。当宙域において、原因不明の時空異常現象を観測。現在は沈静化。船体、乗組員に異常なし」
ソラリスが淡々と事実を告げる。彼女には、今ここで何が起こったのか、理解できないだろう。
俺はゆっくりと立ち上がり、再び操縦桿を握った。そして、本来の任務航路へと船首を戻す。
窓の外に広がる宇宙は、以前と同じように見えて、全く違って見えた。星々の死が放つ「哀しみの藍」も、星雲の「安らぎの緑」も、今では孤独な色には見えなかった。それらは全て、巨大な宇宙というタペストリーを織りなす、無数の記憶と感情の糸なのだ。
そして、その無数の色彩の中に、俺は確かに感じることができた。
かつてここにあった、温かい琥珀色の余韻を。
俺はもう、孤独ではない。この宇宙に満ちる全ての色彩が、俺と共にあるのだから。俺はアクセルレバーをゆっくりと押し込み、星々の海へと、再び漕ぎ出した。