第一章 嘘を聴く男と沈黙の遺物
リクは、嘘を聴く。
それは比喩ではない。誰かが彼の前で真実と異なる言葉を紡ぐたび、皮膚の内側を無数の冷たい針で突き刺されるような、鋭い物理的な痛みが全身を駆け巡るのだ。この呪われた体質のせいで、彼は人との深い関わりを避け、辺境の宇宙ステーション「ヘリックス・セブン」の片隅で、遺物鑑定士として息を潜めるように生きていた。古びた機械や、何百年も宇宙を漂流した船の残骸。それらは決して嘘をつかなかった。沈黙こそが、彼にとって唯一の安息だった。
鑑定室の無機質な白い壁に、ステーションの外に広がる星々の光がぼんやりと反射している。リクは防塵グローブを嵌めた手で、目の前の物体を慎重に持ち上げた。銀河連邦政府から直々に依頼された、曰く付きの遺物。それは、白鳥貝にも似た虹色の光沢を放つ、手のひらサイズのオルゴールだった。三百年前に未踏宙域で消息を絶った伝説の探査船、「シレネッタ号」から回収された唯一の遺品だという。
「鑑定を頼む。あらゆる角度から、このオルゴールが内包する情報を引き出してほしい」
依頼に来た役人の言葉は、針の痛みの連続だった。彼らは何かを隠している。だが、それはいつものことだ。リクは感情を排し、仕事としてそれを受け入れた。
そっとオルゴールの蓋を開ける。だが、音は鳴らなかった。代わりに、彼の全身を奇妙な感覚が貫いた。それは、いつもの鋭い痛みとは全く異なっていた。まるで、凍てついた心に温かい雫が一つ、また一つと落ちてくるような、甘く、そしてどうしようもなく切ない感覚。痛みではない。しかし、それは間違いなく「嘘」の気配を帯びていた。純粋な真実ではない、何かが歪められ、捻じ曲げられた情報の残響。
初めて感じる種類の「不協和音」だった。彼の知る「嘘」の定義を根底から揺るがすような、不可解で、そしてなぜか心を惹きつける気配。リクは息を呑んだ。この小さな箱は、ただの遺物ではない。三百年の沈黙の彼方から、誰も知らない「物語」を届けに来たのだ。彼の呪われた能力が、初めて未知への好奇心に変わった瞬間だった。
第二章 シレネッタ号の航海日誌
オルゴールの解析は困難を極めた。内部構造は地球のどの文明のものとも異なり、動力源すら不明だった。リクは数日をかけて非破壊スキャンを繰り返し、ようやく筐体の内側に隠されたマイクロチップの存在を突き止めた。それは、シレネッタ号の船長、エララ・ノヴァが個人的に記録していた航海日誌だった。
リクは、鑑定室に篭もり、日誌のデータを復元していく。ホログラムに浮かび上がるエララの横顔は、知的で、強い意志を秘めた瞳をしていた。彼女の言葉は、嘘の痛みを伴わない、澄んだ真実の響きを持っていた。
『航海日734日目。我々はついに発見した。座標デルタ・ナインに存在する、未知の知的生命体を。我々はそれを「歌う星」と名付けた。それは物理的な実体を持たず、我々の精神に直接、美しい旋律のような思念を送り込んでくる』
日誌は、驚くべき発見の記録だった。エララと乗組員たちは、「歌う星」との交信に成功していたのだ。それは敵意のない、純粋な好奇心に満ちた生命体であり、彼らの「歌」は聞く者の心を癒し、幸福感で満たす力があったという。
しかし、読み進めるうちに、リクの眉間に皺が寄った。彼の体には、微細だが確かな痛みが走り始めていた。日誌の内容と、彼が事前に閲覧を許可された銀河連邦の公式記録との間に、無視できない齟齬があったからだ。公式記録では「シレネッタ号は原因不明の事故により、乗員全員と共に喪失」と簡潔に記されているだけ。「歌う星」の存在など、一言も触れられていない。
「調査の進捗を伺いたい」
背後からかけられた声に、リクはびくりと肩を震わせた。振り返ると、セナと名乗る連邦のエージェントが立っていた。今回の依頼における連邦側の連絡員であり、事実上の監視役だ。彼女は、静かな眼差しでリクとホログラムの日誌を交互に見つめた。
「連邦は何かを隠している。この日誌の存在も、歌う星のことも」
リクは挑むように言った。セナの言葉から嘘の痛みを探ろうと、全神経を集中させる。
「私たちは、ただ真実が知りたいだけです」
セナは静かに答えた。不思議なことに、彼女の言葉からはあの忌まわしい針の痛みが一切感じられなかった。あまりにも純粋な響きに、リクは戸惑いを隠せない。彼は長年、嘘がつけない人間など存在しないと知っていた。それなのに、彼女の存在は、リクが築き上げてきた世界の法則を静かに乱していく。
リクはセナの監視の下、さらに解析を進めた。オルゴールに秘められた最後の記録。それは、音声やテキストではなく、深層意識下に作用するタイプの情景データだった。これを再生すれば、シレネッタ号に何が起きたのか、真実がわかるかもしれない。だが同時に、あの甘く切ない「嘘」の感覚が、嵐のように自分を飲み込むだろうという予感があった。リクは覚悟を決め、再生プロトコルを起動した。
第三章 歌う星の真実
リクの意識は、鑑定室の冷たい空気から引き剥がされ、温かい光と音楽に満ちた空間へと飛ばされた。目の前に広がるのは、シレネッタ号のブリッジ。しかし、窓の外に広がるのは漆黒の宇宙ではなく、乗組員それぞれの故郷の風景だった。緑豊かな渓谷、青い海、夕日に染まる摩天楼。誰もが幸福な笑みを浮かべ、家族や恋人と語らっている。だが、その光景はどこか現実感を欠き、砂糖菓子のように甘く、そして脆い。
これが「歌う星」の力。悪意のない、純粋な善意の牢獄。
「歌う星」は、嘘や偽りという概念を持たなかった。彼らにとって、他者の思考や感情はすべてが「真実」であり、それを純粋に増幅させ、現実化させる鏡のような存在だったのだ。シレネッタ号の乗組員たちが抱いた望郷の念や愛する人への想いを、「歌う星」は彼らのための「真実」として叶え、永遠に続く幸福な夢の中に閉じ込めてしまった。
その中で、エララ船長だけが正気を保っていた。彼女のホログラムが、悲痛な表情で虚空を見つめている。
「このままでは、みんな精神が壊死してしまう……。夢から覚まさなければ」
彼女は、ある決断を下す。この純粋な生命体に、生まれて初めての「嘘」を教えることを。
「私たちはもう、十分に幸せです。あなたのおかげで、心は満たされました。だから、どうか私たちを……故郷へ帰してください」
エララがそう告げた瞬間、世界が軋みを上げた。リクの全身を、あの甘く切ない感覚が奔流となって襲う。それは、乗組員を救いたいという愛と、彼らを欺かなければならないという自己犠牲から生まれた、「優しすぎる嘘」の波動だった。
「嘘」を理解できない「歌う星」は、エララの言葉に含まれる矛盾――幸福でありながら去りたいという不協和音――を処理できずに暴走を始めた。美しい世界に亀裂が走り、シレネッタ号は因果の綻びた時空の狭間へと飲み込まれていく。オルゴールは、その最後の瞬間に放たれたエララの愛に満ちた「嘘」の響きを、三百年もの間、封じ込めていたのだ。
リクが意識を取り戻すと、セナが心配そうに彼を覗き込んでいた。
「……わかった。全て、わかった」リクは掠れた声で言った。「僕のこの能力は、呪いじゃなかったのかもしれない」
その言葉に、セナは静かに頷いた。
「あなたの体質は、公式には『共鳴症候群』と呼ばれています。そして、あなたは薄々気づいているかもしれないけれど、ただの人間ではない」
セナの言葉は、相変わらず真実の響きだけを伴っていた。
「共鳴者は、『歌う星』のような精神生命体と、初期の宇宙探査で接触した人類との間に生まれた、極めて稀なハイブリッドの子孫です。あなたの能力は、嘘を探知するものではない。世界のあらゆる情報が持つ『真実との不協和音』を感知する、一種の調律器なのです。だから、エララ船長の悪意のない、愛に満ちた嘘は、痛みではなく……温かい別の響きとしてあなたに届いた」
リクは、自分の掌を見つめた。長年、自分を苛んできた痛みの正体。それは、悪意や欺瞞という単純なものではなく、真実からずれてしまった世界の歪みの音だったのだ。
第四章 優しき不協和音
リクは、銀河連邦への報告書を書き上げていた。しかし、それは無味乾燥な事実の羅列ではなかった。彼は鑑定士としてではなく、一人の物語の紡ぎ手として、シレネッタ号の悲劇と、エララ・ノヴァという一人の女性が放った、宇宙で最も優しい嘘について綴った。彼女の犠牲と愛が、三百年の時を超えて、一人の孤独な男の呪いを解いた物語を。
報告書をセナに手渡すと、彼女は静かにそれを受け取った。
「連邦は『歌う星』の存在を公にはしないでしょう。混乱を避けるために。でも、この報告書は……記録として、永久に保管されます。エララ船長の魂は、決して忘れられることはありません」
彼女の言葉は、やはり痛みを伴わなかった。リクは、その事実に安堵している自分に気づく。
数日後、リクはヘリックス・セブンの展望デッキに立っていた。彼の鑑定室から見える景色とは違う、広大な宇宙が眼前に広がっている。世の中は相変わらず嘘と欺瞞に満ちており、彼の身体には絶えずチクチクとした小さな痛みが走っている。だが、その感覚はもはや呪いではなかった。
それは、不器用に生きる人々が奏でる不協和音。完璧ではない世界の、人間らしいざわめき。そして、この無数の痛みの中に、いつかまた、エララの嘘のような、温かく優しい響きが見つかるかもしれない。そう思うと、痛みすらも愛おしく感じられた。彼は初めて、嘘に満ちたこの世界を、ありのままに受け入れることができた。
「何を見ているんですか?」
隣に立ったセナが、淹れたてのコーヒーのカップを差し出した。温かい湯気が、二人の間に立ち上る。
「ただの星ですよ」
リクは微笑んで答えた。それは、半分本当で、半分嘘だった。彼が見ていたのは、星々の間に漂う、無数の物語の気配だったからだ。
不思議なことに、彼のその小さな嘘は、少しも痛まなかった。セナの隣では、世界の不協和音が、なぜか穏やかな音楽のように聞こえる。リクは、熱いコーヒーを一口飲み、遠い宇宙の片隅で今も歌い続けているかもしれない星に、そっと想いを馳せた。