星彩のレクイエム

星彩のレクイエム

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第一章 沈黙のオーブと孤独なレクイエム

宇宙は、沈黙している。少なくとも、常人にとっては。だが、宇宙考古学者である僕、カナタにとって、宇宙は常に夥しい音で満ちていた。生まれつきの共感覚が、光のスペクトルを音階として僕の鼓膜に直接届けるのだ。恒星の黄金色は壮大なパイプオルガンの和音となり、星雲の紫紺はチェロの深く沈むような旋律を奏でる。僕にとって、宇宙を旅することは、壮大な交響曲の海を泳ぐことに等しかった。

しかし、今、僕たちの探査船「ヘリオス」が対峙しているこの天体は、違った。

直径約三百キロ。完全な球体。その表面は、光を呑み込むベルベットのような漆黒に覆われ、いかなる観測機器の波長も、ただ吸い込んで返さない。発見から三ヶ月、物理的には「存在しない」はずのこの天体は、『サイレント・オーブ』と名付けられた。

クルーたちが計器の前に頭を抱えている間も、僕の耳には、そのオーブから音が届いていた。

それは、音と呼ぶにはあまりに悲痛な響きだった。オーブの完全な「黒」は、僕の脳内で、あらゆる音域の悲鳴と嘆きが無限に重なり合った、絶望的なレクイEクイエムとなって鳴り響いていた。それは、宇宙の終焉そのものを弔う歌のようであり、聞いているだけで魂が凍てつき、引き裂かれそうになる。

「カナタ、何か掴めたか?君の『特殊な耳』は、何か言っているかね」

船長のレイノルズが、皮肉とわずかな期待をない交ぜにした声で尋ねる。僕はヘッドセットを外し、しばし現実の静寂に耳を浸した。

「相変わらずです。ただ、悲しい歌が聞こえるだけ……。構造解析には至りません」

「歌、か」レイノルズはため息をつき、僕の報告を信じていないことを隠そうともしなかった。「我々にはただのノイズすら聞こえんのだ。早く物理的なデータを一つでも持ち帰らねば、議会が黙っていない」

僕は黙って頷いた。僕のこの能力は、幼い頃から僕を孤独にしてきた。太陽の光を「うるさい」と感じ、人の肌の色に「不協和音」を聞き、世界から隔絶されていた。そんな僕を救い、この道へと導いてくれたのは、亡き恩師の天文学者、アキラ先生だけだった。「君のその耳は、きっと宇宙の本当の声を聴くためのものなんだよ」と、先生はしわくちゃの笑顔で言った。

その言葉を信じて、僕はここまで来た。そして今、宇宙の果てで、最も孤独で、最も悲しい歌を聴いている。このレクイエムの正体を突き止めること。それが、僕がこの船に乗っている唯一の理由であり、僕の存在意義そのものだと、確信していた。僕は再びヘッドセットを装着し、意識をオーブの深淵へと沈めていった。

第二章 時空に響く音の文法

オーブのレクイエムは、無秩序な悲鳴の集合体ではなかった。解析を始めて数週間、僕はその混沌とした音の洪水の中に、驚くほど精緻な数学的構造が隠されていることに気づき始めていた。それはまるで、バッハのフーガのように、複数の旋律が複雑に絡み合いながら、一つの巨大な主題を形成しているかのようだった。

僕は船のメインコンピュータから独立した自身のターミナルに、その「音」を独自の記譜法で記録し続けた。高音部は素数周期で律動し、中音域はフィボナッチ数列に似たパターンで展開する。そして、全てを支える地の底から響くような重低音は、僕の知らない、しかし明らかに人工的な数学的定数に基づいて振動していた。

「無意味だ。カナタ、君は幻聴に時間を浪費している」

同僚の物理学者、ミーナは僕のディスプレイに映る楽譜のようなデータを見て、冷たく言い放った。「オーブは質量もエネルギーも放出していない。物理法則を無視した存在だ。君の脳が作り出した幻想に、我々が付き合う義理はない」

彼女の言うことは正しかった。物理的な証拠は何一つない。だが、僕の聴覚は、この音が幻想などではないと叫んでいた。これは、僕たちがまだ知らない言語で書かれた、宇宙の叙事詩なのだ。

孤立を深める中、僕は最後の希望を託し、恩師アキラ先生が遺した研究データバンクにアクセスした。先生は晩年、「時空共振理論」という異端の学説に没頭していた。それは、「宇宙の各点は固有の周波数を持っており、特定の音波パターンで時空そのものを共振させることが可能である」という、ほとんどSFの領域に踏み込んだものだった。

その膨大なデータの中に、僕は探し物を見つけた。先生が理論上の「時空を歪ませる周波数」として計算した、一つの数式。その数式が示す音のパターンが、オーブから聞こえるレクイエムの重低音の構造と、完全に一致したのだ。

全身に鳥肌が立った。これは単なる音ではない。時空そのものに干渉する力を持った、超文明のテクノロジーだ。サイレント・オーブの「黒」は、色がないのではない。周囲の時空から、光も時間も、過去も未来も、全てを吸収し続けた結果、生まれた「無の概念色」なのだ。そして、その中心には、時空の特異点が存在するに違いない。

このレクイエムは、その特異点の向こう側から、時空を超えて響いてきている。一体、誰が、何を伝えようとしているのか。僕の心臓は、恐怖と、考古学者としての抑えきれない興奮で激しく高鳴っていた。

第三章 未来からの鎮魂歌

解析は最終段階に入った。恩師の理論を鍵として、僕はレクイエムの全ての旋律を解きほぐし、一つの巨大なメッセージへと再構築することに成功した。それは、暗号というよりは、高度な文明が用いる概念言語のようなもので、僕の共感覚だけが翻訳できる情報パッケージだった。

メッセージの解読が完了した瞬間、僕の意識は激しい奔流に呑み込まれた。

それは、映像であり、感情であり、そして記憶だった。僕は見た。人類が、恩師の「時空共振理論」を完成させ、時空を自在に操る技術を手に入れた、輝かしい未来を。人々は星々を瞬時に渡り、過去の偉人と語らい、神にも等しい力を手にした。

だが、その繁栄は長くは続かなかった。際限なき時空への干渉は、宇宙の構造そのものに、回復不能な亀裂を生じさせた。時間はその連続性を失い、因果律は崩壊し、存在そのものが泡のように消えていく、静かで絶対的な終焉が始まった。

そして、僕は見た。滅びゆく未来の、荒廃した研究室で、一人佇む老人を。深い皺が刻まれたその顔は、紛れもなく、僕自身のものだった。

老いた僕は、最後の力を振り絞り、一つの装置を起動させていた。それがサイレント・オーブの原型だった。それは、未来の全てを犠牲にして作り上げた、時空の墓標。そして、過去の、ただ一人の人間にだけ届くように調整された、警告のタイムカプセル。

オーブのレクイエムは、未来の僕が、自らの共感覚を使い、時空の亀裂を通して過去の僕へと送った、魂の歌だったのだ。それは、人類の過ちに対する鎮魂歌であり、失われた数え切れない生命への慟哭であり、そして何よりも、過去の自分への、悲痛な願いだった。

『カナタ……聞こえるか……。この歌は、私の後悔そのものだ。どうか、過ちの芽を摘んでくれ……。我々が踏み入るべきではなかった領域への扉を、君の手で、永遠に閉ざしてくれ……』

メッセージには、時空共振理論の根本的な欠陥を「証明」するための、精巧に偽装されたデータが含まれていた。これを僕が「発見」し、公表すれば、人類がこの技術に辿り着く道は永久に閉ざされる。輝かしいはずだった未来は、生まれる前に消え去るのだ。

僕は愕然とした。追い求めていた謎の答えは、僕自身の未来からの絶望的な叫びだった。僕は、人類の可能性をその手で葬り去るための、死刑執行人に選ばれてしまったのだ。

第四章 星彩の子守唄

選択の余地はなかった。いや、正確には、選択肢はあった。未来の僕の警告を無視し、人類の無限の可能性を信じる道。しかし、僕の耳には、あのレクイエムがまだ鳴り響いていた。それは理論や可能性といった理屈を超えた、魂の重さを持った音だった。何兆もの死と喪失、そして取り返しのつかない後悔が、その一音一音に凝縮されていた。僕は、未来の僕が味わった絶望を、音として完全に理解してしまった。

僕は、未来の自分から送られてきたデータを使い、一つの論文を書き上げた。「時空共振理論における不可避なパラドックスの証明」。それは、この理論が内包する根本的な欠陥を指摘し、実現不可能であることを論証するものだった。もちろん、それは巧妙な嘘だ。だが、この宇宙で、この嘘を見抜ける者は誰一人としていないだろう。

データを地球の学会に転送し、受理されたことを確認した時、全身から力が抜けていくのを感じた。僕は、一人の英雄を殺し、一つの時代を闇に葬ったのだ。その罪の重さに、吐き気がした。

探査任務は打ち切られ、ヘリオスはサイレント・オーブから離れていった。船室の窓から、遠ざかる漆黒の球体を、僕はただ黙って見つめていた。

その時だった。

あれほど激しく僕の心を苛んでいた、悲痛なレクイエムが、ふっと、静かに消えた。そして、その代わりに、今まで聞いたこともないほど穏やかで、優しく、そして温かいメロディーが、僕の心に流れ込んできた。それはまるで、全てを赦し、労わるような、子守唄だった。

驚いて目を凝らすと、完全な漆黒だったオーブの表面に、信じられない光景が広がっていた。一筋の、微かな虹色の光が走り、そしてゆっくりと、その光はオーブ全体を包み込んでいったのだ。

オーブの黒は、もう絶望の音色ではなかった。それは、全ての悲しみを吸い込み、安らかな眠りへと誘う、夜の静寂の色へと変わっていた。そして、そこに生まれた虹色は、調和の取れた美しい和音を奏でていた。それは、未来からの「ありがとう」という声のように、僕には聞こえた。

誰も、僕がしたことを知らない。僕は英雄ではなく、むしろ人類の夢を奪った犯罪者なのかもしれない。だが、それでよかった。孤独だった僕の共感覚は、初めて、時空を超えて誰かの心に届き、その悲しみに寄り添うことができたのだから。

遠ざかるオーブは、今や宇宙に浮かぶ、小さな虹色の宝石のように輝いていた。その星彩が奏でる優しい子守唄を聴きながら、僕は、この誰にも知られざる犠牲の上に成り立つ、新しい静かな宇宙の音に、そっと耳を澄ませていた。

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