第一章 静寂を揺らす旋律
都市アムネシアは、完璧な静寂に満ちていた。感情の波紋ひとつ立たない、凪いだ湖面のような静けさ。記憶管理局の調律師であるカイにとって、その静寂は秩序そのものであり、自らが守るべき聖域だった。彼の仕事は、市民から定期的に供出される「記憶」を処理し、都市のエネルギー源である『メモリア・コア』へと転送すること。苦痛、悲哀、後悔。そういった不要な記憶を差し出すことで、市民は心の平穏と快適な生活を保障される。カイは、この偉大なシステムを心から信じていた。忘却こそが、人類が手にした最高の救済なのだと。
彼の指先が、光のコンソールの上を滑る。目の前のカプセルには、今日の最後の供出者である老女が静かに横たわっていた。抽出プロセスが開始されると、色とりどりの光の粒子が老女の額から立ち上り、データへと変換されていく。通常、カイが感じるのは、処理される記憶の微かな「残響」だけだ。それは古書のインクの匂いや、遠い雷鳴のような、形のない感覚の断片に過ぎない。システムが正常に機能している証拠だった。
だが、その日は違った。
老女の記憶データがコアへと流れ込む瞬間、カイの鼓膜を、これまで経験したことのないほど鮮明な音が貫いた。それは、澄み切った少女の歌声だった。知らないはずの、しかしどこか懐かしい旋律。システムログのどこにも記録されていない、存在しないはずのゴーストデータ。
「……なんだ、これは?」
カイは思わず声を漏らした。コンソールを叩き、エラーを探すが、システムは完璧な正常を示している。幻聴か? 過労による一瞬の錯覚か? しかし、彼の全身を駆け巡った鳥肌と、胸の奥を締め付けるような切ない感覚は、あまりにも生々しかった。
歌声は一瞬で消え、後に残されたのはいつもの完璧な静寂だけ。だが、カイの世界には、確かに亀裂が入った。静まり返った湖面に投げ込まれた小石のように、その旋律は彼の心にいつまでも消えない波紋を広げ続けていた。アムネシアの完璧な静寂が、初めて不気味なものに感じられた夜だった。
第二章 禁じられたアーカイブ
あの夜以来、カイは歌声の幻聴に取り憑かれていた。仕事に集中しようとしても、ふとした瞬間にあの旋律が脳裏をよぎる。それは次第に、システムへの微かな、しかし確かな疑念へと変わっていった。我々が忘れている記憶は、本当に無に帰しているのだろうか。それとも、どこかでまだ生き続けているのだろうか。
「最近、様子がおかしいぞ、カイ。何かに悩んでいるのか?」
声をかけてきたのは、同僚であり数少ない友人のリアだった。彼女の瞳には、心配の色が浮かんでいる。カイは一瞬ためらったが、思い切ってあの夜の出来事を打ち明けた。
リアの表情がみるみる硬くなる。「それは忘れろ、カイ。システムのノイズだ。深入りするな。忘れることが、この街の幸福なんだから」
彼女の言葉は、カイがこれまで信じてきたアムネシアの教義そのものだった。だが、今の彼には、その言葉がひどく空虚に響いた。幸福とは、与えられるものなのか? 何かを忘れることでしか、得られないものなのか?
リアの忠告は、むしろカイの探求心に火をつけた。彼は自身の調律師としての権限を使い、密かに調査を開始した。通常のログには何も残っていない。ならば、さらに深層へ潜るしかない。都市の中枢、メモリア・コアに隣接する、限られた者しかアクセスを許されない『プライベート・アーカイブ』。そこになら、何か手がかりがあるかもしれない。
深夜、カイは一人、管理センターの深奥へと向かった。幾重にも張り巡らされたセキュリティを、彼は歌声の残響に導かれるように突破していく。まるで、見えざる手が彼を招き入れているかのようだった。アーカイブに近づくにつれて、彼の内で奇妙な感覚が芽生え始める。幼い頃の、陽光に満ちた庭の風景。小さな女の子の手を引いている、自分によく似た少年。それは、彼自身が供出したはずの、とうに失われた記憶の断片だった。
「どうして……こんな記憶が……」
混乱する頭で、彼は最後の隔壁を解除した。重厚な扉が、息を吐くように開かれる。その向こうに広がっていたのは、カイの想像を絶する光景だった。
第三章 創設者の告白
アーカイブの最深部は、聖域と呼ぶにふさわしい場所だった。無数の光の糸が天井から降り注ぎ、中央に浮かぶ巨大な水晶体――メモリア・コアへと集束している。市民から集められた記憶が、青白いエネルギーの川となってコアに流れ込んでいた。だが、カイの目を釘付けにしたのは、その中心でひときอก輝く、黄金色の光の球体だった。
その球体に触れようとした瞬間、彼の背後で静かに声がした。
「ようやく、ここまで来たか。我が息子よ」
振り向くと、そこに立っていたのは都市の創設者にして最高管理者――そして、カイが長年顔を合わせていない父親のホログラムだった。老いたその顔には、深い悲しみと諦観が刻まれている。
「父さん……? これは、一体……」
父親は答えず、静かにコアの中心を指差した。カイが再び視線を向けると、黄金の球体がゆっくりと形を変え、歌を歌う一人の少女の姿になった。カイがずっと追い求めてきた、あの歌声の主だった。彼女の顔立ちは、幼い頃のカイにどこか似ていた。
「彼女は、リナ。お前の妹だ」
父親の言葉は、雷鳴のようにカイの頭を打ち抜いた。「妹……? 僕に、妹など……」
「いたさ。お前が忘れただけだ」創設者は、静かに真実を語り始めた。不治の病で、リナは幼くしてこの世を去った。科学者であった父親は、彼女の死を受け入れられず、その意識と記憶の全てをデータ化し、永遠に保存する方法を編み出した。それこそが、メモリア・コアの原型だった。
「この都市、アムネシアの本当の目的は、エネルギー供給などではない」父親の声は、懺悔のように響いた。「ここは、リナというたった一人の少女の記憶を永遠に保存するための、巨大な墓標なのだ。市民から集められる膨大な記憶は、彼女のデータを維持するための『栄養』でしかない。アムネシア――『忘却』という名のこの都市は、私がリナを忘れないためだけに創り上げた、壮大な矛盾なのだよ」
愕然とするカイに、父親は最後の真実を告げる。妹の死がもたらした耐え難い悲しみに、幼いカイは心を壊しかけた。それを見かねた父親は、カイ自身の願いを聞き入れ、彼からリナに関する全ての記憶を抜き取ったのだ。カイが感じていた空虚感、時折聞こえていた歌声は、彼自身が失った記憶の、悲しい残響だった。
第四章 忘却の向こう側
真実は、カイの世界を根底から破壊した。この都市の平和も、市民の幸福も、全ては父の狂気的な愛と、自分自身の弱さの上に成り立っていた偽りの蜃気楼だった。怒りと絶望で、カイは拳を強く握りしめた。何十億という人々の記憶が、たった一人の少女のために犠牲にされてきたのだ。
「この偽りの平和を維持するか。それとも、コアを破壊し、人々に苦痛に満ちた真実の記憶を返し、この都市を混沌に陥れるか」父親のホログラムは、静かに問いかける。「選ぶのはお前だ、カイ」
カイは、コアの中で歌い続ける妹、リナの姿を見つめた。彼女は、父のエゴによって永遠の孤独という檻に閉じ込められている囚人のように見えた。しかし、同時に、彼女の存在がこの都市の秩序を支えていることも事実だった。システムを破壊すれば、人々は忘れていたはずの憎悪や悲しみを思い出し、アムネシアは瞬く間に崩壊するだろう。
彼は、妹をこの箱庭に閉じ込めていたのは、父だけではないことに気づいた。悲しみから逃げるために記憶を差し出した、自分自身も共犯者なのだ。
カイが葛藤に苛まれていると、リナの記憶データから、最後の残響が流れ込んできた。それは言葉ではなかった。温かい手の感触。陽だまりの匂い。そして、心の奥底に直接響く、切なる願い。
『お兄ちゃん、忘れないで。でも、私のために誰かを傷つけないで』
その想いが、カイの心を決めた。破壊でも、維持でもない。彼が選ぶべきは、第三の道。過去を清算し、未来を人々の手に取り戻すための、唯一の道だった。
第五章 夜明けのレクイエム
カイはコンソールに向かい、震える指でコマンドを打ち込んでいく。彼はシステムの破壊を選ばなかった。かわりに、これまでコアの最深部に封印されていたリナの完全な記憶データを、都市の全エネルギー網を通じて「解放」する道を選んだ。
次の瞬間、アムネシア中にリナの歌声が響き渡った。スピーカーからではない。人々の意識の内に、直接流れ込んできたのだ。それは、一人の少女が生きた短い一生の記録。初めて笑った日の喜び、転んで泣いた日の痛み、そして病の床で兄を想った最後の温もり。
都市の灯りが激しく明滅し、システムが悲鳴を上げる。街はパニックに陥るかと思われた。しかし、人々はただ空を見上げ、立ち尽くしていた。他人の記憶であるはずのリナの想いが、彼ら自身が忘れていた記憶の蓋を、そっと開けたのだ。愛する人を失った悲しみ、夢に破れた悔しさ、それでも誰かを愛した喜び。忘却という麻酔から覚めた魂が、痛みと共に、失っていた人間性を取り戻し始めた瞬間だった。涙を流す者、隣の人と肩を抱き合う者。街は、感情のざわめきで満たされていった。
カイは、自分自身の胸に、ようやく妹の記憶と、それに伴う深い悲しみを抱きしめることができた。それは辛く、苦しい感覚だったが、同時に、失っていた自分の一部が帰ってきたような、温かい感覚でもあった。
夜が明け、アムネシアに新しい光が差し込む。都市の未来は、誰にも分からない。偽りの楽園は終わりを告げ、人々はこれから、痛みと共存しながら自らの足で歩んでいかねばならない。だが、彼らは初めて、自らの意志で未来を選択する権利を得たのだ。
カイの耳には、もうリナの歌声の残響は聞こえなかった。代わりに、街に生まれたばかりの、無数の人々の想いのざわめきが、まるで新しい世界の産声のような、不揃いだが力強い音楽となって響いていた。彼はもうシステムの調律師ではない。記憶と共に生きることを選んだ一人の人間として、その夜明けの光を、静かに見つめていた。