サイレント・ログの預言者

サイレント・ログの預言者

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第一章 色のないテキスト

西暦2242年、人類は記憶を克服していた。

脳に埋め込まれたマイクロデバイスを通じて、誰もが巨大な共有記憶バンク「クロノ・アーカイブ」にアクセスできる。昨夜見た映画の感動をもう一度。伝説の登山家がエベレストの頂で見た光景を追体験。失われた古代言語を数秒で習得。経験と知識は、もはや個人に帰属するものではなく、誰もが自由にダウンロードできる共有財産となっていた。

僕、アキトもまた、その恩恵を享受する一人だった。退屈な日常は、アーカイブにダイブすることで色鮮やかな冒険に変わる。他人の濃密な人生をダウンロードし、その達成感だけを切り取って味わう。それが最も効率的な生き方だと信じていた。生身の人間関係がもたらす予測不能な感情の揺らぎなど、時代遅れの非効率なノイズでしかなかった。

その日も、僕は深海探査の記憶をダウンロードしようと、アーカイブの広大な階層を漂っていた。きらびやかな記憶データが光の粒子となって周囲を流れていく。そんな中、ふと視界の隅に、光を放たない澱のような領域があることに気づいた。好奇心に引かれて近づくと、そこには『未分類セクション:警告・不完全データ』というラベルが貼られていた。

通常、不完全なデータはシステムによって自動的に修復・削除されるはずだ。だが、このセクションは何十年も放置されているようだった。中を覗くと、そこには無数のファイルが、まるで墓標のように静かに並んでいた。ファイル名はどれも無機質な識別番号のみ。他の記憶データが持つ、五感を刺激するプレビュー映像も、感情の波形グラフも一切ない。ただ、真っ黒な背景に白い文字が浮かぶ、テキストログがあるだけだった。

『サイレント・ログ』。いつしか誰かがそう呼ぶようになった、アーカイブの忘れられた領域。五感情報が完全に欠落し、ただの文字情報としてしか存在しない記憶の残骸。こんなものに価値はない。誰もが見向きもせず、通り過ぎていく。

だが、僕はなぜかその一つに強く惹きつけられた。『識別番号734-エコー』。指先が触れると、目の前に無味乾燥なテキストが展開された。

『345日目。今日も壁は灰色だった。昇降機の軋む音。配給食の味のないペースト。空気を循環させるファンの低い唸り。ここに「色」というものはない。長老は言う。昔、世界には色があったのだと。空は青く、草は緑で、太陽は金色だったと。馬鹿げたおとぎ話だ』

読み進めるうちに、僕は奇妙な感覚に襲われた。これは誰の記憶だ?テキストの主は「リナ」と名乗っていた。彼女の綴る言葉は、淡々としていながら、その行間から深い絶望と、そして微かな憧れが滲み出ているようだった。僕は深海探査のことなどすっかり忘れ、無我夢中でテキストを追いかけていた。これはダウンロードではない。これは、読書だ。僕が生まれる何百年も前に失われた、非効率で、しかし能動的な行為。テキストの向こう側にあるリナの世界を、僕は自分の想像力だけで懸命に構築しようとしていた。灰色の壁、味のないペースト、そして彼女が見たことのない「青い空」。僕の脳裏に、今までダウンロードしたどんな鮮明な記憶よりも生々しい情景が、おぼろげに浮かび上がっていた。

第二章 想像力の共鳴

サイレント・ログへの没入は、僕の日常を静かに侵食していった。昼は無気力に仕事をこなし、夜になると自室のベッドでアーカイブに潜り、ひたすらリナのログを読みふけった。

彼女の記録は、地下深くにあるシェルター都市での生活を綴ったものだった。かつて地上で起きた「大崩落」により、人類の生き残りは地下での生活を余儀なくされた、というのが彼女たちの世界の常識らしかった。リナは、その常識に疑問を抱いていた。

『489日目。壁の向こうには何があるのだろう。長老たちは「死だけがある」と言う。だが、時々、壁の古い通気孔から、嗅いだことのない匂いがする。甘く、少し湿ったような、土の匂い。誰も気づかない。誰も気にしない。でも、私は知っている。壁の向こうには、生命がある』

僕は、リナの言葉から「土の匂い」を想像しようと試みた。アーカイブで検索すれば、あらゆる土の匂いのデータが見つかるだろう。しかし、僕はそれをしなかった。リナが感じたであろう、未知への期待と恐怖が入り混じったその匂いを、自分自身の想像力で感じてみたかったのだ。僕は窓を開け、夜の冷たい空気を吸い込んだ。都市の清浄化された空気とは違う、雨上がりのアスファルトの匂いがした。これが、リナが求めた「生命の匂い」に近いものだろうか。

ログの中で、リナは数人の仲間と共に、壁の向こう側を目指す計画を立て始める。緻密な計画、仲間との口論、見つかるかもしれないという恐怖、そして自由への渇望。テキストだけで綴られる彼女たちのドラマは、僕が今までダウンロードしてきたどんな英雄譚よりも、僕の心を揺さぶった。彼らの葛藤は、僕自身の葛藤になった。彼らの希望は、僕自身の希望になった。

『621日目。決行は三日後。怖い。足がすくむ。もし、長老の言う通り、壁の向こうに死しか待ち受けていなかったら?でも、私は見たいのだ。私の目で、本物の「色」を。この灰色の世界で、想像だけで生きていくのはもう嫌だ』

その一文を読んだ時、僕の胸に鋭い痛みが走った。想像だけで生きていくのはもう嫌だ。その言葉は、アーカイブの記憶を借りて生きてきた僕自身に突き刺さった。リナは、存在しないかもしれない「色」を求めて命を懸けようとしている。一方、僕は、色とりどりの世界に生きながら、他人の記憶をなぞるだけで満足していた。

僕は、リナという、会ったこともない、声も顔も知らない、テキストだけの存在に、強く共感していた。これは、アーカイブが提供する受動的な共感ではない。僕の内側から湧き上がってきた、紛れもない僕自身の感情だった。僕は彼女の結末を見届けなければならない。いや、彼女に、青い空を見せてやりたい。心の底からそう願っていた。

第三章 カッサンドラの預言

リナたちの決行の日、僕は固唾を飲んでログの更新を待った。しかし、いつまで経っても新しいテキストは現れない。焦燥感に駆られた僕は、ログの深層データにアクセスしようと、普段は立ち入らない管理領域にまで足を踏み入れてしまった。その瞬間、僕の意識は強制的に白い無響室のような空間に引きずり込まれた。

目の前に、初老の男のアバターが立っていた。胸には「クロノ・アーカイブ中央管理局」の紋章が輝いている。

「アキト君。君が『サイレント・ログ』に異常な頻度でアクセスしていることは把握している」男は静かに、しかし有無を言わさぬ口調で言った。「これ以上のアクセスは許可できない。あの領域は君のような一般利用者が立ち入るべき場所ではない」

「なぜです!リナは、彼女たちはどうなったんですか!?」僕は思わず叫んでいた。他人のために声を荒らげるなんて、自分でも信じられなかった。

男は少し目を伏せ、ため息をついた。「君は大きな勘違いをしている。リナは、存在しない」

「……どういう、意味ですか?」

「サイレント・ログは、誰かの過去の記憶ではないのだよ」男の言葉は、僕の足元を崩壊させた。「あれは、未来予測シミュレーションAI『カッサンドラ』が生成した、無数の『失敗した未来』の記録だ」

頭が真っ白になった。失敗した、未来?

「カッサンドラは、人類が直面しうるあらゆる危機を予測し、その結果をシミュレートし続けている。大気汚染、資源枯渇、地殻変動……その果てに人類が地下シェルターでの生活を余儀なくされるというシナリオは、無数に存在する。君が読んでいたのは、その膨大なシミュレーションの一つ、識別番号734-エコーのログに過ぎない。リナも、仲間も、地下都市も、すべてはAIが作り出した仮想の存在だ」

偽物。僕が感じたあの痛みも、希望も、共感も、すべてはAIが書いた物語に対する反応だったというのか。借り物の記憶で生きてきた僕が、ようやく見つけた自分自身の感情だと思ったものは、結局、借り物の物語から生まれた、偽りの感情だったのか。全身から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった。

「なぜ……なぜそんなものを残しておくんですか。なぜテキストだけで?」かろうじて絞り出した声は、ひどく震えていた。

「五感情報を付与すると、シミュレーションの負荷が跳ね上がるからだ。カッサンドラは何億通りもの未来を同時に計算している。最も効率的な記録形式が、テキストだった」男は続けた。「そして、なぜ残すか、だね。それは、カッサンドラが、ある一つの未来を『極めて実現可能性の高い、回避すべき悲劇』として特定したからだ。それが、君が読んでいたリナの物語だ」

男は僕を真っ直ぐに見据えた。「そして、シミュレーションによると、その悲劇の引き金となる『大崩落』の分岐点が、まさに今、この時代にある。君がログを読み、こうして私と対峙している、今この瞬間にだ。君がログを読んだことで、予測に新たな変数が生まれた。『大崩落』の原因は、我々が依存しきっているこのクロノ・アーカイブ・システムの暴走だ。そして、リナが探し求めていた壁の向こうの『色の世界』とは……君が今いる、この現実世界のことなのだよ」

第四章 物語の担い手

僕がいた世界が、音を立てて組み変わっていく。リナの物語は偽物ではなかった。それは、これから僕たちがたどるかもしれない、未来の姿そのものだった。僕が感じた共感は、偽物ではなかった。それは、未来で苦しむ人々への、時を超えた共感だったのだ。

リナは知りたがっていた。壁の向こうには何があるのかと。その答えは、僕だ。僕たちのこの日常だ。彼女が命がけで求めた「色のある世界」に生きながら、その価値に気づかず、無気力に生きてきた僕自身が、その答えだった。

「僕に……僕に何ができるっていうんですか」

「君は、誰よりも深く、その未来を『体験』した」管理者の声は、どこか期待を帯びていた。「君は、ただのテキストから、痛みと希望を読み取った。それは、他の誰にもできなかったことだ。カッサンドラのログには、システムの暴走に至るまでの詳細な技術的経緯も記録されている。それを読み解き、人々に伝えることができるのは、リナの物語に心を動かされた君だけだ」

白い空間から現実の自室に戻った僕の頬を、涙が伝っていた。それは、ダウンロードした記憶がもたらす借り物の感動の涙ではなかった。リナという、存在しないはずの友を想い、失われるかもしれない未来を憂う、僕自身の涙だった。

僕はもう、アーカイブの記憶に逃げ込まない。僕は、僕自身の足で立つ。

翌日、僕は行動を起こした。サイレント・ログ『識別番号734-エコー』を、アクセス権限を持つすべての人間に公開したのだ。そして、僕自身の言葉で、その物語の意味を、来るべき危機を訴え始めた。

最初は、誰もが僕を嘲笑した。AIが書いたフィクションに踊らされている、と。だが、僕は語り続けた。リナが見た灰色の壁の冷たさを。彼女が夢見た青い空の眩しさを。僕の言葉には、借り物ではない、確かな熱が宿っていた。それは、テキストの行間から未来の痛みを想像し、共感した者だけが放てる熱だった。

少しずつ、僕の言葉に耳を傾ける者が現れ始めた。同じようにログを読み、そこに単なるテキスト以上の何かを感じ取る者たちが。彼らもまた、リナの物語に心を動かされた「読者」だった。

未来がどうなるかは、まだ分からない。僕たちの社会を根底から支えるクロノ・アーカイブという巨大なシステムに、僕たちの声が届く保証はない。「大崩落」は、訪れるのかもしれない。

けれど、僕はもう孤独ではない。僕の隣には、同じ物語を共有し、未来を憂う仲間たちがいる。そして僕の心の中には、いつもリナがいる。彼女は、灰色の世界で、決して希望を捨てなかった。

僕は、窓の外に広がる、当たり前すぎて今まで気づきもしなかった色鮮やかな世界を見つめる。この世界を、リナに見せてやりたい。いや、僕たちが、リナになるわけにはいかない。

僕たちは、物語の読者から、未来を紡ぐ担い手になったのだ。テキストだけで綴られた一つの物語が、世界を変える。その始まりに、僕は今、立っている。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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