メメント・アストルム(星の記憶)

メメント・アストルム(星の記憶)

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第一章 逆流する昨日

空は抜けるように青い。けれど僕、相沢カイの記憶の中では、今日の午後三時から、世界は灰色の豪雨に打たれている。傘を持たずに出てずぶ濡れになった人々、アスファルトを叩く激しい雨音、そして湿った土の匂い。それは予知ではない。僕にとっては、ついさっき経験したばかりの、紛れもない「過去」なのだ。

僕の時間は、記憶だけが未来から過去へと逆流している。明日の出来事を今日思い出し、今日の出来事を昨日思い出す。そして、一昨日のことなど、もう何も覚えていない。医師はそれを「慢性記憶逆行症候群」と名付けたが、症例は世界で僕一人。治療法はない。人々が思い出を積み重ねて自分を形作っていくのに対し、僕は毎日、自分の一部を忘却の彼方へ削り落としながら生きている。友人との会話も、感動した映画も、数日後には僕の中から完全に消え失せる。だから、僕は深い関係を築くことを諦めた。どうせ、忘れてしまうのだから。

そんな空っぽの僕の心に、たった一つ、消えない灯火のように揺らめく記憶がある。

まだ出会っていないはずの女性、「アリア」との記憶だ。

彼女との記憶は、僕の逆行する時間の中で、日を追うごとにかすかになるどころか、むしろ鮮明さを増していく。それはつまり、時間軸の上で、僕が彼女との「出会い」に近づいている証拠だった。亜麻色の髪、笑うと少しだけ見える八重歯、そして僕の名前を呼ぶ、鈴を転がすような声。彼女との断片的な記憶は、僕が未来を生きるための唯一の希望だった。

特に鮮やかなのは、二人で小さな天文台から星を見上げた夜の記憶だ。

『カイは、星の光が何億年も前の過去だって知ってる?』

アリアがそう尋ねる。僕は彼女の横顔を見つめながら頷いた。

『私たちは、今ここにはないものの光を見ているのね。なんだか、あなたみたい』

『僕みたい?』

『うん。カイの中にいる私は、未来の私なんでしょう? まだここにいない、未来の光。でも、ちゃんとここに届いてる』

彼女はそう言って、僕の手にそっと自分の手を重ねた。その温もりだけが、僕をこの世界に繋ぎ止めていた。僕は、この記憶の始点――アリアとの最初の出会いを、ずっと待ち焦がれていた。彼女に会えさえすれば、この孤独な時間も、きっと終わりを告げるはずだと信じて。

第二章 約束の座標

アリアとの記憶がまた一つ、僕の中に流れ込んできた。それは、活気に満ちた宇宙港のカフェテラスでのことだった。太陽光を模した照明が降り注ぐ中、彼女はエプロン姿でコーヒーを運んでいる。『私、ここで働いてるの。星に一番近い場所だから』と、彼女は悪戯っぽく笑った。

その記憶を道標に、僕は毎日のように近郊の第二宇宙港へ通い始めた。巨大なドーム状の天井には、リアルタイムの星図が投影され、頭上をゆっくりと恒星や星雲が流れていく。飛び立つ亜光速旅客船の重低音が、足元から身体の芯に響いてくる。ここは、未来への出発点であり、僕にとっては過去への入り口でもあった。

僕はカフェの隅の席に座り、ただひたすらアリアの姿を探した。まだ見ぬ彼女の面影を、行き交う人々の中に追い求めた。未来の記憶を持つ僕は、時折、小さな奇跡を起こした。床に落ちる直前のグラスを掴んだり、迷子になった子供の親がいる場所を教えたり。だが、その度に周囲の人間は僕に訝しげな視線を向けた。彼らにとって僕は、不気味な能力を持つ異質な存在でしかなかった。孤独は深まるばかりだったが、構わなかった。アリアに会うためなら、どんな視線も耐えられた。

日々、アリアとの記憶は密度を増していく。二人で観た映画の筋書き、些細なことで喧嘩して仲直りした公園のベンチ、彼女が作ってくれた少しだけ焦げたパンケーキの味。まるで失われたパズルのピースが一つずつ嵌っていくように、僕の中のアリアという存在が、より愛おしく、かけがえのないものになっていった。

そして、ある夜、最も切ない記憶が再生された。それは、僕たちが別れる日の記憶だった。

『約束して。いつか、私があなたの記憶からいなくなっても、必ずもう一度、私を見つけ出して』

涙を浮かべたアリアが、僕の胸に顔をうずめて懇願する。僕は彼女を強く抱きしめ、何度も頷いた。

『ああ、約束だ。僕の記憶がどこから流れ着こうと、君だけは絶対に忘れない。必ず見つけ出す』

この記憶は、僕の決意をさらに固くした。僕が彼女を見つけ出すことは、運命によって定められた約束なのだ。僕は、彼女との出会いを、この約束を果たすための輝かしいスタート地点だと信じて疑わなかった。僕たちの物語は、そこから始まるのだと。

第三章 砕かれた星図

季節が一周し、僕が宇宙港に通い始めてから一年が経とうとしていた。アリアとの記憶は、もはや僕の人生そのものだった。彼女のいない過去は全て忘却の闇に消え、僕の主観的な時間は、ほぼ全てが彼女との思い出で満たされていた。出会いの日が、もう間近に迫っているのを感じていた。

その日の夜、僕はベッドの中で、これまで経験したことのないほど強烈な記憶のフラッシュバックに襲われた。

それは、ひどく年老いた僕自身の視点だった。皺だらけの手で、若く美しいままのアリアの頬に触れている。場所は、殺風景な医療施設の個室。窓の外には、赤い土星の輪が見えた。

『アリア…すまない』

僕の声は、自分でも驚くほどしゃがれていた。

『謝らないで、カイ。あなたは、私にたくさんのものをくれたわ。他の誰もくれなかった、未来の光を』

アリアは気丈に微笑んでいるが、その瞳からは大粒の涙がいくつも零れ落ちていた。

『僕の記憶が逆行する原因は、分かっているんだろう? あのテラフォーミング船での事故…ガンマ線バーストの後遺症だ』

『ええ…』

『君と出会ってからの日々は…僕の人生の全てだった。だが、僕の記憶が過去へ向かうということは…君と出会った瞬間に、僕は君の全てを忘れるということだ』

老いた僕は、嗚咽を漏らしていた。希望ではなかった。祝福でもなかった。僕が待ち望んでいた「出会い」は、アリアと過ごした全ての時間を僕の中から消し去る、残酷な終着点だったのだ。

『だから、君に会うのが怖かった。君を忘れてしまうことが…何よりも』

『でも、あなたは会いに来てくれた。私を見つけ出してくれた。それだけで、充分よ』

激しい頭痛と共に、僕は現実の自分の部屋で飛び起きた。全身が冷たい汗で濡れている。

理解してしまった。

僕の記憶は、未来の僕が経験した人生を、死の瞬間から逆再生しているだけなのだ。アリアとの温かい日々は、僕がこれから経験する希望に満ちた未来などではなかった。それは、とっくの昔に終わりを告げた、失われた過去の残滓に過ぎなかった。

希望だと思っていた光は、燃え尽きた星の最後の輝きだった。僕が「出会い」と呼んでいたその瞬間は、アリアという存在を僕の意識から永遠に消し去るための、カウントダウンのゼロ地点だったのだ。

頭上の星図が、ガラガラと音を立てて砕け散った気がした。

第四章 はじまりのさよなら

絶望が、鉛のように僕の身体にのしかかった。アリアを探すのをやめようかと思った。彼女に出会わなければ、僕は彼女を忘れることはない。この温かい記憶を、胸に抱いたまま生きていける。だが、それは未来の僕が、そしてアリアが望んだことだろうか? 老いた僕が涙ながらに下した決断を、今の僕が覆していいのだろうか?

僕は数日間、部屋に閉じこもった。答えは出なかった。ただ、アリアとの記憶だけが、皮肉なほど鮮明に僕を苛み続けた。彼女の笑顔、彼女の涙、彼女の温もり。これら全てが、もうすぐ僕の手からこぼれ落ちていく。その恐怖は、これまで感じてきた孤独など比較にならないほど、僕の心を蝕んだ。

だが、ある朝、ふとアリアの言葉を思い出した。

『私たちは、今ここにはないものの光を見ているのね』

そうだ。僕が見ていたのは過去の光だった。でも、それは確かに存在した光だ。僕とアリアが生きた、かけがえのない時間の証だ。たとえ僕が全てを忘れても、僕たちが愛し合ったという事実は消えない。僕が彼女を忘れても、彼女は僕を覚えていてくれる。彼女の中で、僕たちの時間は生き続ける。

それで、充分じゃないか。

僕は、覚悟を決めた。運命を受け入れよう。忘れる恐怖に打ち勝ち、彼女を愛した男として、最後の約束を果たそう。

約束の日、僕は震える足で宇宙港のカフェテラスに向かった。未来の記憶が寸分違わず現実をトレースしていく。指定された席に座ると、心臓が張り裂けそうだった。

やがて、一人のウェイトレスが僕のテーブルに近づいてきた。

亜麻色の髪。少しだけ見える八重歯。記憶の中の彼女と、寸分違わぬ姿。

アリアだった。

彼女は僕の顔をじっと見つめると、少し戸惑ったように首を傾げた。

「あの…どこかでお会いしましたか?」

その声を聞いた瞬間、僕の脳裏で、走馬灯のようにアリアとの全ての記憶が駆け巡った。天文台の星空、喧嘩した公園、焦げたパンケーキ、そして土星の見える病室での最後の別れ。愛おしい記憶の全てが、陽炎のように揺らめき、そして、ゆっくりと消えていく。忘却の冷たい波が、僕の心の岸辺を洗い流していく。

涙が、頬を伝った。でも、それは絶望の涙ではなかった。

ありがとう。僕を見つけ出してくれて。

ありがとう。僕を愛してくれて。

声にならない感謝が、胸の奥から込み上げてくる。

僕は、消えゆく記憶の向こう側にいる彼女を見つめ、ありったけの想いを込めて、微笑んだ。これから始まる、そして僕の中では今終わった、愛しい日々のために。

「はじめまして」

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