「警告! 時空褶曲フィールド、制御不能! エネルギーサージ、臨界点を超えます!」
合成音声の悲鳴が、深宇宙探査船《ステラ・ダイバー》のブリッジに響き渡った。俺、航宙士のカイトは、コンソールに表示される赤いアラートの点滅を食い入るように見つめていた。新開発のワープ機関「クロノ・ドライブ」のテスト航行。それは、人類史上最速で宇宙を駆けるはずの、栄光へのジャンプになるはずだった。
「総員、衝撃に備えろ!」
エイミー船長の冷静だが切迫した声が飛ぶ。直後、凄まじいGが体をシートに叩きつけた。視界が真っ白に染まり、空間そのものが引き裂かれるような悲鳴が鼓膜を揺らす。意識が途切れる寸前、俺は窓の外に信じられないものを見た。星々が絵の具のように混ざり合い、時間と空間がタペストリーのように織り上げられていく光景を。
どれくらいの時間が経ったのか。意識を取り戻した俺たちクルーが見たのは、沈黙に支配された宇宙だった。だが、それは俺たちが知っている宇宙ではなかった。
窓の外には、見慣れた天の川も、輝く恒星も、何一つなかった。代わりに、虹色の滲みをまとった光の帯が、まるで巨大なアメーバのようにゆっくりと身をくねらせている。星図データは完全に無意味と化し、ナビゲーションシステムはただ「領域外」という無慈悲な表示を繰り返すだけだった。
「……ここは、どこだ」
リアム機関長が呆然と呟く。誰もが同じ思いだった。俺たちは、地図のない海に放り出されたのだ。
「被害状況を報告して」エイミー船長の声が、張り詰めた空気を破った。彼女だけが、この異常事態においても船長としての冷静さを失っていなかった。
各セクションからの報告は絶望的だった。船体各所にダメージ。そして最悪なことに、クロノ・ドライブのエネルギーコアが、未知の放射線の影響で徐々にエネルギーを漏出させていた。このままでは、あと72時間で船の全機能が停止する。俺たちは宇宙の棺桶と化すのだ。
その時、俺は自分のコンソールの奇妙な表示に気づいた。
「船長、見てください。レーザー測距儀の光が……曲がっています」
ブリッジの全員が息を呑んだ。俺が放った測距用のレーザー光線は、直進せずに緩やかなカーブを描き、まるでブーメランのように船体に戻ってきていたのだ。
「馬鹿な……光は空間の最短距離を進むはずだ」リアム機関長が信じられないといった様子で顔をしかめる。
だが、異常はそれだけではなかった。船外カメラの映像を早送りで再生すると、遠くの光の塊が、突如として二つに分裂し、その後に分裂の原因となるはずの爆発現象が観測された。
「結果が……原因より先に起こっている?」俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
ここは、俺たちの宇宙の物理法則が通用しない世界だ。光は曲がり、因果律さえもが逆転している。絶望的な状況。だが、その瞬間、俺の頭に一つの狂ったアイデアが閃いた。
「船長、提案があります」
俺はクルー全員に語りかけた。この宇宙の異常な法則を、逆手にとる方法を。
「因果が逆転するなら、俺たちが望む『結果』を先に作り出せばいいんです。クロノ・ドライブが再起動し、元の宇宙へのゲートが開いた、という結果を」
「正気か、カイト!」リアム機関長が怒鳴った。「結果を先に作るだと? そんなこと、どうやって!」
「あの因果逆転現象が起きている宙域に突入します。あの領域では、『ドライブの起動』という結果が先に発生する可能性がある。その瞬間に、漏れ出している全てのエネルギーを同期させ、後付けで『原因』として叩き込むんです!」
それは、理論物理学の教科書を破り捨てるような、前代未聞の賭けだった。失敗すれば、船は因果の渦に飲み込まれ、原子レベルで分解されるだろう。
ブリッジは静まり返った。誰もが俺の顔を見ていた。狂人の戯言か、それとも唯一の希望か。
沈黙を破ったのは、エイミー船長だった。彼女は俺の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「成功確率は?」
「……理論上は51パーセント。しかし、やってみる価値はあります」
「分かったわ」船長は静かに、しかし力強く頷いた。「あなたの直感を信じる。全クルー、カイト航宙士の指示に従って! 私たちは生きて地球に帰る!」
その言葉が、俺たちの心を一つにした。
カウントダウンが始まった。俺はステラ・ダイバーを、あの不気味に揺らめく因果逆転宙域へと向けた。コンソールの数値が狂ったように跳ね上がる。船体がきしみ、悲鳴を上げた。
「もうすぐだ……リアム機関長、エネルギー解放準備!」
「いつでもいけるぞ!」
目の前に、空間そのものが歪んだ巨大なレンズのような領域が見える。あれに突っ込むのだ。
「突入まで、3、2、1……今だ!」
船が因果の渦に飲み込まれた瞬間、全ての計器が沈黙した。時間が引き伸ばされ、一秒が永遠に感じられる。
「どうだ、カイト!」船長が叫ぶ。
俺は祈るような気持ちでドライブのステータスを見た。そこには、緑色のランプが一つ、確かに灯っていた。
『ドライブ起動』
結果は、生まれた。
「今だッ! 全エネルギー、ドライブコアへ!」
俺の絶叫と共に、リアム機関長がエネルギー解放スイッチを叩きつけた。船の照明が全て落ち、予備電源の赤い光だけが俺たちを照らす。ステラ・ダイバーに残された最後のエネルギーが、後付けの原因としてドライブに流れ込んでいく。
次の瞬間、船の前方に漆黒の亀裂が走った。それは、見慣れた、星々が輝く俺たちの宇宙への出口だった。
「行けえええええっ!」
ステラ・ダイバーは光の矢となって亀裂に飛び込んだ。背後で、狂った宇宙が扉を閉じるように消えていく。
気づけば、俺たちの目の前には、懐かしい天の川が広がっていた。静かで、秩序正しい、我々の宇宙だ。ブリッジは、クルーたちの歓声と安堵のため息に包まれた。
俺はシートに深く体を沈め、窓の外に輝く故郷の銀河を見つめた。俺たちは帰ってきたのだ。
だが、カイトの脳裏には、あの虹色に滲み、因果さえもが捻じ曲がった狂気の宇宙の光景が、鮮やかに焼き付いていた。
宇宙は、俺たちが考えていたよりも遥かに広く、そして不可思議に満ちている。俺たちが持ち帰った観測データは、人類の宇宙観を根底から覆すだろう。
人類の冒険は、まだ始まったばかりなのだ。
クロノ・リヴァーサル
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