不協和音のララバイ

不協和音のララバイ

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巷で囁かれる都市伝説があった。「幽霊の口笛」と呼ばれる怪談だ。深夜、どこからともなく聞こえてくる、物悲しい口笛のメロディー。それをはっきりと耳にしてしまった者は、三日後の夜、神隠しに遭ったかのように姿を消すのだという。

「またその話か。馬鹿馬鹿しい」
警視庁捜査一課の刑事、真壁は、コーヒーを啜りながら吐き捨てた。彼の目の前には、民間の音響分析官である私、音無響子(おとなし きょうこ)がいる。
「馬鹿馬鹿しい、で済めばいいんだけどね。この一ヶ月で、失踪者は五人目よ」
私はタブレットに表示した失踪者のリストを真壁に見せた。職業も年齢もバラバラ。唯一の共通点は、失踪直前に「奇妙な口笛を聞いた」と周囲に話していたことだけ。

警察はオカルト絡みの与太話として、まともに捜査を進めていない。だが、真壁の古い友人である私は、この事件にただならぬものを感じていた。失踪現場には、鑑識が見逃すほど小さな、奇妙な金属片が残されていることがあったからだ。
「これは……」
私が特殊なピンセットでつまみ上げた金属片を、真壁は眉間に皺を寄せて覗き込む。
「圧電スピーカーの振動板の一部ね。それも、かなり特殊な合金。可聴域外の音波を出すためのものかもしれない」

私の仕事は「音」を視ること。常人にはノイズにしか聞こえない音の波形から、隠された意味や情報を読み解く。今回の「幽霊の口笛」も、その正体は人間業ではないと直感していた。

私は自前の超高感度集音マイクとレコーダーを担ぎ、被害者たちが口笛を聞いたというエリアを回り始めた。数日が過ぎた深夜、ついにその時は訪れた。
──ヒュウ、ヒュルル……。
風の音に混じって、澄んでいるのにどこか歪んだ、不気味な口笛が聞こえる。背筋が凍るような、それでいて郷愁を誘うメロディー。私は震える指で録音ボタンを押し、音源の方角へ慎重に足を向けた。音は、古い雑居ビルの屋上に設置された給水タンクの裏から発せられているようだった。

翌日、研究室で録音した音源の分析に取り掛かった。スペクトラムアナライザにかけた波形を見て、私は息を呑んだ。
「……これは、口笛じゃない」
基本となる旋律の上に、人間の耳にはほとんど聞こえない超高周波のパルスが乗っている。それだけではない。そのパルス信号の強弱は、ある一定の法則性を持っていた。まるで、モールス信号のように。
「暗号……?」
私はその信号をデジタルデータに変換し、解読プログラムを走らせた。数時間の後、モニターに表示されたのは、意味をなさない文字列ではなく、一つの座標だった。市街地から外れた、今は使われていない巨大な電波塔の位置を示している。

「犯人のアジトか……!」
真壁に連絡を取り、私と彼、そして数名の警官で電波塔へと向かった。錆びついた鉄の扉をこじ開け、埃っぽい内部へと足を踏み入れる。螺旋階段を下りていくと、地下に広大な空間が広がっていた。そこは、まるでSF映画のような研究室だった。
そして、その中央で私たちを待っていたのは、白衣を着た初老の男だった。彼の周りには、失踪した五人が、まるで夢を見ているかのように穏やかな表情で椅子に座っていた。
「ようこそ、私のユートピアへ」
男は言った。彼は元・音響物理学者の新海と名乗った。
「彼らは死んではいない。ただ、悲しい記憶、辛い記憶を私の音で『クリーニング』しただけだ。この『調律の口笛』は、脳内の記憶を司る海馬に直接作用し、不快な記憶だけを選択的に抑制することができる。人は幸せな記憶だけで生きていけるのだよ」

新海は、かつて画期的な音響記憶操作技術を提唱したが、非人道的だと学会を追われた過去があった。彼の目的は復讐ではなく、自らの理論の歪んだ証明だったのだ。
「くだらない」と真壁が銃を構える。だが、私は彼を制した。
「新海さん、あなたの理論には欠陥がある」
私はまっすぐ彼の目を見て言った。
「あなたは悲しい記憶を消せると言う。でも、あなたが作ったその口笛のメロディー……解析したら、微弱なノイズが混じっていたわ。それは、赤ん坊の泣き声の周波数パターンと一致する」

新海の穏やかだった表情が、初めて揺らいだ。
「そのメロディーは、十年前に事故で亡くしたという、あなたの娘さんが好きだった子守唄のフレーズね。あなたは他人の記憶を消しながら、自分自身の最も消したいはずの記憶を、無意識に音に乗せていた。記憶は消せても、心に刻まれた痛みは消せない。あなたの作る音は、あなた自身の悲しみが産んだ『不協和音』なのよ」

私の言葉は、最後のトリガーだった。新海の足元から、あの口笛のメロディーが鳴り響く。彼が最後の被験者として、自分自身を選んだのだ。みるみるうちに彼の瞳から光が消え、穏やかな、しかし虚ろな表情へと変わっていく。
「……これで、私も安らげる」
それが、彼の最後の言葉だった。

事件は解決し、失踪者たちは無事保護された。彼らは数日間の記憶を失っていただけで、日常生活に支障はなかった。
だが、私の耳には、あの「不協和音のララバイ」が今もこびりついて離れない。
音で記憶を操作できるのなら、私たちが信じているこの世界は、本当に確かなものなのだろうか。真実と虚構の境界線は、耳に聞こえない音の波のように、曖昧に揺らめいているのかもしれない。

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