神保町の裏路地にひっそりと佇む古書店「彷徨書房(ほうこうしょぼう)」。その店の主である霧島譲(きりしまゆずる)は、埃とインクの匂いに満たされた城で、静かに客を待つのが常だった。
その日、店のドアベルをけたたましく鳴らして飛び込んできたのは、高名な歴史研究家、長谷部教授だった。血走った目でカウンターに一冊の古書を叩きつけるように置く。
「霧島君、君の知識を借りたい。これを見てくれ」
それは、いずれの国の装丁とも似つかない、黒い革で覆われた分厚い本だった。時代も不明、タイトルもなく、表紙にはただ、螺旋と歯車を組み合わせたような奇妙な紋様が刻印されているだけだ。
「これは…?」
霧島が眉をひそめると、教授は声を潜めて言った。
「"時間泥棒"の告白録だ。ようやく手に入れた」
時間泥棒。比喩か、あるいはもっと冒涜的な意味か。霧島が問い返そうとする前に、教授は「解読できたら連絡する。誰にもこの本のことは言うな」とだけ言い残し、嵐のように去っていった。
翌日、アルバイトの女子大生・早乙女栞(さおとめしおり)が出勤して早々、店に刑事が訪れた。長谷部教授が、大学の研究室で死体となって発見されたという。
「死因は後頭部を鈍器で殴られたことによる失血死。問題は、研究室が完全な密室だったことです」
刑事の話では、ドアには内側から鍵とドアチェーンがかけられ、窓もすべて施錠されていた。そして、教授が昨日持ち出したはずの例の黒い本は、どこにも見当たらなかったという。
現場に残されていたのは、一枚の栞のみ。そこには、あの本の表紙と同じ、螺旋と歯車の紋様が描かれていた。
「密室殺人、そして消えた魔本…。まるで推理小説ですね!」
栞は不謹慎にも目を輝かせたが、霧島は腕を組んだまま黙考していた。
「栞君、少し調べてほしいことがある。長谷部教授の研究内容と、彼の人間関係だ。特に、最近彼と対立していた人物がいなかったか」
「了解です、店長!こういうのは得意ですから」
栞が大学のデータベースやゴシップ好きの友人たちを駆使して情報を集めている間、霧島は警察から借り受けた栞の写真を、あらゆる角度から眺めていた。ただの紋様にしか見えない。だが、教授はこれを残した。必ず意味があるはずだ。
数時間後、栞が興奮気味に報告に戻ってきた。
「分かりました!教授、最近助手の相馬巧(そうまたくみ)さんって人と揉めてたみたいです。なんでも、教授が発表しようとしていた新説の根幹を、相馬さんの先祖が残した手記が覆すものだったとかで…」
「相馬君の、先祖…」
霧島の脳裏に、電撃のような閃きが走った。螺旋と歯車の紋様。時間泥棒。そして、助手の存在。
「栞君、その相馬君を店に呼んでくれないか。"教授の忘れものについて話がある"と伝えて」
夕暮れ時、憔悴した顔の青年、相馬が彷徨書房にやってきた。
「先生の忘れものとは、一体…?」
霧島はカウンターの内側から、静かに彼を見据えた。
「君の先祖が書き残したという"告白録"のことだ。もっとも、その呼び名は君たち一族だけのものだろうがね。長谷部教授はそれを"時間泥棒の告白録"と呼んでいた」
相馬の顔から血の気が引いた。
「…何を、言っているんですか」
「時間泥棒、とは言い得て妙だ。他人の研究や功績という"時間"を盗み、さも自分の手柄のように発表した男の日記。それが君の先祖の正体であり、告白録の真の内容だろう? 長谷部教授はそれに気づき、学会で発表しようとしていた。だから君は教授を殺し、証拠となる本を奪った」
「証拠がどこにある!」
相馬が叫んだ。霧島は例の栞の写真を彼に見せる。
「これはアナモルフォーシス…歪像画だ。このまま見てもただの紋様だが、ある視点から見ると文字が浮かび上がる」
霧島は写真を丸めて筒状にし、それを覗き込むように相馬に促した。
「栞を円筒状に歪ませて見ると、そこに浮かび上がる文字は『SOMA』。君の名前だ。教授は死ぬ間際、この栞にダイイング・メッセージを遺したんだよ」
相馬はがっくりと膝から崩れ落ちた。
「あの本は、一族の恥だ…。世に出るわけにはいかなかった…」
「密室はどうやった?」
霧島の問いに、相馬は力なく答えた。
「密室なんかじゃありません。研究室のドアは、閉めると自動で内鍵がかかる特殊なものでした。僕は教授を殴った後、ただ外からドアを閉めただけです。チェーンは…細い針金を使えば外からでもかけられる。警察は完全な密室という先入観に囚われ、簡単なトリックに気づかなかった…」
事件は解決した。だが、相馬がどこかに隠したであろう「時間泥棒の告白録」は、ついに見つかることはなかった。
数日後、彷徨書房にいつもの静けさが戻っていた。
「結局、魔本は闇に消えちゃいましたね」
本の整理をしながら、栞が少し残念そうに言った。
霧島は、古びた革表紙を慈しむように撫でながら、静かに答えた。
「それでいい。すべての物語が、白日の下に晒される必要はない。本は時に、人の人生を狂わせるほどの力を持つ。我々はその物語の、静かな番人であればいいのさ」
埃の舞う店内に、インクの香りが満ちる。彷徨書房は、また新たな物語が運び込まれるのを、ただ静かに待っていた。
時間泥棒の告白録
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