不協和音は嘘の色

不協和音は嘘の色

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俺、響介(きょうすけ)には秘密がある。俺は調律師だが、ただの調律師ではない。音に色が視える「共感覚」の持ち主で、それも少し特殊だ。人の言葉に含まれる「嘘」は、不快な色を帯びて俺の目に映る。

その日、俺の耳に飛び込んできたのは、ひどく調子の狂ったサイレンの音だった。そして、刑事である旧友の相田からの電話。

「響介、力を貸してくれ。…マエストロが死んだ」

マエストロ――世界的なピアニスト、霧島譲二。俺が彼の所有するベーゼンドルファーの専属調律師になって、もう五年になる。

現場は、彼が「聖域」と呼んだコンサートホール地下の防音練習室。警察が到着した時、部屋は内側から施錠された完全な密室だったという。遺体の傍らには、書きかけの楽譜が置かれていた。外傷はなく、毒物も検出されない。まるで、眠るように安らかに、彼はピアノ椅子に座ったまま息絶えていた。

関係者として集められたのは三人。一番弟子の新進気鋭ピアニスト・水上怜(みずかみれい)。マエストロのマネージャーで、長年の愛人だと噂される高遠(たかとお)さゆり。そして、ホールのオーナーで、マエストロのパトロンだった篠崎(しのざき)会長。

相田が一人ずつ事情聴取を始める。俺はその横で、ただ静かに彼らの「色」を見ていた。

「昨夜のアリバイは?」
「自室で次のコンクールのための練習を。誰も見ていませんが」
水上怜の言葉は、澄んだ泉のような青色だった。嘘はない。

「私は、昨夜は友人と食事をしていましたわ」
高遠さゆりの言葉は、薔薇のような深紅に、ほんの少しだけ見栄を示すための金色が混じる。食事相手は友人ではなく、新しい恋人だろう。だが、殺害とは無関係な些細な嘘だ。

「わしは、昨夜はずっと自宅の書斎におったよ」
篠崎会長の言葉は、重厚な樫の木のような茶色。これも真実だ。

全員が嘘をついていない? いや、そんなはずはない。この中に犯人がいるのなら、必ず決定的な嘘があるはずだ。だが、俺が視たのは、核心から遠い、どうでもいいプライドや見栄の色ばかり。まるで、誰かが意図的に撒いた目眩しのようだ。

俺の視線は、部屋の隅にあるグランドピアノと、譜面台の楽譜に吸い寄せられた。相田に許可を取り、ピアノの前に座る。そっと鍵盤に指を触れた。

―――違和感。
Gの音が、ほんのわずかに、コンマ数セントだけ低い。完璧主義者のマエストロが、この微妙な狂いを放置するはずがない。俺が最後に調律したのは三日前。完璧なピッチのはずだった。

次に、書きかけの楽譜に目をやる。それは、美しい旋律のようでありながら、所々に不可解な不協和音が散りばめられていた。素人が見れば乱雑なメモにしか見えないだろう。だが、俺には分かった。これはただの曲じゃない。マエストロからの、最後のメッセージだ。

俺は息を吸い、楽譜の冒頭からピアノを弾き始めた。美しいメロディが練習室に響く。そして、問題の不協和音の箇所へ。

指が鍵盤を叩いた瞬間、俺の全身に鳥肌が立った。
キィィン、という耳鳴りのような高周波音と、腹の底に響くような重い低周波音。それらが混じり合った瞬間、俺の視界に「色」が爆発した。

それは、俺が今まで見たこともない、悍(おぞま)しい色だった。
腐ったヘドロの緑と、錆びた鉄の赤黒さが渦を巻く、凶悪な「機械の嘘」の色。生命のない、無機質な殺意の色だ。

「…分かったよ、相田」

俺は演奏をやめ、静かに立ち上がった。

「犯人は、水上怜。君だ」

俺の言葉に、水上の涼やかな表情が初めて凍りついた。
「な、何を馬鹿なことを…」
彼の声が、初めて濁った色を帯びる。必死に平静を装う、焦りの色だ。

「マエストロを殺したのは、物理的な凶器じゃない。『音』だ。特定の周波数を組み合わせることで、心臓に異常をきたさせる音響兵器。この練習室は防音だが、建物の構造を知り尽くしていれば、特定のダクトを通じて外から致死性の音波を送り込むことは可能だ」

俺は楽譜を指さした。
「この楽譜は、君が作ったその殺人装置の周波数パターンを、マエストロが死の間際に書き写したものだ。彼は君の才能に嫉妬し、君が作った曲を自分のものとして発表しようとした。君はそれを知って、彼を殺した。違うか?」

水上は黙り込んだ。だが、彼の全身から放たれる「嘘の色」は、どす黒く膨れ上がり、彼の罪を雄弁に物語っていた。

「どうして…分かったんだ」か細い声が漏れる。
「君は完璧な嘘をついた。アリバイも、態度も。だが、たった一つ、計算外だったな」

俺はピアノのGの鍵盤を、もう一度、ぽつりと鳴らした。

「このピアノは、君が殺人音波を使った影響で、Gの弦だけがわずかに共振して、調律が狂ってしまったんだ。音楽を愛し、音の全てを知り尽くしたマエストロが残した、声なき告発だよ。俺には、その不協和音に混じった君の『嘘の色』が、はっきりと視えた」

静まり返った練習室に、狂ったGの音が、いつまでも悲しく響いていた。

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