信長のチェスボード

信長のチェスボード

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歴史学科のしがない大学院生である俺、相川拓也の運命が狂ったのは、京都の骨董市で埃をかぶった一つの根付を手にした瞬間だった。黒檀と思しき素材に、奇妙な幾何学模様が彫り込まれたそれは、まるで古代の回路図のようにも見えた。俺の専門は戦国時代、特に本能寺の変の謎だ。何かに引き寄せられるように、それを買った。

自室で論文資料の山に埋もれながら、無意識に根付をいじっていた。カチリ、と指先で小さな突起を押し込んでしまった、その時。視界がぐにゃりと歪み、脳を直接掴まれるような強烈なめまいに襲われた。次に目を開けた時、アスファルトの道も、電信柱も、コンビニの明かりも、すべてが消え失せていた。

土の匂い、馬糞の臭い、そして人々のざわめき。目の前には、時代劇のセットとしか思えない木造の家々が立ち並んでいた。着物姿の人々が、奇妙な服装の俺を訝しげに遠巻きに見ている。
「……嘘だろ」
呟きは誰にも届かない。だが、自分の格好――Tシャツにジーンズ――と周囲の風景の圧倒的な乖離が、悪夢のような現実を突きつけていた。

ここは、どこだ? 何年なんだ?
混乱する俺の目に、一枚の高札が飛び込んできた。そこに書かれた文字を読んで、全身の血が凍りついた。
『天正十年』
――1582年。織田信長が、本能寺で死ぬ年。

パニックと同時に、歴史の虫である俺の心に、ある種の冒涜的な興奮が湧き上がった。
本能寺の変。日本史上最大のミステリー。その謎を、この目で解き明かせるかもしれない。いや、それどころか、信長にこれから起こることを伝えれば、歴史を変えられるかもしれない!

俺は走り出した。目指すは一つ、本能寺だ。
だが、当然ながら、素性の知れぬ怪しい男が天下人に会えるはずもなかった。門前で追い払われ、途方に暮れていた俺に声をかけてきた若者がいた。
「見慣れぬ身なりだが、お主、何者だ?」
歳の頃は俺と同じくらいだろうか。日に焼けた顔に、鋭いが人の良さそうな光を宿した瞳をしていた。名を吉兵衛といい、森蘭丸に仕える下級武士だという。

俺はとっさに「南蛮の商人から未来を知る術を学んだ占い師だ」と出任せを言った。吉兵衛は半信半疑だったが、俺が語る信長の性格や最近の動向――未来の知識からすれば当然のこと――を言い当てると、次第に目を見開いていった。
「信じられん……。ならば、これから上様(うえさま)に何が起こるというのだ?」
「……裏切りだ。最も信頼する者からの」
俺は声を潜め、明智光秀の名を告げた。吉兵衛は絶句した。

彼の助けを借りて、俺は再び本能寺へ近づく機会を窺った。来るべき『Xデー』、六月二日は刻一刻と迫っていた。吉兵衛を通じて本能寺内部の情報を得るうちに、俺は奇妙な違和感を覚え始めていた。警戒が厳重なはずの本能寺に、なぜか不可解な人の出入りがある。それは明智の兵ではない。堺の商人、公家、果ては異国の宣教師らしき姿まで……。まるで、何者かが水面下で壮大な『何か』を準備しているかのようだった。

そして、運命の前夜。俺と吉兵衛は、歴史を変えるという覚悟を胸に、闇に紛れて本能寺の塀を乗り越えた。目的はただ一つ、信長の寝所へ忍び込み、直接警告すること。

息を殺して進むうち、一つの部屋から漏れる光と話し声に気づいた。そっと障子に耳を寄せる。聞こえてきたのは、明智光秀の声ではなかった。
「……手筈通り、火を放て。だが、上様の御骸だけは必ず運べ」
「はっ。我らが『新しき世』のため……」
衝撃的な会話。だが、さらに俺を凍りつかせたのは、その声の主だった。聞き覚えのある、力強い声。羽柴秀吉……? いや、違う。もっと冷静で、怜悧な響き。一体、誰が?

混乱する俺の思考を破ったのは、背後からかけられた静かな声だった。
「――面白い余興だな、未来人よ」

振り返ると、そこにいた。
月明かりに照らされた、豪奢な着物をまとった一人の男。鋭い眼光、圧倒的な存在感。教科書で、肖像画で、嫌というほど見てきたその顔。
「……織田、信長……」
声が震えた。なぜ、ここに。なぜ俺が未来から来たと知っている。

信長は、まるで盤面の駒を眺めるように俺を見つめ、不敵に口の端を上げた。
「貴様のその根付、儂が作らせたものよ。時を超え、歴史の『観測者』を呼び寄せるためのな」
「な……にを……」
「光秀が動くことも、貴様がここへ来ることも、全ては儂の筋書き通り。儂はな、この日ノ本という窮屈な盤から降りることにしたのだ。この死は、偽りの終焉。世界という、より大きな盤で天下布武を成すための、始まりに過ぎん」

信長の瞳が、狂気と神懸かり的な理性の間で妖しく揺らめいた。彼は俺が一歩前に進み出ることを手で制すと、遠くを見つめて言った。
「貴様の知る歴史は、儂が望んだ『表向き』の結末よ。貴様のような観測者が現れることで、その歴史が正しく未来へ伝わったことの証となる」

その時、遠くで鬨(とき)の声が上がった。本能寺に、最初の火の手が上がる。だが、それは絶望の炎ではなかった。信長が新たなステージへと旅立つための、壮大な祝祭の狼煙だった。

信長は、燃え盛る本堂を一瞥し、再び俺に向き直った。その手には、俺が持っていたものと全く同じ根付が握られていた。
「さあ、選べ。ここで歴史の灰となるか、儂と共に『真の歴史』を創る共犯者となるか」

地獄のような炎に包まれた本能寺で、俺は歴史の創造主と対峙していた。ワクワクする? とんでもない。これは、神のチェス盤に駒として乗せられてしまった人間の、戦慄の物語の始まりだった。

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