埃と古い紙の匂いが満ちる修復室で、水上楓は息を詰めていた。目の前にあるのは、数百年前に書かれたという羊皮紙の断片。まるで泥水にでも浸かったかのように茶色く汚れ、端は焼け焦げ、かろうじて人の手によるものだと分かる程度の代物だった。
「暴君、黒川兼定の時代のものだ。おそらくは、彼の悪逆非道を告発する密書か何かだろう」
資料を寄贈した蒐集家はそう言った。大学の歴史学の権威、高坂教授も同じ見解だった。黒川兼定。この地を治め、圧政と贅沢の限りを尽くした末に、家臣の裏切りによって非業の死を遂げたとされる領主。歴史が彼に与えた評価は、揺るぎない悪そのものだ。
楓は、修復士としてただ忠実に、この脆い歴史の欠片を現代に蘇らせる使命を負っていた。そっとピンセットで断片をつまみ上げる。微かに、甘いような、薬草のような不思議な香りが鼻腔をくすぐった。それは、この部屋に染みついた古書の匂いとは明らかに異質だった。楓の胸に、小さな疑問の染みが、じわりと広がった。
修復作業は困難を極めた。特殊な溶剤で慎重に汚れを落とし、欠損した部分を和紙で補強していく。一進一退を繰り返す日々の中、楓の指先だけが、羊皮紙に残された微かなインクの凹凸を頼りに、失われた時を遡っていく。
やがて、解読可能な文字が少しずつ姿を現し始めた。しかし、そこに記されていたのは、予想されたような告発の言葉ではなかった。
『……星見草の露、三滴。月の涙を半匁……』
それはまるで、幻想的な詩の一節のようだった。美しい植物のスケッチも添えられている。だが、そんな名の植物は、どの植物図鑑にも載っていなかった。暴君のイメージとはかけ離れた、静謐で理知的な筆跡。楓の抱いた疑問は、日ごとに大きくなっていった。
楓は仕事の合間を縫って、図書館で黒川兼定について調べ始めた。公式の記録は、どれも彼の暴政を伝えるものばかり。しかし、膨大な資料の片隅に、楓は小さな記述を見つけた。兼定の治世、周辺国で疫病が猛威を振るう中、彼の領地だけが一度も大規模な流行に見舞われなかった、と。
疫病。その言葉が、雷のように楓の思考を貫いた。あの羊皮紙から漂う、薬草のような香り。まさか。点と点が結びつき、途方もない仮説が像を結び始める。楓は憑かれたように修復作業に没頭した。真実が、彼女を呼んでいる気がした。
そして、運命の日が訪れた。最後の補強を終え、特殊なライトを当てると、これまで見えなかった文字が羊皮紙の表面に浮かび上がったのだ。楓は息をのんだ。
『星見草(ほしみぐさ)』とは、夜間にしか咲かない希少な解熱草の隠語。『月の涙』とは、月光の下で集めた樹液のこと。そこに連なっていたのは、詩などではなかった。疫病に対する、恐ろしく精密で効果的な薬の処方箋だったのだ。
楓は震える指でページをめくった。その最後の最後に、力強く、しかしどこか寂しげな署名が記されていた。
『黒川兼定』
やはり、彼本人の手によるものだった。そして、署名の脇には、血を吐くような覚悟で綴られたであろう一文が添えられていた。
『我が民を救う術、この紙に託す。されど、この術を巡り争いが起きぬよう、我が悪名をもってこれを封ず』
全ての謎が解けた。黒川兼定は、暴君ではなかった。彼は領民を疫病から守るため、密かに薬学の研究に人生を捧げた名君だったのだ。だが、その先進的な知識が、薬を巡る国々の争乱を招くことを恐れた。だから彼は、自ら歴史に汚名を刻みつけ、後世の誰もが自身の研究記録に見向きもしないよう、その真実を己の悪名という名の棺に納めて封印したのだ。羊皮紙の染みは、泥水などではない。民を救うために彼が自ら調合した、薬草の汁そのものだった。
楓は、修復を終えた羊皮紙を高坂教授の前に差し出した。真実を知った老教授は言葉を失い、やがて興奮気味に言った。「すぐに学会に発表だ!歴史が覆るぞ!」
しかし、楓は静かに首を横に振った。「教授。兼定は、この真実が永劫に眠り続けることを望んだのではないでしょうか」
彼の覚悟を、想いを、二百年後の我々が勝手に暴いてしまっていいのだろうか。楓の言葉に、高坂はハッとして黙り込んだ。
後日、楓は一人、特別な保管庫にその羊皮紙を収めた。温度と湿度が完璧に管理されたガラスケースの中で静かに横たわる一枚の紙。それはもはや、ただの古文書ではなかった。誰にも知られることなく民を愛し、歴史の闇に己を葬った一人の人間の、気高くも悲しい魂の記録そのものだった。
窓の外には、茜色の夕日が広がっている。歴史とは、教科書に記された勝者の物語だけではない。その行間に埋もれ、誰にも語られることのなかった無数の人々の声なき想いの積み重ねなのだ。
楓は、ガラスの向こうの羊皮紙にそっと手を触れた。インクの沈黙と、そこに込められた花の記憶。それらを掬い上げ、未来へ静かに手渡していく。それが、修復士である自分の本当の使命なのだと、楓は強く思った。夕暮れの光が、彼女の横顔を優しく照らしていた。
墨の沈黙、花の記憶
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