埃とインクの匂いが混じり合う大学の研究室。高遠湊(たかとお みなと)は、まるで恋人に触れるかのように、そっと粘土板の欠片に指を滑らせた。戦火のイラクから奇跡的に運び出された、紀元前六世紀の新バビロニア時代の遺物。彼の仕事は、この楔(くさび)が刻む古代の囁きを現代に蘇らせることだ。
いつものように淡々と解読作業を進めていた湊の指が、ふと止まった。王の威光を称える定型句の羅列の中に、明らかに異質な配列があったのだ。それは、天体の運行記録だった。しかし、その精度は異常だった。古代の観測技術では到底不可能な、数千年後の惑星配置――つまり、二十一世紀の夜空を寸分違わず写し取った星図がそこにはあった。
「……ありえない」
湊の呟きは、静寂に吸い込まれた。星図の中心には、複雑な幾何学模様が刻まれている。何かの設計図か、あるいは未知の言語か。脳が沸騰するような興奮と、背筋を這い上がるような畏怖が彼を襲った。これは歴史を覆す大発見だ。震える手で学会への報告メールを書きかけた、その時だった。
背後に、音もなく人の気配が立った。振り返る間もなく、冷たい声が響く。
「高遠湊准教授。それは、汝らが触れてはならぬ領域だ」
スーツ姿の男たちが二人、いつの間にか室内に立っていた。彼らの瞳には感情の色がない。まるで精巧な人形のようだ。
「『クロノスの番人』より最終勧告する。その粘土板を渡せ。さすれば命だけは保証しよう」
クロノスの番人? ギリシャ神話の時の神の名を冠した、謎の組織。湊の思考が混乱する中、男の一人が躊躇なく彼に歩み寄る。
その瞬間、研究室の窓ガラスがけたたましい音を立てて砕け散った。黒いライダースーツに身を包んだ女性が、しなやかな獣のように飛び込んでくる。彼女は瞬く間にスーツの男たちを打ちのめすと、呆然と立ち尽くす湊の腕を掴んだ。
「ぼさっとしないで! 死にたいの?」
美しい顔立ちに鋭い眼光。彼女は湊を庇うように立ち、男たちを睨みつけた。
「番人の犬どもめ。その遺物は我々『プロメテウスの火』がいただく」
訳もわからぬまま連れ出されたアジトで、サラと名乗る女性は語った。歴史の裏側には、二つの秘密組織が存在するのだと。
『クロノスの番人』は、歴史の連続性を守るため、オーパーツ――時代にそぐわぬ遺物――を抹消する者たち。
対する『プロメテウスの火』は、オーパーツに秘められた超古代文明の知識を解放し、人類を次なるステージへ導こうとする者たち。
そして、湊が手にした粘土板は、その両者が血眼で探す最重要の遺物だという。
「私はどちらの味方でもない。ただ、真実が知りたいだけだ」
湊は誰にともなく宣言し、研究室から持ち出した粘土板の精密なレプリカと対峙した。夜を徹した解読の末、彼は一つの答えに辿り着く。
星図と幾何学模様が示しているのは、座標と時間。三日後、皆既日食が起こる時刻に、シリアのパルミラ遺跡のさらに奥、地図にも載らない忘れられた神殿。そこが「預言の場所」だった。
三日後。灼熱の太陽が砂漠を焦がしていた。湊はサラと、そして彼らを追ってきた『クロノスの番人』と共に、古代の神殿に足を踏み入れていた。奇妙な三つ巴の睨み合いの中、その時は訪れる。
太陽が月に隠され、世界が薄闇に包まれた瞬間、神殿の奥にある祭壇が眩い光を放ち始めた。粘土板の幾何学模様と寸分違わぬ文様が床に浮かび上がり、光の柱を天に伸ばす。
次の瞬間、神殿の壁一面に、息を呑むような映像が投影された。
それは、人類の歴史ではなかった。地球ではないどこか別の星で、高度な文明を築き上げた者たちの記録。彼らは、やがて訪れる宇宙規模の災厄を予見し、その知識と種の一部を宇宙船に乗せて星々へ解き放った。地球にたどり着いた彼らの末裔こそが、現生人類なのだと。
『我らは汝らに警告する。我らを滅ぼした災厄が、再びこの銀河に迫っている。乗り越える術は、我らが地球の各地に遺した知識の断片――"遺言"に記されている。集めよ、そして目覚めよ……』
メッセージが最高潮に達した時、『クロノスの番人』のリーダーが叫んだ。
「人類に過ぎた力は混乱を招くだけだ! 歴史は我らが守る!」
彼が掲げた装置から放たれた電磁パルスが光の柱を揺らがせ、壮大な映像はノイズと共に掻き消えた。神殿が崩れ始める。
瓦礫の雨の中、サラに腕を引かれながら湊は必死に脱出した。手に入れたのは、断片的な情報と、さらに深まった謎だけ。だが、彼の胸には恐怖ではなく、燃え盛るような探求の炎が宿っていた。
地平線の彼方に沈みゆく歪な太陽を見つめながら、湊は呟いた。
「終わらせない。これは、僕らが解き明かさなければならない、僕ら自身の物語だ」
サラが不敵に微笑む。
「上等じゃない。世界の博物館は、全部私たちの宝物庫ってわけね」
歴史学者、高遠湊の本当の冒険は、今、始まったばかりだった。世界中に散らばる「クロノスの遺言」を巡る、時を超えた壮大な謎解きの旅が。
クロノスの遺言
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