古文書修復師である水上聡の仕事場は、和紙と膠(にかわ)、そして古い墨の匂いが混じり合った、時が止まったかのような空間だった。彼のもとに、京都の古刹・寂光寺(じゃっこうじ)から一本の巻物が持ち込まれたのは、初夏の雨が降り続く日のことだった。
「これは、当寺に伝わる『鬼柳文書』でしてな」
皺深い顔の住職が言った。鬼柳道山(きりゅうどうざん)。戦国時代、主君を裏切り、国を混乱に陥れたとされる大悪人だ。その汚名は五百年経った今も、歴史書に深く刻まれている。
「虫食いと湿気で損傷が激しい。どうか、あなた様のお力で、後世にこの『戒め』を残せるようにしていただきたい」
水上は恭しく巻物を受け取った。ずしりと重い。それは単なる紙の重さではない、歴史の怨念のようなものが宿っているかのように感じられた。
修復作業は困難を極めた。脆くなった和紙を慎重に補強し、剥がれかけた金箔を押し直す。作業に没頭して数日が過ぎた夜だった。工房の窓から、雲間を割って満月が顔を出し、静かな光が作業台を照らした。その時、水上は息をのんだ。
巻物の墨痕が、まるで血を滲ませるかのように、淡い赤色に変化していたのだ。
「なんだ、これは……」
心臓が早鐘を打つ。彼は急いで工房の照明を消し、月光だけで巻物を見つめた。そこには、これまで見えていたものとは全く異なる、びっしりと書き込まれた別の文章が、赤い光を放って浮かび上がっていた。特殊な植物から抽出した墨なのだろう。特定の波長の光、それも満月の光にのみ反応する、幻の墨だ。
『我が名は鬼柳道山。汚名を甘んじて受け、歴史の影に真を記す』
冒頭の一文に、水上は全身の血が逆流するような衝撃を受けた。震える指で解読を進めるにつれ、驚愕の事実が明らかになっていく。道山の裏切りは、南蛮勢力と内通し、国を売り渡そうとしていた主君の暴走を止めるための、苦渋の決断だったのだ。彼は国を守るため、一人で全ての罪を背負った救国の英雄だった。
『この真実を証明する我が愛刀「月詠(つくよみ)」は、北辰(ほくしん)の示す地に眠る』
歴史が、根底から覆る。水上は興奮と畏怖で身動きが取れなかった。この事実を公にしなければ。そう決意した矢先、工房の扉が乱暴に開けられた。そこに立っていたのは、あの寂光寺の住職と、黒い背広を着た複数の男たちだった。
「月光に照らされるまで待てば、必ず正体を現すと思っておりました」
住職の目は、もはや穏やかな僧侶のものではなかった。冷徹な光が宿っている。
「我々は『墨守会(ぼくしゅかい)』。歴史の『定説』を守る者だ。鬼柳道山が悪人であり続けることで、我らの一族は五百年、安寧を享受してきた。余計な詮索は無用なのです」
男たちがにじり寄ってくる。絶体絶命。水上は咄嗟に、作業台にあった膠の煮汁を男たちに浴びせかけ、その隙に巻物を掴んで工房を飛び出した。
雨上がりの京都の町を、水上はひた走る。北辰の示す地とはどこだ? 北極星……つまり、不動の北を意味する場所。彼の頭に、京都御所の北に位置する玄武の地、船岡山が閃いた。
墨守会の追跡をかわし、闇に包まれた船岡山にたどり着いた水上は、苔むした古い石灯籠群の中に、一つだけ北斗七星の文様が刻まれたものを発見した。古文書修復の知識が、古代の暗号を解く鍵となったのだ。灯籠の土台を動かすと、地下へと続く石段が現れた。
石段の先には、小さな石室があった。中央の祭壇に、一振りの刀が静かに安置されている。月詠だ。水上が鞘から刀身を抜き放つと、再び差し込んできた月光を浴びて、刃に刻まれた微細な文字が黄金色に輝き出した。そこには、道山の主君が南蛮勢力と交わした密約の全文が、寸分の狂いもなく彫り込まれていた。動かぬ証拠だ。
その時、背後から墨守会の男たちが現れた。
「そこまでだ、修復師」
だが、水上は臆さなかった。彼は月詠を構え、その切っ先を男たちに向ける。
「歴史はあなたたちのおもちゃじゃない。それは、僕らが未来へ繋ぐべき真実の連なりだ。修復師として、この歴史の傷は僕が治す!」
彼の言葉は、もはや単なる修復師のものではなかった。歴史の真実を守る、一人の闘士の雄叫びだった。
数週間後、一本の刀がきっかけとなり、歴史学会は大きく揺れることになる。鬼柳道山の再評価を巡る議論は、まるで熱病のように国中を駆け巡った。
水上はいつもの工房で、新たな古文書に向き合っている。彼の仕事は何も変わらない。だが、その目には、歴史の行間から真実を救い出すという、新たな使命の光が宿っていた。彼が修復するのは、もはや紙や墨だけではない。歪められた、人々の記憶そのものなのだ。
赤月の墨書(せきげつのぼくしょ)
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