神崎翔太がその古文書を神保町の古書店で見つけたのは、単なる偶然だった。歴史学を専攻する大学院生である彼にとって、崩し字で書かれた和紙の束は宝の山だ。しかし、その一冊だけは異質だった。他の文献とは明らかに違う、妙に生々しいインクの匂いがしたのだ。
『天正十年六月二日、本能寺、炎上セズ。主、南蛮渡リノ奇器ヲ以テ脱ス』
「ありえない…」
明智光秀の謀反により、織田信長が自刃したとされる本能寺の変。歴史の常識を根底から覆す記述に、翔太の心臓は高鳴った。誰かの悪戯か、それとも——。
夢中で古文書を解読する翔太のポケットで、祖父の形見である銀の懐中時計が不意に熱を帯びた。アール・ヌーヴォー調の美しい彫刻が施されたそれは、翔太が生まれる前から時を刻むのをやめている、ただの装飾品のはずだった。
「うわっ、熱い!」
手にした瞬間、懐中時計の蓋がひとりでに開き、目も眩むような白い光が翔太を包み込んだ。
次に目を開けた時、翔太を包んでいたのは書斎の埃っぽい空気ではなく、焦げ臭い煙と熱風だった。目の前には、燃え盛る巨大な寺。響き渡る怒号、鬨の声、そして刀と刀がぶつかり合う甲高い金属音。
「嘘だろ…本能寺…?」
呆然と立ち尽くす翔太のすぐ側を、漆黒の装束をまとった集団が風のように駆け抜けていく。彼らが目指す炎の中心部では、明智軍と思われる兵士たちとは明らかに違う、不気味な仮面をつけた者たちが、一人の武将を執拗に狙っていた。
「信長様をお守りしろ!」
黒装束の一人が叫ぶ。間違いない、ここは本能寺の変の真っ只中だ。歴史が、今まさに目の前で動いている。いや、自分が知る歴史とは何かが違う。
混乱する翔太の腕を、誰かが強く掴んだ。振り返ると、息を切らした美しい顔立ちの若武者がいた。歳は翔太と同じくらいだろうか。教科書で見た肖像画そのままの、森蘭丸だった。
「未来の者か!」蘭丸は叫んだ。「来るべき時に来たな!」
「え…?」
「問答は無用!奴らは歴史を喰らう『時喰み(ときばみ)』。信長様が作り上げようとした未来を、無に帰そうとする者どもだ!」
蘭丸はそう言うと、懐から桐の小箱を押し付けてきた。
「信長様は、この『奇器』で脱出された。だが、これは奴らに渡してはならぬ! 我らが時間を稼ぐ。貴殿はこれを、本来あるべき未来へ持ち帰れ!」
奇器、という言葉に翔太は息を呑んだ。古文書の記述は真実だったのだ。
「行け!」
蘭丸に背中を押され、翔太はよろめいた。その瞬間、ポケットの懐中時計が再び激しい光を放つ。薄れゆく意識の中、蘭丸が不敵に笑い、炎の中へ斬り込んでいくのが見えた。
気づけば、翔太は自室の床に倒れていた。手には、あの桐の小箱が固く握られている。夢ではない。箱を開けると、中には羅針盤のような奇妙な金属製の円盤と、羊皮紙に書かれた一枚の地図が入っていた。地図には、日本ではなく、遥か海の向こう、ユーラシア大陸が描かれている。
「信長は…死んでいなかった。そして、天下統一の先を見ていた…?」
翔太は震える手で、懐中時計を握りしめた。止まっていたはずの秒針が、カチリ、と音を立てて動き始める。それはまるで、新たな旅の始まりを告げる合図のようだった。歴史の裏に隠された真実を追う、時を超えた冒険の始まりを。
クロノスの懐中時計
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