大学の古文書室の隅で、僕は埃っぽい文献の山と格闘していた。僕、神崎健太の研究テーマは「空白の歴史」。特に戦国武将・三雲景虎(みくもかげとら)に心を奪われていた。彼は小国の領主でありながら、一時期は破竹の勢いであったにもかかわらず、ある合戦を境に忽然と歴史から姿を消した。討死の記録もなく、まるで神隠しにでもあったかのように。
「また三雲か。そんな記録にも残らん武将、時間の無駄だぞ」
教授の言葉が耳に痛い。だが、僕は信じていた。歴史の行間には、まだ誰も知らない真実が眠っているはずだと。
そんなある日、亡くなった祖父の遺品から、古びた真鍮製の羅針盤を見つけた。手に取るとずっしりと重く、ガラスの下の針は、方角ではなく奇妙な文様を指して微かに震えている。台座には「時の理(ことわり)を望む者、覚悟を以て針を回せ」と刻まれていた。
悪戯心だった。僕は研究室に羅針盤を持ち込み、三雲景虎が消えたとされる「天正三年、六月十三日、桔梗ヶ原」と心の中で強く念じながら、震える針をゆっくりと回した。
その瞬間、羅針盤が灼熱の光を放った。目を開けていられないほどの眩しさに意識が遠のき、次に僕を覚醒させたのは、腹の底を揺さぶる鬨の声と、鼻をつく血の匂いだった。
「な……んだ、これ……」
目の前には、泥と血にまみれた武者たちが、刃を交える地獄絵図が広がっていた。時代劇のセットではない。本物の、戦場だった。
パニックに陥り、逃げ惑う僕の目の前に、敵兵の獰猛な顔が迫る。振り上げられた刀が陽光を反射した。死を覚悟した、その時。
「——そこまでだ!」
鋭い声と共に、一陣の風が吹き抜けた。僕と敵兵の間に割って入った騎馬武者が、槍の一閃で敵を薙ぎ払う。月白色の陣羽織に描かれた紋は、僕が何度も資料で見た「三つ雲」の紋。
「怪我はないか、若者」
馬上から僕を見下ろす男の瞳は、驚くほど冷静で、深く澄みきっていた。
「あ、あなたは……三雲、景虎……?」
僕の呟きに、男は少し驚いたように眉を上げたが、すぐに口の端を上げて笑った。
「いかにも。さて、未来の若者よ。なぜ、この地獄に迷い込んだ?」
景虎は、僕が未来から来たと告げても、まるで当然のことのように受け入れた。史料では「判断を誤り、自滅した凡将」と酷評されている彼だが、実際に会った景虎は、戦況を冷静に読み、部下から深く信頼される、紛れもない名将だった。
「景虎様、その布陣では危険です!明日の夜半、この谷には豪雨が降ります。敵はそれを待って鉄砲隊で……」
僕は現代の知識——天気予報の断片的な記憶や、簡単な地形学を駆使して、必死に彼を助けようとした。僕が介入すれば、彼が歴史から消えるという「悲劇」を止められるかもしれない。そう信じていた。
僕の助言は的中し、景虎軍は何度か窮地を脱した。だが、事態は悪化する一方だった。僕が歴史を少し変えるたびに、それを打ち消すかのように、敵の大軍が次々と現れるのだ。まるで、歴史そのものが「三雲景虎の敗北」を望んでいるかのように。
そして、運命の日が来た。僕らの軍は完全に包囲され、絶体絶命の状況に追い込まれた。
「これまで、か……」
僕が絶望に打ちひしがれていると、景虎は静かに僕の肩を叩いた。彼の表情に、悲壮感はなかった。
「健太殿。お主のおかげで、多くの兵の命が救われた。感謝する」
彼は僕を本陣の奥に連れて行くと、衝撃の事実を告げた。
「我は、ここで消えることを選んだのだ」
「……え?」
「このまま我らが勝ち進めば、この国はさらに大きな戦乱の渦に飲み込まれる。天下を狙う大名たちを刺激し、犠牲になる民は万では済まなくなるだろう。我一人が消えることで、その未来が避けられるのなら、安いものだ」
歴史から忽然と姿を消したのは、敗北でも神隠しでもなかった。民の平和を願い、自らの存在を歴史から「消去」するという、景虎の壮大な意志だったのだ。史料の「凡将」という評価は、彼の犠牲の上に成り立った、偽りの記録だった。
「行け、健太殿。お主には、我らが守った未来を生きる務めがある」
景虎は僕の手に、あの羅針盤を握らせた。
「歴史は、勝者だけが作るものではない。名もなき者たちの覚悟の上に、未来は築かれる。それを、忘れるな」
背後で、最後の突撃を告げる法螺貝の音が響き渡る。景虎は僕に力強く頷くと、燃え盛る戦場へと駆けていった。その背中は、敗者のものではなく、未来を切り拓いた英雄の背中だった。
涙で滲む視界の中、僕は羅針盤を回した。
気づけば、僕は大学の古文書室にいた。窓から差し込む西日が、床に落ちた僕の涙を照らしている。夢だったのか? しかし、僕の手には、あの羅針盤が確かに握られていた。
僕は憑かれたように、三雲景虎の資料を探した。どの本も、記述は以前と変わらない。だが、一冊だけ、名もなき郷土史家の記した古文書の片隅に、新たな一文を見つけた。
『——土地の古老の伝承に曰く、三雲景虎は民のため、自ら姿を隠したる義将なり、と』
それは、僕だけが知る真実のかけらだった。
僕は羅針盤を強く握りしめた。歴史の記録に残らなくとも、確かに存在した英雄の想い。それを未来に語り継ぐのは、この僕の役目なのだ。
僕の胸には、ワクワクするような、新たな歴史探求への情熱の炎が燃え上がっていた。
羅針盤の示す先
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