忘れられた女王の鎮魂歌(レクイエム)

忘れられた女王の鎮魂歌(レクイエム)

2
文字サイズ:

神崎湊(かんざき みなと)の世界は、埃と古紙の匂いで満ちていた。大学の地下書庫、蛍光灯の頼りない光が照らすのは、誰にも顧みられることのない歴史の残骸だ。彼はその中で、たった一つの幻影を追い求めていた。正史からその名を抹消された、古代の女王「アスカ」。彼の説では、アスカは争いを嫌い、巧みな外交と慈愛で国を治めた平和の象徴だった。だが、学会での彼の扱いは、夢想に憑かれた異端児、その一言に尽きた。

「物的証拠がなければ、それはただの御伽噺だ」

指導教官の冷たい声が、耳の奥で何度も反響する。だからこそ、湊は探しているのだ。アスカが、ただの伝説ではないという、確かな証を。その日、彼が手に取ったのは、虫食いだらけの地方豪族の系譜図だった。何の変哲もない記録。だが、その裏表紙に貼り付けられた羊皮紙の僅かな膨らみに、湊の指が触れた。慎重に剥がすと、現れたのは暗号めいた図形と、霞んだ文字。それは、地図の一部に見えた。心臓が早鐘を打つ。これは、アスカへと至る道標ではないのか。

地図が示す場所は、霧深い山々に囲まれた「忘れ里」と呼ばれる古い村だった。バスを乗り継ぎ、最後は険しい山道を何時間も歩いて、ようやくたどり着いた。村はまるで、時間そのものから取り残されたかのように静まり返っていた。外部の人間である湊に向けられる村人たちの視線は、鋭く、そして冷ややかだった。

村の長老に面会を求めたが、けんもほろろに追い返された。「山の神の眠りを妨げるな。古きものを暴く者は、災いを呼び込むだけじゃ」という警告と共に。失意に暮れる湊に、そっと声をかけてきた者がいた。村の社に仕える巫女だという、小夜(さよ)と名乗る少女だった。透き通るような黒い瞳をした彼女は、他の村人とは違い、湊の話に静かに耳を傾けた。

「あなたが探しているのは、本当に女王様なのですか?」
「そうだ。人々から忘れられた、偉大な女王だよ」

湊の情熱に何かを感じたのか、小夜は少しずつ彼に村の伝承を語り始めた。そしてある夜、彼女は湊を社の裏手にある古い石碑へと導いた。そこに刻まれていたのは、湊の持つ地図の断片と酷似した文様。小夜が口ずさんだ古歌の旋律が、その文様の謎を解く鍵となった。歌詞は、星の配置と地形をなぞらえて、禁じられた場所への道を示していたのだ。

「この先は、誰も入ってはならない場所。それでも、行きますか?」

小夜の問いに、湊は迷いなく頷いた。彼女の案内で、月明かりだけを頼りに険しい獣道を進む。やがて、苔むした巨大な岩壁の前にたどり着いた。歌の通りに特定の岩を押すと、地響きと共に、暗い洞窟の入り口が姿を現した。

ひやりとした湿った空気が、頬を撫でる。洞窟の奥には、荘厳な石室が待ち構えていた。ついに見つけた。アスカの墓所だ。湊は歓喜に打ち震えながら、松明の火で壁を照らした。そこに、アスカの生涯が壁画として刻まれているはずだ。

だが、壁に浮かび上がった光景に、湊は息を呑んだ。そこに描かれていたのは、彼が信じてきた慈愛に満ちた女王の姿ではなかった。描かれていたのは、異形の仮面をつけ、その両手から禍々しい力を放ち、敵兵を次々と薙ぎ倒す、鬼神のごとき存在。その足元には、供物として捧げられたのであろう、多くの民の骸が転がっていた。平和の女王アスカなど、どこにもいなかった。彼女は、国を守るという大義のため、民を犠牲にする強力な呪術を行使し、敵国を恐怖で支配した破壊の化身だったのだ。そのあまりの力と行いを恐れた後世の王が、彼女の存在を歴史から完全に抹消した。壁画の最後のパネルには、民に石を投げつけられ、封印される彼女の姿が描かれていた。

理想は、粉々に砕け散った。自分の研究は、情熱は、人生は何だったのか。湊はその場に膝から崩れ落ちた。追い求めてきた光は、最もおぞましい闇だった。絶望に染まる湊の肩に、小夜がそっと手を置いた。

「これが、女王様の真実です」
彼女の声は、不思議なほど穏やかだった。
「でも、見てください。鬼神の仮面の下で、女王様は泣いておられる」

小夜が指差す先、壁画の鬼神の目からは、確かに一筋の涙が彫り込まれていた。

「民を犠牲にしなければ、国が滅びる。愛するものを守るために、鬼になるしかなかった。その痛み、その悲しみを、誰が知りましょうか。歴史は勝者が記すもの。敗れた者、汚名を着た者の涙は、こうして石に刻まれ、忘れられるのを待つしかないのです」

その言葉が、雷のように湊の心を貫いた。そうだ、歴史とは単なる事実の羅列ではない。そこには、記録されなかった人々の感情や祈り、そして涙がある。アスカは、平和を願うあまり、最も平和から遠い道を選ばざるを得なかったのだ。善と悪、光と闇。そんな単純な物差しでは、人の営みも、歴史の深淵も測ることはできない。

湊は立ち上がった。彼はこの発見を、学会で発表するのをやめようと決めた。こんな衝撃的な事実を「物的証拠」として突きつければ、アスカは再び歴史の法廷で裁かれ、ただの暴君として断罪されるだけだろう。それは、彼女の涙に対する冒涜だ。

村に戻った湊は、荷物をまとめた。小夜が黙って見送りに来てくれた。
「ありがとう。君のおかげで、本当の歴史と向き合えた」
「女王様の魂が、少しでも安らぎますように」

東京に戻った湊は、大学に辞表を出した。そして、真っ白な原稿用紙に向かう。彼は、歴史学者としてではなく、一人の語り部としてペンを執った。史実の証明ではない。鬼になるほどに民を、国を愛した一人の女王の、誰にも知られることのなかった祈りと犠牲の物語を、鎮魂歌(レクイエム)として綴るために。

歴史とは、石に刻まれた記録ではない。それは、忘れられた者の涙を掬い上げ、その想いを未来へと語り継ごうとする、誰かの心の働きそのものなのだ。窓の外で、夜が明け始めていた。湊は、アスカの涙を胸に抱きながら、静かに、最初の一行を書き記した。

TOPへ戻る