墨守(ぼくしゅ)の書庫

墨守(ぼくしゅ)の書庫

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時任奏(ときとう かなで)の一族は、歴史を「編纂」する家系だった。
 ただ記録するのではない。筆一本で、ある出来事を「無かったこと」にし、存在しない英雄を「創り出す」ことさえできる。先祖代々受け継がれてきた『刻詠筆(こくえいひつ)』と『忘却硯(ぼうきゃくのすずり)』。それが、我ら墨守の一族に与えられた、世界の理を左右する禁断の道具だった。

「奏、心せよ。歴史とは、混沌とした人の営みを秩序立てるための物語だ。真実が常に民を幸福にするとは限らん」
 書斎に満ちる古い紙と墨の匂いの中、父であり当主でもある厳格な男は、そう言って奏を諭した。奏は、その言葉にいつも微かな反発を覚えていた。秩序の名の下に、一体どれだけの声が闇に葬られてきたのだろうか。

 その夜、奏は衝動に駆られていた。父が厳重に鍵をかけている書庫の奥、『禁じられた棚』へ。一族の誰もが、当主以外は触れることを許されない場所だ。父の目を盗んで型取った鍵を差し込むと、軋む音とともに重い扉が開いた。
 中は、空気が淀んでいた。何百年という時が埃となって積もっている。その棚に収められていたのは、たった一冊の、表紙のない古文書だった。羊皮紙とも違う、なめらかで奇妙な手触りの装丁。奏は息を呑み、そっとページをめくった。

 そこに描かれていたのは、奏が知るどの歴史にも存在しない、驚異的な文明の姿だった。
『アークトゥルス王国記』
 そう記された書には、ガラスと真鍮でできた高層建築が空にそびえ、空飛ぶ帆船が雲間を縫い、人々が蒸気でも電気でもない、青白い光を放つ『星辰機関(せいしんきかん)』の恩恵を受けて暮らす、夢のような王国の栄華が綴られていた。彼らは身分による差別を撤廃し、知識を独占せず、万人に開かれた議会で国の行く末を決めていたという。
「こんな国が……本当に?」
 奏は震える指でページをたどった。しかし、最後のページは唐突に終わっていた。ただ一文、『星暦三一一年、墨守の介入により、その歴史を閉ず』と。

 父の書斎に戻り、『忘却硯』を手に取った。この硯で墨をすると、消したい歴史に関する全ての記録、記憶、痕跡が世界から霧散する。奏の脳裏に、一族の伝承が蘇った。秩序を乱す可能性のある文明や思想は、芽吹く前に摘み取らねばならない、と。
 アークトゥルス王国は、あまりにも進みすぎていたのだ。その自由な思想と平等主義は、当時の封建的な世界全体の秩序を根底から覆しかねない危険なものと判断されたのだろう。だから、消されたのだ。まるごと、人々の記憶から。

「何をしている、奏!」
 背後から、父の鋭い声が飛んだ。いつの間にか、父が鬼の形相で立っていた。
「父上……なぜです! なぜ、これほどの輝かしい歴史を!」
「輝きすぎたのだ! あの光は、世界を焼き尽くす。我ら墨守は、世界の庭師だ。美しすぎ、育ちすぎた枝を剪定するのも我らの務めだ!」
「それはただの傲慢だ! 僕たちは神じゃない!」
 二人の視線が火花を散らす。父は『刻詠筆』を手に取り、奏を止めようと構えた。歴史を歪める力を持つ者同士の、静かな対峙。

 その瞬間、奏の心は決まった。
 彼は『忘却硯』を置き、代わりに書斎にあった真新しい紙と、ごく普通の筆を手にした。そして、父の目の前で、墨をすり始めた。
「何を……?」戸惑う父を尻目に、奏は筆を走らせた。
 彼は、歴史を書き換えようというのではない。ましてや、アークトゥルス王国を復活させようというのでもなかった。

 奏は、物語を書き始めたのだ。

『むかしむかし、海の向こうの、誰も知らない場所に、星の光で動く機械と、空飛ぶ船を持つ王国がありました。その国の名は――』

 父は、息を呑んで奏の行いを見つめていた。奏は、歴史の編纂者としてではなく、一人の小説家として、忘れられた王国の物語を紡ぎ始めたのだ。真実を直接世界に突きつければ、父の言う通り混乱が起きるかもしれない。だが、物語ならばどうだ。人々の心に種を蒔き、想像力の中でアークトゥルス王国を生き返らせることはできる。忘れられた魂に、光を当てることはできるはずだ。

 書き上げた原稿を手に、奏は父に向き直った。
「僕は、消された声を物語として世界に届けます。これが、僕が見つけた新しい墨守の在り方です」
 父は、しばらく黙っていたが、やがて険しい顔のまま、ふっと息を漏らした。
「……行け。ただし、その筆がお前の魂を食い尽くさぬよう、心せよ」
 それは、許しだった。

 数年後、時任奏の名で出版された『星の海のアルカディア』という一冊のファンタジー小説が、世界的なベストセラーとなった。誰もそれが真実に基づいているとは知らない。だが、物語を読んだ人々は皆、心の中に自分だけの空飛ぶ船を浮かべ、失われたはずの王国の自由な空に想いを馳せた。

 書斎の窓から街を見下ろし、奏は新たな紙に筆を走らせる。彼の書庫には、まだ誰にも語られていない、歴史の闇に葬られた無数の物語が眠っている。それを掬い上げ、世界に解き放つことこそが、彼の選んだワクワクするような闘いだった。

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