空蝉の鳴く村

空蝉の鳴く村

1
文字サイズ:

その村の名は、鳴神(なるかみ)村といった。
 地図からは半ば消えかかったような山間の集落で、僕が卒業論文のテーマにこの村の奇妙な伝承を選んだのは、純粋な学術的探求心と、若さゆえの無謀な好奇心からだった。
「空蝉(うつせみ)の声」。
 夏でもないのに蝉に似た声を聞くと、人は魂を抜かれ、歩く抜け殻になる――。そんな荒唐無稽な言い伝えに、僕は強く惹かれたのだ。

 バスを降りた僕を待っていたのは、噎せ返るような緑の匂いと、よそ者を値踏みするような村人たちの沈黙だった。民宿の予約を告げても、主人は眉一つ動かさず、ただ無言で鍵を差し出すだけ。村の誰に「空蝉の声」について尋ねても、皆一様に顔をこわばらせ、気味悪がって口を閉ざした。
「あんたみたいな若い衆が来るところじゃねえ。早う帰りなされ」
 畑仕事をしていた老婆は、僕の顔を見ようともせず、そう吐き捨てた。この村全体が、何か巨大な秘密を隠すための殻に閉じこもっているようだった。

 唯一、糸口をくれたのは、村はずれの小さな資料館の管理人を名乗る老婆だった。埃と黴の匂いがする薄暗い館内で、彼女は皺だらけの指で古い文献をなぞりながら、低い声で言った。
「ここの声はな、耳で聞くんじゃない。魂で聞くんだよ。一度聞いてしまえば、もうお終いさ」
 その言葉の意味を、僕はまだ理解していなかった。

 その夜、事件は起きた。
 民宿の自室で調査資料をまとめていると、不意に窓の外から音がした。
 ジー……、ジジジ……。
 蝉の声だ。しかし、今はまだ春先で、虫の気配すらない。それは聞き慣れた夏の音色とはどこか違っていた。金属を爪で引っ掻くような不快な響きが混じり、脳の芯を直接揺さぶるような、奇妙な音だった。
 僕は慌てて窓を開けたが、外にはただ深い闇が広がっているだけ。音は数秒でぴたりと止んだ。気のせいか、と自分に言い聞かせようとしたが、背筋を這い上がってくる悪寒は消えなかった。

 翌日、僕は村の異様さに気づいた。
 田畑を耕す男、道端で立ち話をする女たち。その中に、何人か、明らかに様子のおかしい人間が混じっていた。彼らは焦点の合わないうつろな目で虚空を見つめ、まるで操り人形のように機械的な動きを繰り返している。口元は半開きで、生気がまったく感じられない。
 抜け殻だ。
 僕は直感した。あれが「空蝉の声」を聞いてしまった者たちの、成れの果てなのだ。

 恐怖に駆られた僕は、再び資料館に駆け込んだ。老婆は僕の顔を見るなり、すべてを察したように静かに頷いた。彼女の助けを借りて古文書を読み解くうち、僕は戦慄すべき事実に突き当たった。
「空蝉の声」は、単なる伝承ではなかった。それはこの村が、古来から山の神に捧げてきた「儀式」そのものだったのだ。
 声の正体は、山の神自身が発する呼び声。神は定期的に村人の中から供物を求め、その魂を喰らうことで、村に豊穣を約束する。声に選ばれた者は、魂のない「空蝉人(うつせみびと)」となり、死ぬまで村のために働き続けるのだという。
「なぜ、逃げないんですか」
 僕の問いに、老婆は力なく首を振った。
「どこへ逃げるというんだね。この山に生まれた者は、神様からは逃げられんよ」

 その時、資料館の扉が乱暴に開け放たれた。村長を筆頭に、屈強な男たちが数人、険しい顔で立っていた。僕が村の禁忌に触れたことを知ったのだろう。
「余所者は、神の贄にこそふさわしい」
 村長の低い声が響く。僕は咄嗟に裏口から飛び出し、山へと続く道をがむしゃらに走った。背後から複数の足音が追ってくる。

 息を切らして森の奥深くへ逃げ込んだ、その時だった。
 ジー……、ジジ、ジジジジジジィィィィィィ……!
 昨日とは比べ物にならないほど強烈な「声」が、四方八方から僕を包み込んだ。それはもはや蝉の声ではなかった。何千、何万という魂の断末魔が混じり合ったような、冒涜的な音の洪水。耳を塞いでも意味がない。音は頭蓋骨に、脳に、そして魂に直接響いてくる。
 視界が白く染まり、体の自由が利かなくなる。意識が急速に引き剥がされていく感覚。ああ、これが魂を抜かれるということか。僕の思考は、僕のものでなくなりつつあった。

 薄れゆく意識の片隅で、僕はポケットの中のスマートフォンを思い出した。最後の力を振り絞って取り出し、録音アプリを立ち上げる。そこには、調査のために録り溜めていた、僕が元いた世界の音が詰まっていた。
 僕は、再生ボタンを押した。

 ゴオオオオオッ!
 スピーカーから、地下鉄がホームに滑り込む轟音が迸った。続けて、渋谷のスクランブル交差点の雑踏、けたたましいクラクション、工事現場の削岩機のノイズ、救急車のサイレン――。
 無数の人間の意志が、欲望が、無関心が混じり合った、混沌とした現代の音。
 山の神の、単一で絶対的な「声」と、人間の作り出した無機質で冒涜的な「騒音」。二つの音は僕の意識の中で激しく衝突し、火花を散らした。世界がぐにゃりと歪み、僕は意識を手放した。

 ……次に目を覚ました時、僕は村の麓にあるバス停のベンチに横たわっていた。どうやってここまで来たのか、まったく記憶がない。
 呆然と鳴神村の方を振り返る。山々はただ静かに夕陽を浴びているだけで、村の気配はまるで蜃気楼のように希薄に見えた。
 僕は助かったのだろうか。
 立ち上がろうとした、その時。僕は自分の耳の奥で、奇妙な耳鳴りが続いていることに気づいた。
 それは、微かな蝉の声と、遠い都会の喧騒が混じり合ったような、不気味な音だった。その音は、今もまだ、鳴り止まずにいる。

TOPへ戻る